2・
普段、父であるラヴィ―ニュ侯爵とは、夕餉を共にする以外顔を合わせることは無い。それも、月に一度二度あるかないかという程度。年を感じさせないスッキリとした美しい顔立ちが、アイスグレーの瞳と相まってとても冷たく見える。
侯爵は、重々しい足取りで部屋の中央まで進み出る。そして、テーブルの上を見て不快そうに眉を寄せた。セリーヌは、しまったと身を固める。
(Lからの手紙……まだ仕舞っていなかった)
テーブルの上には、これまでに届いたLからの返信と共に、小包の用紙を畳んで置いていた。後程、一緒に紐で括り大切に取って置こうと思っていたのだ。
咎められるかと思い、セリーヌは思わず視線を外す。
恐ろしくて侯爵の顔が見られない。
けれど予想に反して、侯爵は溜息を一つ吐いただけで口を開いた。
「お前の嫁ぎ先が決まった」
「……え?」
「バルとの和平条約が締結されることになったのは知っているな?」
セリーヌは大きく目を瞬かせ、無言のまま小さく頷いた。
彼女が暮らす国ルメローザは、遠い昔にエルフと人間が手を取り合い建国されたと言われている。その名残で、高位貴族ほど強い魔力を持ち、魔法を武器として他国を圧倒してきた。豊かな資源にも恵まれ、大陸でも随一の強国として知られている。
しかし、そんなルメローザが唯一恐れる相手がいた――獣人たちの国、バルだ。
バルは神獣に加護を授けられた各部族が集い、一つの国を形成した部族国家。神獣の血を受け継ぐ彼らは驚異的な身体能力を持ち、その力は戦闘に特化している。怪力、俊敏さ、優れた嗅覚や聴覚、さらには空を飛ぶ力や危険察知の能力まで。種族ごとに異なるその力は、ルメローザにとって脅威でしかなかった。
かつて、ルメローザは『たかが獣』と彼らを見下し侵攻を試みたが、バルの圧倒的な戦闘能力の前に多くの戦力を失い、戦争は泥沼化した。
最終決戦が迫ったその時、バル内部で部族間の争いが勃発。蓋を開けてみると、彼らは一枚岩となることなく、一部の部族のみがルメローザと交戦を続けていたことがわかった。もし、バル全体が団結していたら――その恐ろしい未来が容易に想像でき、以降ルメローザも動きを見せる事無く、停戦状態が続いた。
しかし昨年、バルはクロヒョウ一族を代表に「バル・グラード」と名を改め王政国家を設立。ルメローザは、再び開戦することを恐れ、和平条約を結んだのだった。
セリーヌは、いずれ誰かの後妻か妾として売り払われる身。
馬鹿ではいけないと、侯爵夫人の命で毎朝幾つもの新聞を読んでいる。
和平条約のことも、もちろん知っていた。
けれど、それと自分がどう関わり合いがあるのだろうと首を傾げていると、侯爵は淡々と続けた。
「お前は、バルのクロヒョウ一族の長、ロガン・ドライゼンの妻となることになった。バル・グラードの若き王だ」
「――……っ!」
セリーヌは息を飲み、全身の血が引いていくのを感じていた。
バルにおいて「長」とは、生まれつき与えられる地位ではない。血と牙で勝ち取るものだと聞いたことがある。族長に挑むには、肉親や兄弟、時には盟友さえも手にかけ、その屍を踏み越える覚悟が必要だと。
ある伝説では、長候補の一人が兄弟全員を狩り尽くし、その頭蓋骨を王座の飾りにしたという話さえ残っている。それが「必要な犠牲」として称賛される国――それがバルだ。
さらに、長となっても安泰ではない。その座を狙う強者が常に現れ、敗北すれば命も名誉も奪われ、「弱者」として歴史から消される。
そんな苛烈な世界で、長たちを束ねる国王の妻。
その役目がどれほどの重圧を伴うか、セリーヌには想像もつかない。
セリーヌは、平民の血が入ったために、ほんの僅かな魔力しか持っていない。国王の寵愛がなければ、身を守ることさえ敵わないだろう。
けれど、ルメローザとバルは、どんなに和平を結ぼうとも心の奥では蔑み合っている。『野蛮な獣が』、『人間ごときが』と。寵愛など、受けようはずもない。
(……友好関係を示すだけの政略結婚で、単身人間の私が輿入れすれば……どんな扱いを受けるのか……)
恐怖に身体がガクガクと震える。
けれど、侯爵はそんなセリーヌを一瞥し、淡々と告げる。
「先方は、平民の血など気にしないと言っている。元より、魔力に頼るような国ではない。侯爵令嬢という身分を携えていれば、それで良いと。……どの道、お前にこの国ではまともな縁組など期待できまい。これ以上の話は無いだろう」
「――……して、ください」
セリーヌは喉の奥から絞り出すように声を出した。
侯爵は聞き取れなかったようで、「なんだ?」と冷たく問い返す。
唯一、自分と血を分ける人――その声に縋るように、セリーヌはその場に膝をついた。
「おかあ、さんの元に……いかせてください」
ぽたり、と涙が頬を伝う。胸が張り裂けそうだった。
なぜ、自分ばかりこんな運命を押し付けられるのだろう。ただ母と穏やかに生きたかっただけなのに――。
この家に来てから、逃げたいと思ったことは何度もあった。
だが、そのたびに冷たい水を浴びせられ、寒い部屋に放り込まれた。
『どれだけ良くしてやっていると思っているんだ! 恩知らずが!』と、そう怒鳴られながら。
夜には、露出の多いドレスを着せられ、紅を塗られ、社交界という名の市場に連れて行かれる。艶めかしい視線や、侮蔑のこもった冷たい眼差しを向けられ、そのすべてがセリーヌを傷つけた。目が眩むような羞恥と絶望に耐えながら、ただ立っているだけの日々。
誰からも愛されず、優しさを与えられることもなく、人としての価値さえも否定され続けて――そして今、さらに過酷な運命が待ち構えている。
耐え切れない。これ以上はもう無理だ。
胸の奥が締め付けられ、苦しい息がヒューヒューと音を立てる。
侯爵は、そんなセリーヌを無表情で見下ろしていた。
そして一歩近づくと――バチンッと耳元で乾いた音が響き、セリーヌの視界がぐらりと揺れた。
「――……まだ、そんなことを言っているのか! 馬鹿者がっ!」
頬が熱い。打たれたと気づいたのは、侯爵の怒声が耳に届いてからだった。
侯爵の顔は怒りで赤く染まり、肩を震わせている。
「お前の母は、とっくに死んだんだ! 現実を見ろ! そんなだから周囲から見下され、好き勝手に扱われるのだと、なぜわからない!」
ヒグッ――と、喉の奥が引き攣る。
頭が何かを考えているような感覚はあるのに、言葉は一つも出てこない。
そんなセリーヌを見て、侯爵はさらに苛立ちを募らせた。
「――……こんなものに縋るから、お前はダメなのだ!」
「ダメ……やめて! それだけは……っ!」
侯爵は、テーブルの上に置いてあった手紙の束を掴み、手のひらに炎を灯した。
一瞬で手紙は燃え上がり、黒い灰となって床にハラハラと落ちていく。
セリーヌは、その光景を呆然と見つめることしか出来なかった。
侯爵は無情にも踵を返し、扉を勢いよく開け放つと、外に控えていた使用人に命じた。
「他国に嫁ぐのだ。手紙など不用意に書かれて、間諜などと疑われてはたまらん! 今後、こやつに紙とペンは渡さなくてよい! 明日から礼儀作法を再度徹底的に叩き込み、変な考えを起こさぬよう常に人を付けておけ!」
バンッ――と、扉が閉まる音が響き渡る。
火は、手紙だけを正確に燃やし消えていった。
手元には、微かな灰だけが散らばって残った。
(……燃えちゃった、手紙……なくなっちゃった)
ぽたぽたと涙が落ちる。
それでも、声を上げる気力もない。
ただその場に小さく蹲り、泣き続ける。
(お母さん……助けて)
どこかで冷めた心が、「泣いても意味なんてない」と囁いている。
だけど、母が胸に残した愛情を、失われた手紙がくれた温もりを、必死に思い出そうとするかのように――セリーヌは、涙を止められなかった。
貴重なお時間を使ってお読みいただき、ありがとうございます。
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