「好き」を初めて知った時 〜恋を知らない王子が、歳上の閨教育係に惚れ込むまで〜
とあるパーティーで、ぼくはなぜか令嬢たちに取り囲まれていた。
「あなたごときが殿下に相応しいとでも思っているの!?」ときゃんきゃん吠えたてている大勢の上級貴族の令嬢、そしてぼくの腕にしがみつく少女が一人。
「マーク殿下がわたしを選んでくださったんです! ですよね、マーク殿下?」
子リスのようなくりっとした目でぼくを見上げる少女。確か彼女は、商家から成り上がった子爵令嬢だったか。
こういう娘は可愛くて好きだ。でも――。
「選んだって何のこと? きみを特別に選んだ覚えなんてないよ」
傷ついた顔をされたけれど、そんな顔をされる意味が全くわからない。
だって、ぼくは「好き」って言っただけなんだから。
◆
「好きだよ、ブランシュ嬢」
「セシル嬢は今日も綺麗だね。きみのことが好きだから、一緒に踊れたら嬉しいな」
「エディット嬢の瞳は宝石みたいだ。その瞳、ぼく、大好きなんだ」
社交界には、可愛い令嬢がたくさんいる。
十二歳で社交デビューを果たしたぼくは、美しい彼女たちに囲まれて、充実した日々を送っていた。
小柄なぼくは同世代の令息に馬鹿にするような目を向けられがちだ。王子だから表立って言ってこないだけ。
反して令嬢たちは可愛いし優しい子が多い。だから、ぼくの友人は令嬢ばかりだった。
ぼくが「好き」と言うのは、良好な関係を築き、その関係を政治に役立てるのが王侯貴族の務めの一つだからだ。
だが、たまになぜか友人らしくない、妙な絡まれ方をされるから困る。
今回もまた絡まれ、ぼくの対応が何か問題があったのか、平民上がりの男爵令嬢が社交界に顔を出さなくなった。
その話を受けてなのだろう、母である王妃にぼくは呼び出された。
「マーク。おまえはいつまで子供でいるつもりなのです」
十五になったら婚姻しなければならないのですよ、と、呆れ顔でため息を吐く母。
婚姻が三年後に迫っているのは、百も承知だ。王家にとって良き縁であればいいと思う。
「おまえには勉強ばかり叩き込んで、それ以外を疎かにしてしまったのかも知れないわね」
「それ以外、とは?」
「男女についての教育です。おまえの教育係を新しくします」
……ん?
教育係と今の話に何の関係が?とぼくは首を捻る。
しかし母は答えてくれることはなかった。
そんなことがあった数日後。
ぼくの前には、見知らぬ女性がいた。
「初めまして、王子殿下。お初にお目にかかりますわ」
さらさらとした栗色の髪。エメラルド色をした切れ長の瞳がまっすぐにぼくを射抜く。
まるで夜着のように薄く透けたドレスからは甘い香りが漂い、思わずぼくの目は釘付けになった。
歳はおそらくぼくよりずっと上。なのに今まで見てきたどの令嬢よりも美しかった。
「ふふ。殿下の教育係に任命されました、ヨーリエ伯爵家のリディアと申します」
「ヨーリエ伯爵家?」
「あらあら、ご存知ありませんのね。とある貴族と愛人の間に生まれ娼館で育ち、娼婦の身から買い上げられ、社交界で散々蔑まれた挙句に夫を喪った哀れな未亡人。それが私ですわ」
リディアと名乗る彼女の言っていることの半分以上はわからなかった。娼婦が卑しい者だと言われていることくらいしか知らなかったから。
「これから殿下に色々とお教えいたします。どうぞ楽しみにしていてくださいませね」
唇を笑みの形に歪めるリディア。
ぼくはやはり彼女の顔から目が離れないままに、こくりと頷いた。
◆
リディアは宣言通り、ぼくに様々なことを教えてくれた。
いわゆる閨教育というものらしい。護衛も立たせず、二人きりになった夜の部屋で聞かされる講義の内容はひどく恥ずかしいものだったが、いまいち実感は湧かない。
――可愛い令嬢たちにあんなことやそんなことをするなんて。
王子の務めであり、必要なことだというなら、いずれは行うのだろう。
そう思うだけだ。
そんなことよりぼくは、リディアに強く興味を惹かれていた。
リディアみたいな女を、今までぼくは知らなかった。
妖精じゃ何かじゃないかと思うほど綺麗で、おっとりとした口調なのに端々に毒が感じられて、微笑みがなんだか悲しそうで。
とても、寂しそうな人だった。
そんな彼女を指差しながら「元娼婦が王子殿下の教育係なんて烏滸がましい」と何も知らない使用人たちがくすくすと嘲笑う。
腹が立ったので、後日その使用人たちは紹介状なしで解雇しておいた。
リディアはずっとあんな声に耐え続けてきたのだ。そう思うと胸がキュッとなった。
ぼくならばリディアの寂しさを埋めてあげられるだろうか。
――友達に、なってあげたい。
そう思うようになるまで時間はかからなかった。
「好きだよ、リディア」
だから。
ぼくにとって最大限の親愛の言葉を告げた。
直後、リディアの手がするりと伸ばされて……勢いよく抱き寄せられる。
「ねぇ、殿下。『好き』ってそんな安っぽく囁いていいものではありませんのよ。私が本当の『好き』を教えてあげましょうか?」
ぼくより頭二つ分ほど背の高い彼女は、グッと身を屈めてぼくと視線を合わせる。
そして、顔面をそっと近寄せ、唇を触れ合わせると同時に舌を捩じ込んできた。
「ん――っ」
何をされたかわからない。
頭の中が真っ白になり、気づけばぼくは。
傍にあったベッドに、リディアを押し倒していた。
大きく膨らんだ柔らかな胸がぼくの腹部と密着する。
ぼくの非力な腕でも折れてしまいそうに細いリディアの体、それに上半身でのしかかった自分の行動の意味がわからない。
ぼくはただ、リディアと友達になりたかっただけのはずだ。
そのはずなのにどうして、閨教育で習ったような体勢になっているのだろう?
「あらあら、深いキスをしただけで男としての本能が目覚めてしまいましたの?」
「男としての、本能……?」
「『好き』なんて言ってしまったら男女の関係になりたいという意思表示と捉えられかねない。そのことを体感していただこうと思ったのですが、ウブな殿下がご自分から動かれるだなんて予想外でしたわ。閨教育の賜物ですわね」
ぼくの下敷きになったリディアがくすくすと艶やかに笑った。
「本当の『好き』とはこういうことですわ、殿下。想いが溢れて相手を食らい尽くしたくてたまらない……。親友としての好感もあることでしょうけれど、結局はこの本能こそが真理なのです」
そうか、ぼくの周りにいた令嬢たちは皆、いずれは夫婦の関係になることを期待してぼくの言葉を聞いていたのだ、と納得する。
友愛と性愛、その違いを知った瞬間だった。
今リディアに抱いている『好き』の想いがどちらかと言えば、後者なのだと思う。
友愛のつもりでいた。だがそれはきっと間違いで、リディアを押し倒したぼくの胸は、うるさいくらいに高鳴っている。
「私を抱かれますか、殿下? 言葉だけでの閨教育では全然足りませんものね。私を使って、たっぷり閨指導して差し上げましょう」
胸は高鳴っている。今すぐにでもリディアに襲い掛かりたい、男の本能も確かにある。
けれども無感情にじっと視線を向けてくるリディアの瞳をひとたび見てしまえば、そんなことはできなかった。
彼女は元娼婦だ。彼女が教育係になってから、娼婦というものについて調べた。
高級娼婦は別だが、一般的な娼婦の待遇は劣悪らしい。まるで道具かのように使われ、甚振られ、気に入られれば本人の意思とは関係なしに買い上げられる。
人権なんてないも同然。故にこそ何度もこんな場面は経験してきたはずだ。
これじゃダメだ、と思った。
リディアに寄り添い、寂しさを埋めてあげるのがぼくの成したいことなのだから。
彼女に覆い被さっていた己の体を引き剥がして立ち上がった。
「好きだよ、リディア。……ごめん。好きだけど、好きだからこそ、リディアの閨指導は要らない」
「意味がわかりませんわ?」
「友達としてじゃない『好き』でもさ、いきなりベッドから始めるのはおかしいと思うんだ」
きょとんとするリディアへと、静かに想いを口にする。
「リディア・ヨーリエ元夫人。まずは友達から始めよう。それから、もしもリディアもぼくを好きになってくれたら――」
伯爵家に属してこそいるものの夫は亡く、何の後ろ盾も持たない彼女。
しかも娼婦の出身で、歳も離れている。たかが子供の気の迷いと断じられ、両親や臣下たちに猛反発を受けるのはぼくでも簡単に予想がつく。
友人たち……ぼくの妻になりたい令嬢はまたきゃんきゃんと吠えたてるだろう。彼女らの悪意からリディアをかばいきれるかわからない。
それでも、他の令嬢ではなく、リディアがいい。
「ぼくの妃になってください」
見開かれるエメラルドの瞳。震える唇。
押し倒されても余裕そのものだったリディアの表情が、初めて歪んだ。
「私を妃に? そんなのあり得ませんわ。寝言は寝ておっしゃってくださいませ。それに、殿下には可憐で家格の釣り合ったご友人がいらっしゃいますでしょう」
「ぼくは真剣だよ。真剣にリディアが好きだし、幸せにしたいと思ってる」
きっと彼女はぼくの言葉を信用できないだろう。
でも、それでいい。信頼は少しずつ積み重ねていけばいいのだから。
「……あらまぁ、仕方のないお方ですこと。それほど好きだというなら、友人程度にはなって差し上げましょうか。では、マーク様とお呼びしても?」
「もちろんだよ。ありがとう!」
ぼくは満面の笑みをリディアに向けながら、彼女の白魚のような手を取り、握り締めた。
これがぼくと彼女――いずれ夫婦となる二人の特別な関係の始まりとなった。