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日常崩壊  作者:
1/1

―発端―


「――……こりゃひでなあ……」


髭を生やし髪をボサボサにした刑事が呟いた。


彼が見ているのは死体だ。しかし、その死体は人と呼んでいいのだろうか。


体の所々は食い千切られ外の外壁から解き放たれ剥き出しになった内臓がこちらを静かに覗いている。


現場に残った鮮血が事件当時の生々しさを伝え、見ているだけて脳ミソごと包み込まれてしまいそうな気分だ。


その雰囲気にやられてか現場には目を背ける人、口に手を押さえ壁にもたれかかる人、ましてや興味津々に死体を覗き込む者も居る。


「本当に人間の犯行か…全く、狂ってやがるぜ」


この髭を生やした刑事もそうだ。


しゃがみこみ多少引き気味ながらも死体を観察し今まで関わってきた事件の中で似たような事例があったか頭の中で模索していた。


彼の名は「瀬川卓矢」

今年で還暦を迎えすぐそこに退職を控えたベテラン刑事だ。


ただ数十年勤めてるだけでベテランと呼ぶにふさわしいかどうかは曖昧だが彼のおかげで解決した事件は少なくない。


彼の評判は良く誰からも頼りにされる存在だった。


だがその信頼性が裏目に出て自分達だけでは心許ない事件には迷わず「瀬川さん」に頼る流れが出来上がってしまった。


今回も急に呼び出され身なりもおろそかなまま現場に向かう事になってしまったのだ。


「瀬川さん…よく平気で見られますね」


気分を悪そうにし口元を手で押さえた若い男が話し掛けてきた。


「何だ木島、鑑識の癖して死体もまともに見れんのか?ほら、よく見ろ!」


瀬川は立ち上がると木島と呼ばれる鑑識の首根っこを掴み無理やり死体の顔と近づけさせた。


案の定、所々穴の開く顔とご対面した若人は全身を飛び上がらせ、


「な、何するんすか!もう少しで死体にキスするところでしたよ!」


と言い放てば壁ぎわに張り付いたまま動かなくなった。


ちっ、と舌打ちをする瀬川。

その舌打ちは未熟な鑑識を小馬鹿にする行為か、それとも死体と接吻出来ず惜しかったなと思う気持ちの現れか、


混乱した木島の頭ではどちらが正しいのか分からなかった。


しかし悠長としている時間は無かった。

今は夜中だが早朝になれば人通りが多くなり騒ぎが大きくなってしまう。


何せ事件現場は


何の変哲もない


コンビニエンスストアで起きたのだから。


「さぁお前ら早く回収して検死するなり人物特定してくれよ、じゃないと俺も動きようがねぇからよ」


慌てて作業を始める鑑識の中に紛れてノリ気じゃない木島の姿がよく目に映った。


顔は誰かも分からぬほど傷つけられ人間の歯形らしきモノも見受けられる。


指はかろうじて数本残っており指紋が取れる事は幸いだった。


鑑識が手を真っ赤に染め上げながら臓物を広い集める最中、瀬川の考えは一つにまとまっていた。


犯人を必ず見つける、と


還暦を迎えたばかりの刑事が柄にもなく犯人に対する敵対心で燃えていた。




だが、この事件の闇は遥かに果てしなく救いようのない絶望が待っている事に


この時、誰も気付きはしなかった。


「――……検死の結果、刃物は一切使われず人間の『歯』だけで殺害が行われたようです」


「死亡推定時刻はおよそ24時〜25時の間に死亡したと思います」


「…よくもまぁこんな滅茶苦茶にしてくれたものね、解剖するこっちの身にも…――


次々に浴びせられる死因結果を老いた脳に刻んでいった。


瀬川は一度本部に戻り、ここ検死室に来ていた。


「――……で、瀬川さん聞いてます?」


スタイルが良く顔の整った若い女性が不安げに瀬川を覗き込んでいた。


「あ、あぁ悪い悪い、つい死体にばっかり目が向いてな」


「もう、貴方って事件の事になるとホント周りの事が見えなくなるのね」


検死室に不釣り合いな可愛らしい怒り顔がそこにあった。


「で、この死体が一体誰なのか分かったのか?」


事件当初から一番気になっていた疑問を瀬川はぶつけてみた。


「えーと…もう少し掛かりそうなの、何せ死体の状態が悪いから…」


そうか、と、しわがれた声で呟けばヨレヨレのコートを羽織り


「一度本部に戻る。それと木島に言っておけ、あれぐらいの死体で吐くんじゃねぇ、とな」


苦笑混じりの検死室の女神の顔がそこにあった。


検死室を後にした瀬川は事件の全容を改めて整理してみた。


死亡時刻は24時〜25時の間、


じゃあ犯行時刻は何時だろうか?


人間を食い殺すのにどのくらいの時間を要するのか?


瀬川は困惑した。

まず死体発見当初は大人か子供か、性別すらも分からなかった。


性器は食い千切られ衣類は血でこびり付き原型を留めていなかった。


検死の結果で死亡したのは男性と言われるまで誰も気付く事が出来なかった。


けどそこまでする必要が何故あったのか?


ただ殺すだけなら刃物だけで十分、酷い死を目の当たりにしないと絶頂できない快楽殺人者か?


まず犯行現場もおかしい、深夜とは人の目につくコンビニで人を殺すなんて…


「そういえば…」


瀬川は誰にも聞こえぬ程度にボソッと呟き、重要な事を思い出した。


現場に居合わせたコンビニの店主だ。


事件現場に駆け付けた時は放心状態で時折、鈍いうめき声を発し、


普段なら署に連行するところだが仕方なく病院に連れていったのだ。


彼の姿はまるで、心ここにあらず、の状態だった。

ふと腕時計に目をやった。

長年使ってるおかげで傷がつきボロボロだ。


短針は午前10時を告げている。


今行けば店主から事件当時の店内の様子を聞けるかもしれない。


徹夜明けの重くなった瞼をカっ、と開き今すぐ向かう事を決意した。


店主の様子はまだ若い刑事が見ているが


如何せん、経験を積んできた俺に比べればヒヨコ程度だ、と


瀬川は伸びきった髭を触りながら自負していた。


そうと決まれば立ち止まる暇はない。


警察署から出た瀬川はこれまたボロボロに傷ついた四輪車に乗り込み


エンジンをかけると数キロ先にある病院へと走っていったのだった。

八雲病院。


つい最近改築したばかりの大病院で外観は前とは見違えるほど華美で清潔感を漂わせていた。


最新の医療器具が備わっており隣の県から通ってくる者も少なくはない。


そんな大病院の駐車場で似つかわしくないオンボロ自動車を止め、


瀬川は院内に入っていった。


院内は明るく広々と奥行きもあり、外から見た病院の風景を壊さない程度に作られていた。


だが瀬川は今さら驚きもしなければ清潔に保たれた備品に見向きもしない。


彼の身体はある種の精神病に蝕まれていた。


週に一度病院で渡される精神安定剤無しでは仕事もままならない。


その痛みは彼だけにしか分からず、誰かと痛みを分かち合う事さえ出来なかった。




「瀬川さん?今日は薬をお渡しする日じゃありませんけど、どうかしたんですか?」


若い看護婦が話し掛けてきた。

この顔には見覚えがある、精神科に勤めている「秋仲律子」だ。


彼女は何枚も重ねられたファイルの束を重そうに持ちながら首を傾げていた。


肩まで伸びる綺麗な黒髪がやけに印象的でこの顔は忘れる事がなかった。「あー…ちょっとした用事でな、ファイル持つの手伝ってやろうか?」


「いいえ、結構です。一人で持っていけますから」


強情なところも律子特有の性格だ。


彼女は他人の力は借りず自分の意志だけで乗り越えて行きたいらしい。


彼女の強い決意は尊敬に値するものだが、それに相反して


『ガシャ、ガシャーン!』


鈍臭いところが玉に瑕である。


瀬川が予想した通り、ファイルを床にぶちまけた看護婦の姿が滑稽に映った。


「やれやれ…無理はするなといつも言ってるだろ」


律子は「うー…」、と喉元を悲しげに鳴らしながら


二人でバラバラになったファイルを掻き集めた。

結局積まれていたファイルの三分の一は瀬川が、


後は律子の強い要望で持つことになった。


失敗してもめげないところが彼女らしい。


「ありがとうございます、瀬川さんって意外に優しいんですね」


「意外は余計だ、全く近頃の若い奴は…―」


くどくど説教しながらそれを聞き流す律子。

二人の関係はいつもこうだ。


律子が毒舌を放てば瀬川がその部分を丁寧に訂正する。


二人で歩いていると、はたから見れば親子のようで院内でも有名だった。


「で、このファイルは何処に持っていくんだ?」


「急かさないで下さい、ファイルは集中治療室に持っていきます。」


瀬川の足が止まった。

額、背中、脇

全ての毛穴という毛穴から冷や汗が飛び出した気分だ。


俺はこの後の症状が分かる。まず喉が物凄く渇き、息苦しくなる。


そして荒い息遣いへと変わり今すぐにでも喉元を掻き毟りたい衝動に駆られる。


次には心臓が鷲掴みされるような、


苦しい、とにかく苦しいと。感覚を苛まれ瀬川という人格を簡単に踏み潰されてしまう気がする。


「…せ―わさん?顔―ろが―いですよ?」


瀬戸際だ。近くに居る律子の声すら聞き取れない。


自然に薬と水の入ったペットボトルがあるポケットへと手が動く、


最後に薬を飲んだのは何時だったか?

そんな事はどうでもいい。


副作用など気にせず今楽になればいいのだ。


薄れゆく意識の中で粉薬の苦さと喉を通る水の心地よさだけが鮮明に残っていた

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