4 独白
サーロスは、ひとしきり泣いて眠ってしまったセレーネを、ブランケットを敷いた床に寝かせた。涙でメイクはぐちゃぐちゃだが、間違いなくセレーネ姫である。そのあまりに美しい瞳を、彼が間違えることはなかった。
サーロスは短くなったろうそくを交換する。先ほどよりも力強い明かりが、部屋を照らす。
セレーネの姿が、はっきりと見えた。彼は息を呑んだ。セレーネのスカートの裾がめくれている。
プレイボーイなサーロスも、未来の女王にそんな不躾を働く勇気はない。
サーロスは彼女にもう一枚のブランケットをかけるため、ゆっくりと近づいた。
そこで彼は異変に気付いた。
彼女の太ももあたりに、大量の痣が見えた。よく見ると、体のあちこちに痣や傷跡、蚯蚓腫れがある。古いものから、丁度数日前についたようなものまで、さまざまである。
(どういう……)
疑問と、少しの好奇心から彼がセレーネに触れようとしたところで、彼女が寝返りを打った。
サーロスは冷静さを取り戻し、慌てて彼女にブランケットをかけた。
プリンセスに痴漢した罪で逮捕なんて、たまったものではない。
ふと、彼女をここに寝かせておくことのほうが余程重罪なのではないかと考えたが、セレーネの寝顔を見ると、起こす気にならなかった。
(それにしても、いったい何があったんだ?)
傷だらけのプリンセスが、裸足で助けを乞うなんてよっぽどのことだ。悪党にでも襲われていたのだろうか?しかし、あの傷のつき方は日常的な……
考え始めると、きりがなかった。サーロスはじっとして考えることは苦手だ。
サーロスはギターを手に取り、セレーネを起こさないように、そっと弾き始めた。
憂鬱な時、ふさぎ込んでしまう時、考え込んでしまう時、心を救うのはいつも音楽だ。
彼が知っているふたつの音楽の、もうひとつ。なぜ知っているのかは彼にも分からないが、彼の心の奥底に刻まれた歌である。不安な時は、いつもこれを歌っていた。
「眠れ、眠れ、愛し子よ。お前がこの音色の中、幸せに満ちますよう……」
声の出がおかしい。
緊張で、のどが渇いてしまったらしい。サーロスは汲み置きしてある水を手ですくった。
「う、うぅ……。」
背後からした声に、彼は口に含んだ水を吹き出しそうになった。見ると、セレーネが涙を流している。サーロスは彼女に歩み寄った。
彼女の涙をそっと指で拭う。
すると、先ほど扉を焦って閉めた際にできた擦り傷が白銀色に光り、完璧に治ってしまった。サーロスは、初めて彼女の魔法の正体を知ったのである。
ふと、先日見た衛兵の屋台を思い出した。
「月の涙、って、まさか……。」
セレーネの瞼が開いた。潤んだ瞳が露になる。
サーロスは慌てて彼女から離れ、サーロスはリンゴを二つに切って、片方をセレーネに渡した。
セレーネはしばらくそれを持て余した後、小さな一口でちびちびと食べ始めた。
サーロスは暫くどう話を切り出そうか迷っていたが、先に口を開いたのはセレーネだった。
「セレーネです……セレーネ・フェルマータ。」
「あ、知ってます。……違うか、俺、サーロスです。」
「サーロス、助けてくれてありがとう。」
思っていたより幼いしゃべり方だ、とサーロスは感じた。今横にいるセレーネは、成人祭の初日で見た凛々しく知的な印象とは異なり、迷子になった幼子のようだ。
そう思い、セレーネを見る。彼女は震えていた。
(寒いのか?)
サーロスは慌ててロウソクを手に取り近付けた。
すると、彼女はその火に怯えるような仕草を見せた。瞳孔は開き、麗しい瞳がうるんでいる。震えは先程よりもましたようにすら思える。
サーロスはロウソクを元あった場所にもどし、彼女の背中にブランケットを掛けた。
再び、しばらくの沈黙が訪れた。しかし、今度は焦らなかった。サーロスは、この沈黙が彼女にとって必要な間であると気づいたのである。彼の予想通り、セレーネは少し深呼吸をしたあと、話し始めた。
「……助けて……。」
彼女の声はまるで捨てられた子犬のように、弱弱しく、そして悲痛だった。
しかし、サーロスも「はいもちろん」と言えるほど愚かではない。若きプリンセスの反抗期に付き合わされて投獄なんて御免だ。
「何か、あったんですか?」
「月の涙の正体、しってる?」
サーロスは言葉に詰まった。彼女に触れたことは、明らかに不敬である。
しかし、この狭い空間に二人閉じこもっていることの方が問題だ。今更不敬を気にしている場合ではないと考えたサーロスは、その重い口を開いた。
「姫が水に魔法をかけたもの、と思っていました……以前までは。でも、さっき涙に触れて、その……」
「気づいたのね。」
「……すいません。」
「いえ、違うの、怒ってないの。」
セレーネはリンゴを齧った。一口が大きくなっている。少しずつだが回復しているようだ。
サーロスはセレーネの顔色を窺った。確かに、怒ってはいない。しかし相変わらず寂しげな視線を向けている。
「……落ち着いて聞いてね。」
セレーネはそう言って、大きく深呼吸をした。その言葉は、どうやら自分自身に向けられたものらしい。サーロスもその神妙な面持ちに思わず息を呑む。
「私、虐待されている。」
「え……そ……」
サーロスは言葉を失った。
そのとき、彼の中ですべての点が一つにつながった。
魔法の力を持つプリンセス、月の涙、表に出てこない姫、逃げてきたセレーネ、枝のように細い腕、体中の傷跡……
最悪の可能性がセレーネの脳裏を駆け巡る。
「それは、涙を、取るために……?」
セレーネは涙目で頷いた。
「暴力を振るわれた?食事が与えられなかった?酷いことをされた?」
サーロスの沢山の問いかけに、セレーネは潤んだ瞳で彼を見つめながら頷き続けた。
サーロスはほとんど放心状態であった。
プリンセスから涙を得るために、まだ成人もしていない少女を虐待するなんて。サーロスの中の正義感が、音を立て始める。
「涙が流れないほど、心が壊れてしまわないように……期間を開けながら、ずっと……。」
「そんな……。」
惨すぎる。彼女の体の傷がどのような経緯で作られたのが容易に想像できてしまい、サーロスは吐きそうだった。
サーロスはこみ上げる怒りと吐き気を必死に抑え、リンゴを齧った。食欲はなかったが、そうしていないとおかしくなってしまいそうだった。
「成人を迎えて結婚したら、私は国政に関わる権利すら奪われて、一生拷問部屋行きだと、父が……。」
「だから今日、逃げてきたんですね?」
「はい。音楽が禁止されたのも、私が音楽を聴く笑顔になるからで……」
サーロスは王に対して、激しい軽蔑の念を抱いた。しかし、国中の全員が王を、セレーネを虐待し、ひどい言葉をかけ続け、人の不幸のために音楽を禁止したあの王を、尊敬している。
サーロスはおもむろに立ち上がり、ギターを掴んだ。
「俺に、あなたを助けさせてください。」