誰も信用してはいけない
結局ニーナの意思を酌んで散歩とまではいかないが景色のいい東屋で過ごす事となった。グレン的には思惑と外れず良い筈なのにニーナの体調を思えば心が重くなっていた。そしてデールは護衛官らしく遠巻きで警護をすることとなった。姿は青年のままだ。以前の少年の姿の彼を見知っているものが多く、オルセンの者と分かると不味いからだった。そこで正体を隠し一介の護衛官という役となったようだ。
だからその東屋にはグレンとニーナだけだった。マーシャはお茶の用意をしただけで去って行ったから本当に二人だけのようなものだ。でも離れた所にある宮殿の方からは多くの視線が感じられた。皆が様子を窺っているのだろう。不安な顔をしたニーナがその方向に視線を向けた。
「気にすることは無い。今は見ているだけで何も出来ないだろう」
グレンは何でもないようにそう言った。
「これだけ見晴らしが良いと何かを仕掛けるのは無理だし、近くに潜んで我々の話しを盗み聞く事も出来ないだろう。色々と話すには都合がいい」
「色々な話しですか?」
ニーナは彼がこれ以上何を話したいのか分からなかった。
「これから言動はもちろん行動にも気をつけて欲しい。皆が貴女の一挙一動を見ているだろう。それに此処では私とデール以外は誰も信用してはいけない」
「えっ?誰も?マーシャ・・・マーシャも?」
グレンの言葉に驚いたニーナは侍女のマーシャの事が頭に過ぎった。命が狙われるから用心するのは分かるがマーシャは大丈夫だと思ったのだ。
「マーシャ?ああ・・・侍女のことか。もちろん彼女も信用してはいけない。全てを疑ってかかることだ。この用意された茶でも迂闊に飲むものではない。飲み物は最後まで飲み干さない。器の底に毒が仕掛けられているかもしれないからな。口を付ける器の縁は拭って飲む事だ。毒が塗られている可能性がある。それに―――」
グレンは言葉を止めた。ニーナが青ざめて俯いてしまったからだ。
「わ、私はマーシャを・・・マーシャを信じています・・・だから・・・」
「―――それは裏切られた事の無い者がいう言葉だ。信じて裏切られた時はもう遅いと思え。その時は既に死んでいるだろうから・・・だから誰も信じるなと言っているんだ」
淡々と言うグレンの隻眼はまるで深淵を覗いているようだった。ニーナはそれでも違うと言いかかった時、初めて見る侍女が近づいて来た。その手には果物を盛った器を持っている。不審な感じは全くしなかったのにデールが動いてニーナの傍に立った。
するとグレンがふと満足そうに微笑んだ。
「流石だな。こうも簡単に見破られるとは思わなかったよ」
「なんだ?あんたの手の者か?それにしてもその格好、あんたの趣味か?」
ニーナは彼らが何の話をしているのか分からなかった。デールが近くに来た時は空気が張り詰めたような緊張感があったが、今はそれが一瞬で緩んだような雰囲気だ。しかし二人の視線を追えば話題は今来た侍女のようだった。彼女はそれを気にする様子も無く器をテーブルの上に置くとニーナににっこりと微笑みかけたのだ。どこかで見た事のあるような顔の美しい侍女の笑顔につられてニーナも微笑んだ。
「普通の奴なら女にしか見えないな」
デールが呆れたように言ったがニーナは驚いた。
「女にしか見えないって・・・まさか・・・」
果物の一つを取ると食べ易いように切り分け始めている侍女をニーナは見た。目が合うとまたその侍女は微笑んだが・・・
「私の密偵ジーンだ。これは何にでも身をやつす。だから侍女として姫の近辺警護に当らせる為に呼んだ」
「オレだけじゃ信用出来ないとでも言いたいのか?」
デールは流石に周りの視線を気にして大人しく声を荒げずにグレンを睨んで言った。
「そういう訳じゃない。護衛官でも入れない所で守る者が必要だろう?寝所はもちろん湯殿や着替え室など女にしか行けない場所は沢山ある」
「で、でも・・・この方・・・女性では無いのでしょう?」
寝所ならまだしも湯殿や着替え室と聞いてニーナは唖然としてしまった。女装はしていても男性に自分の裸を見られるなど考えられないからだ。
「生憎使えそうな女の密偵はいないから我慢してもらおう。それにこの者は姫が心配するような感情は持ち合わせていないから安心するがいい」
「安心?用心深いあんたが随分信用しているんだな?何者なんだ?女装が趣味の只の密偵という訳じゃないだろう?」
「―――これは元々私の身代わりで生かされているだけの存在の無い者だ」
ニーナは益々意味が分からなかった。
「身代わりに・・・存在しない??」
「血縁者だろう?そんなにそっくりならこないだの偽者とは大違いのようだ」
デールは初めてシーウェル王と謁見した時の人物と比べていた。グレンはその時身分を隠していたので偽者を王座に座らせていたのだ。
しかし事情を知らないニーナはデールの言った事に驚いた。二人は雰囲気も何もかも違っていてそっくりだとは思わなかったからだ。
「そう・・・彼は私と母が同じ。危険が多い私の為に母が作った身代わり人形―――歳こそ一つ違うが世間から隠し、何から何まで同じように似せて育てられた―――正妃だった母は世継ぎを産んだその瞬間から用無しとして王から捨てられたようなものだったらしい。しかも後に控えていた側室達が王子を産めば私が殺されると思ったようだ。そこで考え出されたのがジーンという存在だった。王と良く似た男と密かに関係を持って身ごもり良く似た人形を作った。私を守ると言うよりも我が身の地位の安泰に固執した愚かな女の妄執だ―――」
グレンは人事のように淡々と言った。
「危険がある時はそいつが表に出たという訳?それこそ公式の場は暗殺にもって来いだろうな。世継ぎが死んだら王妃でもお払い箱になるからか・・・本当に此処は腐ってる!」
デールは嫌なものでも見たかのように顔をしかめて言った。ニーナは真っ青になって震えだした。人はそこまで非情になれるのかと怖くなった。我が身を守る為に我が子を犠牲にする母親がこの世にいるとは思えなかった。
「逃げ帰りたくなった?ニーナ姫?」
グレンが薄く嗤いながら怯えるニーナを覗き込むように言った。ジーンの存在理由や出生の秘密は極秘であり殆ど知られていないものをグレンは何故か彼女らに話してしまった。まだニーナをこの陰謀渦巻くシーウェルから去らせたいと思っているのか?
「―――いいえ。私は逃げません・・・この方が今、身代わりだけの人生ではなくてこうしているという事はそういう境遇から助けられたのでしょう?それに裏切りを心配される王が・・・信用する方を私に付けてくれるのだから大丈夫です・・・王にもちゃんと信じている人がいて私は安心しました・・・あっ・・・ごめんなさい・・・私、何言って・・・」
ニーナは早く喋ろうと思うから思いついた言葉を並べてしまうので内容がちぐはぐになってしまい恥ずかしくなった。自然と頬が赤らんでしまう。
グレンは彼女の口から〝信じている人がいる〟と言われて驚いてしまった。
(私がジーンを信じている?この私が?)
確かに生まれた瞬間からグレンの代わりになって危険な目に合うようにしか育てられなかったジーンを解放したのは彼だった。と言うよりも隠居させた母親から権利を移行させただけのようなものだろう。彼のグレンの為だけに生きていると言う幼い頃から刷り込まれた心を利用して都合良く使っていた。感情を持たないように育てられていた彼は疑問を持たず言われた事に従うのだ。自分の身代わりだけにしておくのは勿体無いと思っただけ・・・血を分けた弟だとも思っていないし都合のいい駒としか思っていなかった。
(信用しているのだろうか?)
「―――いずれにしてもジーンを侍女として警護させる」
「あの・・・マーシャは?」
「あの侍女は実家から呼び戻されるだろう・・・そうなるようにしているから問題は無い」
「そうですか・・・そうですよね。危ないからそれが良いでしょうね・・・」
ニーナが寂しそうな顔をしたのでグレンは苛ついた。
「誰も信じるなと言っただろう?あの侍女も誰かの命令で動いていたかもしれない。食事に蝶の死骸を仕込んだのもあの者かもしれないだろう?」
「ど、どうしてそれを・・・」
「私が知らないとでも思っていたのか?報告は受けている。疑わしいだろう?」
ニーナは、ぎゅっと目を瞑って耳を塞いだ。
「違います!マーシャはそんなことしません!違う!」
「どうだか?厨房はそうそうそんな事は出来ない。出来るとしたら運ぶ時だけだ。あの者なら可能だろう?」
あの件を調べたが厨房に不審なものは何一つなく手がかりは掴めなかった。だからマーシャを疑うのは当然だろう。そんな侍女をニーナの傍に置くのは危険だったのだ。
「違う!違います!マーシャは―――」
ニーナの呼吸がおかしくなった。
「馬鹿!ニーナ、落ち着け!発作が起きるだろうが!」
デールが言った時には遅く、ニーナは興奮して発作を起こしかけていた。その彼女をいち早く腕の中に収めたのはグレンだった。そして先ほどデールがしていた処置をしようとしたがニーナの拒絶にあってしまった。彼女は不規則な呼吸をしながら近づくグレンの顔を両手で押し止めたのだ。
「だ、大丈夫・・・です」
ニーナはそれだけ言って深呼吸をした。グレンに人工呼吸とはいえ口づけされるのに抵抗を感じたのだ。デールには何も感じないのにグレンとは何故か嫌だった。だからデールに助けを求めるように彼に向って手を伸ばした。
その瞬間、グレンの眼差しが凍ったようだった。その気配を感じたニーナは怯えてしまった。
「・・・・・・ニーナ・・・私を拒絶するのは許さない・・・」
グレンの呟くような声を聞いた時にはニーナは唇を無理やり塞がれていた。送り込まれる暖かな息にニーナは目眩がしてしまった。触れ合う唇が熱かった・・・何故か絡む舌に鼓動が跳ねた・・・・・・そして意識を手放してしまったのだった。
目覚めた時は自分の寝台の中だった。傍らにはジーンがいるだけでマーシャは居なかった。ニーナは悲しくて涙が出そうだったが我慢した。
「お目覚めでしょうか?姫様。何かお飲みものでもお持ちいたしましょうか?」
少し低めの柔らかな声音は本当の女性にしか思えなかった。多分背の高さもスカートの中で膝を曲げて調節しているのだろう。だから少し背の高い女性にしか見えない。
ニーナはいらないと言うように首を振ったが、はっとした。
「ご、ごめんなさい。貴方は何も悪く無いのに嫌な態度をとってしまって・・・」
ジーンは彼女が謝るとは思ってなかったので少し驚いてしまった。しかも驚くという感情が湧いたのは久し振りだった。今まで色々な任務をこなして来て相対する人物を物のように思い気に留める事が無かった。しかしニーナは勝手が違う感じがした。ジーンの空っぽな心に響く何かを感じてしまうのだ。
「・・・・気にしておりません。私は本来感情というものが欠如しておりますので、姫様が気にする必要はございません」
「えっ?感情が無い?でもさっき・・・微笑んで・・・あっ!」
思い返せば彼の微笑みはグレンと同じだった。幾らでもその場に応じて作られる笑顔だ。
(・・・二人とも・・・何て悲しいのかしら・・・)
「・・・・・・感情が無い人なんていないと思います。出すのが苦手なのか・・・つらい事が多過ぎてしまいこんで忘れてしまったのか・・・それは悲しい事だと思います。それに心を作っているうちに見失っているのかもしれません。だから私の前だけでも感じているふりは止めませんか?」
優しく微笑んでいたジーンが段々と表情の無い冷たい顔へと変貌していった。
「何も無い心を晒せと言われるのですか?それが命令ならば従います。危険で無い場合のみ貴女の命令に従うように言われていますので」
「私は・・・私は命令とかじゃなくて・・・お友達・・・そう、貴方とお友達になりたいの」
「私の任務は姫様の侍女と護衛のみですが、それも命令でしょうか?」
「えっと・・・違うの・・・ごめんなさい。私、喋るのが苦手で・・・喋るのも遅いし・・・」
思ったことを言い表せないニーナは自分が情けなくなってしまった。
「・・・・・・私の方こそ申し訳ございませんでした。私も言われ慣れないことばかりで自分自身少々混乱しまして、ご不快な思いをさせてしまったようです。お詫びいたします」
ジーンは淡々と言ったが少しだけ微笑んでいるような感じだった。それは作っていない表情だ。ニーナはそれに気が付いて嬉しくなった。本当に感情が無かったら混乱なんかしない。彼に感情を取り戻させることが出来たらその本体でもあるグレンにも可能だろうとニーナは思った。
(そうなって欲しい・・・)
ニーナは何故そう思うのか分からない。でもそう願うのだった。