堪らなく嫌で・・・堪らなく惹かれるもの・・・
ニーナは一瞬にして戸惑いと恐怖が入り混じる顔へと表情が変わってしまった。
「ニーナ姫?」
「嫌!」
グレンは彼女の様子の変化に気が付き触れようと手を伸ばしてきたが、ニーナは拒絶の言葉と共にその手を払いのけたのだった。グレンはまさかと思い、叩かれた手を宙で止め一瞬呆然としてしまった。しかし我に返ると周囲に目を配った。こんな場面でニーナに拒絶されては何かと不都合なのだ。グレンは更に表情を和らげ微笑みを浮かべたが、そうすればそうするほどニーナの顔が強張っていた。その彼女の後ろ姿しか皆が見ていないのが幸いとはいえ、これ以上拒絶の態度を取らせる訳にはいかない。それよりも胸の奥から湧きあがってくる怒りがグレンを支配してしまった。
「此処ではゆっくり話も出来ませんから場所を移動しましょう」
グレンはにこやかにそう言うとニーナの細い手首を掴んだ。しかしその柔らかな表情や声とは裏腹に握り潰されるかのような力が彼女の手首にかかっていた。ニーナがその痛み顔を歪ませた隙にグレンは顔を近づかせ耳元で囁いたのだった。
「シーウェルと友好関係を続けたいのなら私に従え」
その低く囁かれた声は怒気を含んでいた。ニーナは恐ろしくなって思わずグレンから離れようと体
を引いたが、彼の手がそれを許す筈も無く更に力が加わってしまった。
「さあ、参りましょう」
ニーナは従うしか無かった。手を引かれたまま庭を通り抜け、皆の視線から逃げるように連れ込まれた場所は王の居室だった。
そこでニーナは解放されたが、グレンは部屋の奥に進むと卓子の上にあった水差しから水を注ぎ飲み干していた。
入り口近くに残されたニーナは手首が痛かった―――視線を落として見れば指の痕までしっかり残ってうっ血していた。ニーナはとても悲しくなって涙が溢れてきた。
ニーナは滅多に泣かない。涙が溢れそうになっても、ぐっと堪えていた。泣いたら母親が心配するから彼女の出来る精一杯のものだった。だから最近悲しくて泣いたことと言えば蝶の為に泣いたぐらいだ。それが今、涙がぽとぽととその手首の痣に落ちてきた。グレンの嘘が悲しかったのだ。
広い世界に出たものの遠い異国で仲間外れにされて一人ぼっちだったニーナにはマーシャとグレンだけが勇気をくれていた。その彼の優しさが全て欺瞞で固められた姿だったのだ。そして今もそれを続けようとしている。水を飲んで気持ちを落ち着かせたグレンの振向いた顔は優しく微笑んでいた。
「泣かないで・・・愛しいニーナ姫。手荒なことをしてしまってすまない。貴女が私を避けたからつい、かっとしてしまって・・・許して欲しい・・・ニーナ姫・・・」
「い、いや・・・こ、来ないで・・・嫌・・・」
ニーナは急いで部屋の外へ逃げ出そうと扉に手をかけたが、伸びてきたグレンの手で止められてしまった。そして金色の鍵が差し込まれるとガチャリと鍵をかけたのだった。驚き振向いたニーナはその鍵をグレンが遠くに投げたのを見た。鍵が何処かに当って落ちた音を遠くで聞いた。
「逃げられないよ。ニーナ姫・・・」
ニーナの拒絶にあったグレンは抑え込んでいた怒りが再び湧き上がってしまった。これは自分の思い通りに踊ってくれない彼女に対しての怒りだと思うことにした。現に目の前で泣くニーナに苛々しているじゃないかとも思う。
「こ、ここから・・・だ、出して下さい・・・お願いします・・・」
「うるさい・・・うるさい、うるさい!黙れ!お前を見ていると苛々する!そのトロトロ喋る声を聞くと気分が悪くなる!何もかもが気に入らない!」
「ご、ごめんなさい・・・私・・・」
グレンは、はっとした。
(今・・・自分は何を・・言った?)
自分の持て余した心を罪の無いニーナに向って八つ当たりをしてしまったのだ。彼女に本心を晒しとうとう虚構で固めた筋書きが壊れた。グレンは愚かな自分に対して舌打ちした。
そして怯えて泣くニーナを壁まで追い込んだが彼女が床にしゃがみ込んでしまった。小さくうずくまって泣くニーナを見れば胸の奥がまたチクリと針で刺されるようだ。しかしその彼女を無理やり立たせようとしたが抵抗されたのでそのまま床に押し倒した。そしてニーナの顔を覆っていた両手を無理やり掴み、床の上に押さえつけ身体も自由が利かないように膝で押さえ込んだ。こうなってしまったらニーナは身動き一つ出来なかった。鬼気迫る表情をしたグレンが怖くて堪らなかった。ゆっくり喋るニーナの話を優しく聞いてくれた彼の口から気分が悪くなると言われたから今、何か言いたくても言葉は呑み込んでしまう。グレンは見ていても苛々すると言ったのにニーナを見下ろしていた。
「―――私はお前が嫌いだ。だが結婚する。だから愛するようにしよう。心から愛しているよニーナ。お前も私を好きになれ!お前の父親は親馬鹿だ!政略結婚に娘の意思を尊重する話にならない馬鹿だ。だが我々が絆を深めてこそ列国を抑えることが出来るだろう。分かったか?」
ニーナは自分を好きになれと命令する王が恐ろしかったが、父親から言われていた使命にそれが必要なら従うしかないのだろうか?しかし自分を嫌いだと言う彼を好きになれないだろう。でもそうしなければならないのなら・・・
「・・・私・・・私も貴方みたいに好きなふりをします・・・それで・・許してください」
「私は好きになれと言ったんだ!ふりをしろとは言っていない!」
グレンは苛々が止まらない。
「す・・好きになる気持ちは・・・命令されてなんか・・・出来ません」
「うるさい!出来なくてもやるんだ!」
グレンは〝自分を好きになれ〟という事にこだわり続けた。どうしてそう思うのかと言う想いは封じてそれを命令したのだ。もう自分はどうしてしまったのか?と嗤いたくなった。そしてジャラが愉快そうに笑う姿が目に浮かんでくるようだった。声まで聞こえるようだ。
「シーウェル、そのままその娘を穢すつもりか?そなたが後で心を痛めても我は慰めてやらぬぞ」
本当に声がした。グレンがニーナのドレスの胸元に手をかけ始めたその時にジャラがどこからか現れたのだ。その手を一瞬止めたが再び動かし始めた。
「貴方は黙って見ていればいいでしょう?私が苦しむのを見るのも愉快だと言っていたではありませんか。懐柔が効かないこういう娘は身体に教え込んで力で支配してしまえば良いのです。邪魔はしないで下さい」
グレンの両手をジャラが掴んだ。
「止めよと我が言っている。そなたの守護神の真似事をしている我が言っているのだ。娘は気を失っている。そなたらしくないぞ・・・既にそなたの心は傷付いておるではないか」
ジャラに掴まれているグレンの手は震えていた。魔神によってニーナの上から引き離されたグレンは力なくそのジャラの腕にすがると魔神は我が子を慈しむ母のように彼を抱いたのだった。
「無理しおって・・・そのようになるまであの娘が好きか?シーウェル?」
グレンの肩がぴくりと揺れた。
「・・・いいえ・・・私はあの真っ白な娘は嫌いです。自分の醜さが浮き出て堪らなくなる・・・だから嫌いです。大嫌いだ・・・エリカなら良かった・・・エリカなら私の心を明るく照らしてくれた。私が暗い道に迷わないようにしてくれただろう。何故・・・私の傍にいるのが彼女じゃないんだ・・・」
それは目先だけの誤魔化しだとジャラは言いたかったが言わなかった。今のグレンに言っても否定するだけだろう。誤魔化しでもなんでも無い本当に癒しを与えてくれるニーナを否定しているようにグレンの心は一筋縄ではいかない。
ニーナはショックのあまり一瞬気を失ったがジャラの声で意識が戻り始めていた。そして再びニーナを嫌いだというグレンの声が聞こえ、そして・・・
(シーウェル王は姉さまが好きだった?・・・)
魔神サイラスと恋人同士の姉をこの王は諦めたのだろうか?
(姉さまが好きなら・・・私みたいなのが嫌いなのは分かる・・・正反対だもの)
当然だろうなとニーナは納得してしまった。明るく活発で、はきはきと喋る姉は城中みんなの人気者だった。笑顔の真ん中には何時もエリカがいた。
その姉を愛したシーウェル王―――
(自分を好きになれと言ったのは姉さまに言いたかった言葉なのかも・・・)
ニーナはそう感じてしまった。そして自分の着衣の乱された胸元に手を当てて起き上がった。魔神の邪魔が入らなかったらどうなっていたか・・・恐ろしくて震えがきた。世間知らずのニーナでも彼が何をしようとしたのか分かった。シーウェルの王はそれだけ本気でニーナの心を侵してまで目的を達成させようとしているのだということだ。
ニーナは初めて王族としての使命を与えられ一途にそれを全うしたいと思っていた。その為に必要な事は何でもしたい。グレンがエリカを諦めてニーナで我慢しようとしているように、ニーナは自分も我慢しなくてはと思った。自分を嫌いだと言う人を好きになるように努力する。それが今自分に出来ることだとニーナは決意した。
「シーウェル王・・・私、同盟のためにこの結婚が必要なら・・・貴方を好きになるように努力します・・・」
グレンはその言葉をジャラの腕の中で聞いた。何時の間にか意識が戻ったニーナが近くに立っていたのだ。グレンは魔神の肩に預けていた顔を、はっとしてあげて頼りなく立つニーナを見た。彼女は何時ものように言葉を探しながらも急いで喋ろうとしていた。グレンがニーナの喋り方に苛々すると言ったからだろう。
「どうして・・・どうしてそんなことを言う?私がお前に何をしようとしたか分かっているのか?はははっ・・・分かっていないのだろう?」
グレンは信じられないという顔をして言った。ニーナは彼が何故か怯えている感じがした。何に怯えているのかまでは分からない。何をすれば安心してくれるのか?
「あの・・・私は貴方に従うと決めましたけど、不安なら・・・それをして安心するのなら、私は・・かま・・構いません」
ニーナは今にも倒れそうなくらい真っ青な顔をして言った。ジャラは二人の話に加わるつもりは無いようで静観している。グレンは彼女の覚悟した返答を聞いて逆に冷静さを取り戻した。
(・・・彼女は本当に染み一つ無い真っ白な心を持っている・・・)
国では同盟の大切さを聞かされたのだろう。だから陰湿な虐めにも耐えひたすら使命を全うしようとしていた。初めて会った日、澄んだ瞳で仲良くして欲しいと言ったニーナを思い出した。そして自分とは大違いだとグレンは思ってしまった。猜疑心を常に持ち、血を分けた父親から食うか食われるかの世界に生きてきた自分とは全く違う存在―――それが堪らなく嫌だった。しかしグレンはそれが堪らなく惹かれるものだと気が付いてはいない。
〝好きになるように努力をする〟と言ったニーナに腹立ちを感じてしまう意味も分かっていないようだった。努力するとはそうしなければならないぐらい範疇に無かったものか、嫌われているかのどちらかなのだ。
「―――協力すると言うのならそれはもういい。ニーナ姫、精々私を好きになる努力をするんだな。それがこの同盟の鍵となるだろう」
「―――はい」
傷付いた顔をして返事をする彼女にグレンは苛ついた。
「その顔!私の前で二度とそんな顔をするな!努力すると言っただろう?そう口に出して言ったのなら直ぐに実行する事だ!」
「ご、ごめんなさい」
ニーナは謝ったものの表情を変えるのは難しくどうしたらいいか分からなかった。早くどうにかしないとグレンがもっと怒るだろう。彼の鋭い片目がニーナを射抜くように見つめている。
「ふふっ、シーウェル。気持ちを誤魔化すなど欺瞞の権化であるそなたには容易いだろうがその娘には無理というものであろう」
ジャラがとうとう口を挟み出した。魔神にとって面白くない展開だからそうするのか?興味あるからそうしたいのか?気まぐれなジャラの心は読めない。言えることはこれ以上この魔神に首を突っ込ませないようにするだけだ。
「海神、貴方の言われる通りですね。私が浅慮でした―――ニーナ姫、これからも仲良くいたしましょう。貴女は私の大切な人ですからね」
グレンはあっさりと認めてジャラの言う欺瞞の笑みを浮かべた。反抗すればジャラは面白がってきりが無いからだ。結局グレンはニーナに嘘だと露見しているのに彼女に恋した振りを押し通すように決めたようだった。自分の本当に望むものを嘘で欺いてその嘘の上に嘘を重ねていく―――ジャラにだけ見せる弱かった幼い頃のままの自分を封じ込めて、その上に築く虚構のグレンはそうそう崩れるものではないだろう。エリカの前にでさえ晒さなかった本来の姿をニーナには垣間見せているのに、自分の本当の気持ちが分かっていないと言うのは彼らしいと言えば彼らしい。自分の心でさえも無意識に欺いているようだ。
ニーナは彼のその笑みを受けて悲しさが胸に広がった。それが作った笑みというのが分かるから悲しいのだ。結局ニーナ自身を見てくれていないのと同じだ。エリカ以外ならオルセンの王女と言う肩書きさえ持っていれば誰でもいいのだろう。ニーナはこの時初めて心の奥が何故か痛む感じを覚えた。それはまた初めて経験する感情だったから意味は分からない。とにかく悲しさが込み上げてくるだけだった。
「―――全くそなたは飽きぬな。娘、我が部屋まで送って行こう。共に参るがいい」
「海神!」
ニーナの肩をそっと抱き扉へと向かうジャラにグレンが制止するように叫んだ。魔神はそれを無視して扉に手をかけた。鍵がかかっていた筈の扉は難なく開き部屋の外へと出て行ってしまった。グレンは追わずに立ちつくした―――思い通りの展開へと駒を進めた筈なのに・・・何故か心が暗い海底に沈むような気分だった。
グレンの心が大きく揺れ動きました。腹黒王様も純白のニーナには直ぐに正体さらしてしまいましたね。ジャラの「無理しおって・・・そのようになるまであの娘が好きか?シーウェル?」の下りは、ふふふ♪私のとっても好きなシーンです!




