真実の鏡と僕
朝、僕はいつも通りに目が覚めた。
ああ、朝か、という、絶望とも安堵とも似つかない感情を覚えながら、寝ぼけた目をこすりながら身を起こした。
妙に右側が輝いてるな、と思い、何気なく、自然に、僕から見て右側に視線を移した。
そこには外国のような鏡があった。
見た覚えのない鏡があった。
思わず二度見した。
ぼんやりと霧がかかったような頭はすっかり冴えて、先ほどまで眠く、目を開けるの怠いなあとか思っていたのに、目はぱっちりと開いた。冷水を浴びたようだった。
鏡をのぞく。
そこには、可愛い女の子がいた。
ふわふわした緩くウェーブのかかった金髪。二重の大きくて整った青色の目。それに被るように長い金のまつげ。細く綺麗な形の眉毛。高い鼻。人形のように真っ白な肌。けれど頬は血を強調するように赤く染まっている。笑みの形をしている、桃色の柔らかい唇。
可愛いなあ、本当に。
じゃ、なくて。そうじゃなくて!
待って。なんで僕の部屋にこれがあるのさ。こんな金で囲ってある、いかにも高級ですっていう感じの鏡、僕知らない! 童話でしか見たことない! しかも鏡なのになんで僕の姿じゃなくて可愛い女の子映してるの?!
と、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。両親は多分、まだ起きてこないはず。それを起こしてこれを見せるのは……ちょっと、あんまりだから。
かといって何もしなければそのうち僕を起こしに来る母親が見つける。
精一杯考えて、僕は喉から絞り出した。
「鏡さんはどうしてここに居るんですか―?」
小声でこそっと。布団が暑かったから、ばって取って。
何やってるんだろうとか思いつつ、でもやっぱりこの子可愛いなあとか思いながら鏡を数秒見つめる。当然ながら何も起きなくて、とりあえず着替えるか―とベッドから降りようとした瞬間、機械的な男性の声が聞こえた。
「白雪姫に追い出されました」
空耳かな? とうとうその領域まで僕も来ちゃったんだなあ! これはヤバい! そうだよ、そもそもおかしい。ないはずのものが視界にある。ということはつまり、これは夢だ! 意味不明な夢! 時々見る日常に理解不能なものが混ざるあれ!
確信を持った僕は、また寝ようとベッドに戻る。
夢の中なら寝たっていいや! 学校だって夢だもんね!
「おやすみー」
「俗にいう二度寝をするのですか? 学校に遅れると思われます。そのため、やめた方がよいと助言します」
その声に、僕は白けた目を向ける。
「なんなのお前! 勝手に入ってきてるし! 夢の中の存在なのにそれっぽく説教してるし! 僕は寝たい! 以上!」
そう会話を打ち切って、ベッドに横になる。
「では、私がここにきてしまった理由をお話いたします。睡眠導入用の音声としてでもお聞きいただければ幸いでございます」
「やめてよー。僕寝る時に人の声すると気になって目が冴えてくるタイプなんだよー」
「白雪姫がその類稀なる 自我の強さにより、輪廻転生以前の記憶――分かりやすく言いますと、前世の記憶です。白雪姫は己が童話の人物であると悟り、怖い思いはしたくないと私を虚空に投げ出されました。それがたまたま、世界という境界を別の世界の記憶を保有することで超越した白雪姫の力により、私は見事別世界に入り込むこととなったのです。それから、偶然この地点に位置した、というわけなのであり、私は貴方のプライバシーを侵害する意図はなかったと弁明致します」
まどろっこしくて何が言いたいのか分からない。や、意味は分からんでもないんだけど。
「……じゃあどうして、そんな可愛い女の子が写ってるんですか!」
投げやりになって僕はかぶっていた布団を投げて鏡を見た。
「写った人の理想を現実にする鏡ですので」
「……でも、『白雪姫』の中に出てくる鏡は本当のことをいう鏡だったはずだけど」
「ええ。本当のことを言う鏡、ということにすれば、誰かの理想を叶えられますから。私は元々、お妃さまの願いを叶えるために生まれました。お妃さまは自らが一番美しいのだと思うことで、嫉妬心をおさめていらっしゃいます」
……その後、鏡さんが白雪姫です、と答えてから狂っていったってことかな。
「いや待って。そうだよ。鏡さんはお妃さま? の問いに必ずお妃さまですっていうんだよね? じゃあ、なんで白雪姫です、っていうのさ」
「それは未来の話でしょうか」
「そーなる、のかな?」
「未来の話であれば分かりませんが、推測は出来ます。おそらく、そういうものだとお妃さまが信じられたのです。真実を言う鏡。優しい嘘をつく理想の鏡ではなく、本当のことをありのままいう鏡であると思われたのでしょう。お妃さまが生み出した幻聴がもとになっている私です。お妃さまがその程度の変化を促すことは可能だと思われます」
「……よく、分からないけど、とにかく今は写った人の理想を写す鏡ってことね」
「はい」
二人(?)ともそれから黙った。
黙って、黙って、黙って、黙り続けて、僕はじっと鏡の女の子を見つめてた。
やっぱりすごく可愛くて、それで、……。
羨ましいと、思った。
「もし貴方が願うなら、私は貴方を鏡に招きます」
「え?」
かすれた声がでた。声が裏返ってもいた。
「そうしたら、どうなるの?」
今のままでいいはずなのに、思わず問いかける。
「そうすれば、貴方の見る、鏡に写る少女の姿になれるでしょう。性格だって、思うように変えられます。……鏡の世界に閉じ込められることになりますが」
甘いな、と思った。
そんなことを言われれば、夢でも馬鹿らしくても、縋ってしまいたくなる。
何もできない、むしろ足を引っ張るような僕ともさよならできて、理想の自分としてふるまえるなんて、そんな世界、望んでしまう。
でも、まあいいか、と思った。
「鏡さん鏡さん。世界で一番美しい人はだあれ?」
「この世界のことを知らないので答えられません」
「そっかあ。……中学生になると、本格的に性差が目立つようになるんだって。保健で習ったんだ。それから、体育も男女で分かれるんだって」
「そうですね。生物学的にも合理的であると思われます。体力差などが出てきますので」
「女の子は可愛い恰好をするのが普通で、男の子はカッコいい恰好をするのが普通なんだって」
「そうですね。私という鏡からしてみても、生物というものは二つの性別で分かれていて、似合うものが異なるのは当然です」
「僕は男の子で、だから可愛い恰好をするのがおかしくて、似合ってないとか男女とか、笑われるんだって」
「そうですね。男女で分かれている生物ですから、相反する要素を持ち合わせると異常となるわけです」
「女の子だったら、いいんだって。僕も女の子が良かった、って思うけど、そうじゃないのが現実なんだって」
「そうですね」
「だから、僕は現実を見るんだ。それでも誰も羨ましがったりしないで、僕を僕として受け入れて、お妃さまみたいに誰かを睨むんじゃなくて、僕を見て、頑張ってるねってしたい」
「他人を見ている暇はないと」
「うん。鏡さんは見ててくれる?」
「どうでしょうか。もし元の世界に神様か白雪姫が戻してくれなければこのままです。そうであれば、貴方が一生ここに住んでくださらないと引っ越すときにお別れです」
「ここに一生住むね。だから、見てて」
「分かりました。まあすることもないので見ることくらいなら余裕です」
大丈夫。鏡がすべてじゃない。鏡に写っている自分が醜くたって、好きじゃなくたって、変えられる。それに、変えられなくても、僕は僕だから、それを誰かに馬鹿にされる義務はない。
「そろそろ母親が来ます。では、私は隠れておきます」
そういって、何故か消えた。壁に混じったのかな。
不思議だけど、まあいいや。
僕はベッドから降りた。