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優秀賞

作者: 瀬野仁人

小さい頃は宇宙飛行士になりたかった。惑星の図鑑を眺めるのが好きなだけだった。学生時代はサッカーにのめり込んでいたが、自分の実力を知ってあっさりと身を引いた。所詮その程度で、何事にも大した熱量を抱けなかった。俺には才能がないのだ、凡人なのだ、そう言い聞かせてあらゆる事から自分を遠ざけた。

だから、あいつの絵のうつくしさを見つけて美術部に入れと言ったことは、人生最大の成功と言えるかもしれない。少なくとも俺は、そうでありたいと思えた。


一、 同級生


「紫陽花描いてる。」

 こいつは出会ったその日、ただそれだけを言った。

 正門には美しい桜の木があるが、裏門には紫陽花が植えられていることを知る生徒は少ない。外周を走らされる運動部ですら気付かないような、奥まった場所にひっそりと植わっているのだ。俺がその花を知ったのは丁度一年前のことである。用務員のおじさんが、裏門の脇にあるフェンスを乗り越えて、住宅街の入り組んだ路地を行くのが駅への近道だと教えてくれたときだ。

 今年も綺麗に咲いているな、とぼんやり思いながら歩いていたとき、座り込んだ生徒に躓いて驚いた。こんなところに人がいるとは思ってもみなかったが、どうやらそいつも同じ考えのようだった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。咄嗟に「ごめん。」と言った俺に返してきた言葉が、「紫陽花描いてる。」だった。そんなことは聞いちゃいないのに。

 それから毎日、その紫陽花の前にはそいつがいた。バッジから察するに同級生だ。スケッチブックにはひょろひょろの紫陽花が描かれていて、お世辞にも上手いとは言えなかった。小学生みたいな短い鉛筆を持ちにくそうにしながら描いているので、シャーペンにすればもっとマシになるだろうと思う。だが絵に興味の無い俺にとっては、こいつの絵が上手かろうが下手だろうが別にどっちでもよかった。そんなこんなで、後ろを通るときに挨拶もしない、されない、置物と通行人のような関係が続いた。

 紫陽花が萎んできたころ、こいつは遂に着彩を始めた。美しかった青紫の花弁も、一部は茶色っぽく変化している。もっと早く線画を終えていれば、鮮やかな花を見ながら色を塗れただろうに。なんて言うことはなく、やはり無言で後ろを通ろうとしたその時だった。チラリと目に入ったスケッチブックに、俺は思わず足を止めた。

「なんでオレンジで塗んの?」

「えっ?」

「なんでオレンジで塗んの? って。」

 淡い絵の具が滲み、紫とオレンジがぼんやりと交わって夢のように綺麗だった。ひょろひょろの線画をはみ出して塗られたそれは、花の絵というより抽象画に近い。それなのに、その絵は明らかに紫陽花で、でも何か全然違う花のようでもあった。絵自体が光を放っているような錯覚に陥る、太陽のような紫陽花だ。

「見たまんまだよ。」

「オレンジが?」

「そう。」

「どこにオレンジあんの?」

 そいつはゆっくりと指差した。その方向には、力強くて眩しくて、どこか懐かしくて、でも何の変哲もないただの夕焼けがある。

「オレンジ色のベールがかかってるみたいな……。」

「なにそれ?」

「見たまんま。」

「見たまんまねぇ。」

 俺は絵に興味がないし、センスもないし、花も特別好きではない。だからこの枯れ始めた紫陽花に夕陽の色のベールがかかっているかどうかは分からないけれど、こいつにはそう見えているらしい。違う世界の住人みたいな、そういう畏怖を一瞬感じた。でもそれより、少しだけ羨ましさが上回る。こういうやつを、きっと天才と呼ぶのだ。こんな何の変哲もない普通科の高校に入学してきた理由は知らないが。

「美術部?」

「違うよ。」

「入れば?」

「いいの?」

「いいんじゃね? 知らんけど……。じゃあね。」

「うん、またね。」

 それ以来、置物と通行人から顔見知りに変わったが、紫陽花が枯れてからはぱったりと見かけなくなってしまった。

***


 夏休みが明けて、いつもの路地からフェンスを越えて登校。廊下をのろのろ歩いていると、日に焼けた生徒達の噂話がすれ違いざまに聞こえた。うちの美術部の生徒が、水彩画のコンクールで凄い賞をとったらしい。何賞だったかは聞き取れなかった。あいつの顔を思い出しつつ席に着いたが、久しぶりのやつや毎日のように遊んでいたやつの顔を見たら、すっかり忘れてしまった。

 ある日、その原画が返却されてきて、二年生の靴箱前に飾られた。入賞した作品は通常主催者側で保管するが、作者が返却を強く希望したのだと聞いた。眠い目を擦りつつ登校した俺は、上履きの踵を踏みながらその絵を見て、恐らく『見たまんま』描いたであろう蓮に溜め息を漏らした。眠気の吹っ飛ぶような色使いだ。青とピンクのグラデーションで塗られた、砂糖菓子のような不思議な花がキャンバスいっぱいに咲いている。

「なんで青?」

「なに?」

「蓮。」

 絵の前で佇んでいたそいつに聞いてみる。控えめに笑ったその顔には、小さなえくぼがあった。

「み……。」

「おっす~、おはよ。」

「おーおはよ。なぁ、この絵こいつの……。」

 そう言いかけて振り返ると、そこにはもうあいつはいなかった。佇んでいたほのかな温もりだけが、人の形を成してそこにただあるように思えた。

「何この絵、すっげ~。」

 友達の無邪気な感想を聞いてほしかったのに。人見知りだろうか? 悪いことをした。

 ショートホームルームを終え、友達は皆スパイクを持って部室に駆けて行った。陽が傾くのも早くなり、夏の終わりを予感させる。いつものようにフェンスを乗り越えて帰ろうかと思っていた

が、喉が渇いてきたので正門から出た。真隣にある自動販売機には、お気に入りのソーダがあるのだ。

 俺は、無言でお金を入れて、無言で二つ買った。販売機の向かい側に座り込んでいるそいつに渡してやると、ぽかんとしながら黙ってそれを受け取った。

「美術室じゃねーの?」

「自由課題だから何描いてもいいって。」

「へー。花が好きなんだと思ってたわ。」

「好きだよ。なんで?」

「今日は花描かねぇの?」

「描いてる。」

「嘘つけ。」

「描いてるよ。」

 スケッチブックを覗き込むと、汚い販売機の下半分と、その足元にある小さな白い花を模写していた。模写といっても、やはりひょろひょろの線でひょろひょろな絵だ。だが俺は、この線画がとんでもない水彩画に化けることをもう知っている。

「これなんて花なの。」

「分かんない。」

「そっか。楽しい?」

「楽しいよ。描けば?」

「俺も?」

「ここに描いてよ。」

「マジで言ってんの?」

「自由課題だから。」

 冗談だと思っていたのに、そいつは本当にスケッチブックと鉛筆(今回はちゃんと長くて持ちやすい)を渡してきたので、恐る恐る受け取った。しかも、そいつの描いた花の真隣を指差すのだ。勘弁してくれ、絵なんてほとんど描いたことがないのに。

「もう最初の……どこに芯を置いて描き始めればいいのかすら分かんねーんだけど。」

「どこでもいいんじゃない?」

「どこか決めてくんね?」

「じゃあここ。」

 とん、と置かれた指先を頼りにはしてみたものの、描いた線は……ひょろひょろな花とはまた違う、滅茶苦茶に下手くそなそれだった。誰が見ても下手くそだと思うような、まさに男子高校生が描いた花といった感じだ。こんなところで、自分が男子高校生であることをまざまざと知るとは思わなかった。

「思ったように描けないもんだなぁ。」

「そうだね。」

「お前は描けるじゃん。」

「描けないよ。だから楽しい。」

「そんなもん?」

「そんなもん。いいね、塗り甲斐ありそうな花。ありがとう。」

 何に感謝をされているのかいまいち分からないが、ソーダを受け取ったときよりも嬉しそうな顔をしていたので、とりあえず鉛筆を返した。

「じゃ、またな。」

「またね。」


***


 友達というほどの関わりは無いが、すれ違えば「おー。」だとか「あっ。」だとか言うくらいには仲が良くなった。旅行の土産を気まぐれに渡したら、その菓子を大層気に入ったらしく、後日「あの月のおまんじゅうってコンビニに売ってないの?」と少し残念そうに言った。

 そんな折り、三年生になった俺達は同じクラスになった。あいうえお順に並んだ席で、俺の後ろにあいつが座っている。俺より少し早く登校しているあいつは、毎朝同じメロンパンを食べながらノートに絵を描いていた。休み時間になると俺は友達とサッカーをして、あいつはどこかで絵を描いている。帰りになると俺はフェンスを乗り越えるし、あいつは美術室で絵を描く。

 何故かあいつは、絵が完成する度に俺に見せてくるようになった。そのうち、俺の友達もあいつの絵を心待ちにするようになった。俺も、あいつが自分の絵を見せにくるときの無愛想さとは裏腹に、その奥の方にひっそりと含まれた喜びだとか誇らしさだとか、そういう微妙な感じの顔が面白くて、楽しみだった。

 あいつの絵は色んなコンクールで賞をとった。地元の新聞で特集を組まれて、学校はあいつが入賞する度にドデカい垂れ幕を作って垂らした。よく分からない美術の雑誌に半ページくらい載ったりもした。

 美術室前の廊下には、返却されたあいつの絵がずらりと飾られている。そのいずれも花の絵で、いつものスケッチブックくらいの大きさもあれば、学校の窓くらいのキャンバスもあった。あいつの描く向日葵は赤みがかっているし、桜は緑がかっているし、でもその全てが確固たる向日葵と桜だった。俺が今まで見てきた色や世界はなんて平凡でつまらないものかと虚無感に襲われることもあったが、こいつの見ている鮮やかで繊細な世界をこうして絵で見ると、そのスカスカした気持ちはふと消えた。

「進路調査表書いた?」

「書いたよ。美大。」

「やっぱ美大かぁ。じゃあ上京すんだな。」

「そうなるね。進路どうするの?」

「俺も進学。東京の文系の。」

 生活感のないこいつが上京して、一人暮らしなんて出来るのだろうか。まぁそんなことを言ったって、この辺りには美大どころか大学自体がない。同級生の半分は就職だろう。

 真っ直ぐ目指す道があるのは酷く羨ましかった。親も、教師も、俺も、こいつ自身も、自らが絵を描き続ける未来を疑わない。かくいう俺はまだもう少し遊んでいたいし、どんな仕事をしたいかも分からないから、とりあえず進学してみようなんて適当な理由だ。そしてそんな適当さのために、奨学金で莫大な借金を背負おうとしている訳だ。馬鹿らしい。

「美術部に入ればって、言ってくれてありがとう。」

「なんで?」

「言ってくれなかったら、今頃進路で悩んでたかも。」

「言わなかったら今頃美大行ってなかったってか?」

「うん。僕は絵が上手いんだね。ずっと知らなかったよ。」

「すんげぇこと言うなお前。」

 そんな話をする最中、こいつは配られた進路調査表の隅に変な猫を描いている。有名な画家や小説家で、死後いろんなメモや落書きが見つかって公開されているのをいくつかネットで見たことがある。こいつのこういう落書きも、将来晒されたりするのかもしれない。

「あんまり人前で絵とか描かなかったんだ。親にしか褒められたことなくて……。親って子供のことなら下手でも何でも褒めるでしょ。」

「冷めてんなぁ。普通さ、親に褒められて、調子乗って、それが将来の夢になるってもんじゃん。俺はそうだったよ。」

「なに?」

「サッカー選手。」

「今は違うの?」

「違うよ。ベンチ常連だったしつまんなくて辞めた。」

「ふぅん。じゃあ今は何になりたいの?」

「……なんもないけど、結局普通のサラリーマンになるんじゃねぇの。」

 誰しもお前みたいに進むべき道が決まっているわけじゃないんだよ、なんて言わなかった。きっとこいつは「そうなんだ。」と返してきて終わりだし。

 普通のサラリーマンが世の中を支えてるんだから、これでいいんだ。俺はこいつとは違うんだから。


***


 受かったよ、とあいつは言った。俺は第一志望の二次試験を受けて結果待ちだった。

 この時期になると既に進路の決まったクラスメイトも増えてくる。就職したやつ、受験したやつ、実家を継ぐやつ、様々である。

「良かったなぁ。」

「お母さんが、上京したら友達の近くに住めって。」

「めちゃくそ心配されてんじゃん。まぁ気持ち分かるけど。……ダチいんの?」

「いるよ。」

「俺?」

「そう。」

「俺かぁ。じゃあ俺が浪人にならないようにお前も祈っといてくんね?」

「そうする。」

 上京後のご近所さん候補に勝手にあげられていたらしいが、大して気にはならなかった。毛玉だらけのマフラーを鼻まで巻いたこいつは、うんうんと頷きながら、思い出したようにポケットから謎のお守りを取り出して渡してくれた。もう試験は終っているから今更貰っても遅いけれど、そんな野暮なことは言わないでおこう。

 美大の受験はてっきり試験官の目前で絵でも描くのかと思っていたから、こいつのひょろひょろの線画で合否を判断されたらまずいなぁと勝手な心配をしていたのだが、そんなことはなかった。推薦入試だったようで、ポートフォリオなるものを作って持っていき、面接をしたそうだ。他にも色々なことをやったようだが忘れてしまった。

 ポートフォリオとは、今まで作ったものを一冊にまとめた作品帳のようなものらしい。誇らしげに見せてくれたが、ページを捲るたびに往復ビンタをされているような鮮烈な衝撃を受けた。才能にひっぱたかれると頬より心の方が痛い。だが、そのポートフォリオは俺にとっても自慢の一冊だった。全部俺の友達が描いたんだぜ、見ろよ、なんて騒ぎながら見せびらかして、何時間も街中を歩きたいくらいだった。間違いなく誰よりも素晴らしい作品帳だと思う。まぁ他のやつのを見たことはないから比べようがないけれど。

 俺は第一志望合格を受けて、ようやく受験生生活が終了した。思う存分ゲーム出来るし、昼まで寝れるし、漫画も読めるし、この上ない幸せだ。それと同時に上京の準備を始めようとしたが、あいつの母親から直談判され、一緒に物件探しをすることになった。俺はあいつより先にあいつの母親とラインを交換した。

 駅から徒歩十五分の学生マンションを見つけた。一階の角部屋とその隣が丁度空いていたので、そこに入ることにした。風呂とトイレが別なので俺は満足だが、あいつは部屋が少し狭いので不満げだ。しかも、スペースに困ったらそっちにもキャンバス置いていい?なんてふざけたことを抜かしていた。そもそも、あんなデカイものをワンルームに置こうとすんな。

 卒業式を終えると、あいつは俺を呼び止めて、目の前に座らせた。まだ人の多い教室の、丁度真ん中の席だ。大して仲が良かったわけでもないクラスメイトと記念にツーショットを撮るやつや、この後どこで飯を食うか話し合っているやつ、そしてそんな喧騒の中で向き合ってただ座っている俺とこいつ。ぼうっと俺を見ていたかと思うと、そそくさと鞄からスケッチブックを取り出して、黙々と絵を描き始めた。本当は俺もクラスメイトと写真を撮ったりしたかったのだが、それよりこいつの絵の方が気になった。なんたって今回のモデルは俺である。

「お前って人とか描くんだ。」

「描かない。」

「描かないのかよ。」

「人って苦手。」

「動いていい? 喉渇いた。」

「いいよ。」

「そういえば、なんで入賞した絵、全部返却させてたの。」

「僕の絵だから。」

 当たり前のように言う。僕の絵と言う割には全て学校に吸収されて、廊下にずらずら並べられているのに。

「僕が描いた、僕のための絵だから返してほしい。」

 あれらはお前のための絵なのか。そもそも誰のためかなんて考えたこともなかった。

「じゃあ全部実家に持って帰んの?」

「置く場所ないからって、お母さんが。」

「だろうな。……なぁ、俺のダチがさ。お前とも写真撮りてぇってさ。LINEきた。」

「いいよ。それ、今すぐ行った方がいいのかな。」

「多分。」

「じゃあもう完成。」

 そう言って、こいつは現代文用のキャンパスノートを俺に見せてきた。驚いた。描いていたのは俺ではなく、俺の胸元にある『祝・卒業』と書かれた花のバッジだったのだ。しかも、そのノートはきっちりとあいつのバッグにしまわれた。俺はただ付き合わされただけらしい。

「てっきり貰えるのかと思ってたのになぁ。」

「欲しいの?」

「バッジの絵なんかいらんし。そもそも、自分の見て描けよな。」

「胸についてるんだから見えないよ。」

「外せばいいじゃねーかよ。」

「胸についてる花が描きたかったんだ。」

「なら仕方ねぇわ。」


二、お隣さん


上京してから一年。なんだかんだで、あいつの家にはまだ入ったことがない。

 経済学部に入学して、フットサルサークルに所属している。気の合う仲間と出掛けたり、たまに授業をサボったり、バイトしたり、毎日ちょっと忙しない。

隣の部屋はいつも息を潜めたように静かで、ごくたまに玄関の音が聞こえるくらいだった。俺は深夜に寝て昼に起きるような生活なので、その音を聞けるのは一限の日くらいである。たまにLINEを送ってみるけれど、返事が来るのはいつも三日後くらいだった。お盆も正月も、あいつは何か大変な課題に追われて帰省しなかったようだが、特に長期休暇でもない変なタイミングで親の顔を見に行っているらしい。大学の友達には、お隣さんが地元のやつだとは言わなかった。聞かれていないことをわざわざ言うのも変だろう。友達を家に連れ込んで朝まで騒いだりすることもあるが、あいつは絵を描いているときに周りで何が起こっていても全く気にしない質だし、実際今まで一度も文句を言われていない。

「履修どうする? 古代思想史って楽らしいよ。先輩が教科書くれるってさ。」

「マジ? 皆で回し読みしようぜー。何限?」

「水曜四限。」

「えーっ、俺そこ外国語入ってるわ。」

「再履修のやつ? ってことは俺もじゃん。」 

 小さなテーブルを囲んで四月からの履修を決めている最中、隣の部屋からドンドンという鈍い音が聞こえた。友達はちっとも気に留めていなかったが、俺はあいつの部屋から初めて聞こえた騒音に少し胸がざわついた。倒れたとか、転んだとか。いや、あいつのことだから本当にデカいキャンバスを持ち込んでいるのかも。

「コンビニ行くけどなんかいる?」

「煙草買ってきてくんね?」

「年確されなきゃいいけどさ。」

 ふらっと家を出て、それから俺はすぐにお隣さんのインターホンを押した。そういえば、このマンションは駅から遠いと友達からよく文句を言われるのだが、俺たちのような田舎暮らしからすると徒歩で来れる距離は十分近いし、お隣さんですらちょっと歩かなければ行けなかった。

「久しぶりだね。」

「すげぇ音したけど。」

「転んだ。」

「やっぱり。」

「お腹空いたなぁ。」

「コンビニ行くけどなんかいる?」

「いいの? じゃあサンドイッチ。」

「片手で食べれるから?」

「そう。」

「画家っぽい。」

「待って、僕も行くよ。」

 そう言って、こいつは色とりどりに汚れたジャージのまま、サンダルをつっかけて外に出てきた。文化祭で作ったクラスのティーシャツが懐かしい。それも、裾から襟ぐりまでべたべたに絵具がついていた。指の跡もちらほらあるので、汚れた手のまま着たり脱いだりしているのだろう。ぼさぼさの髪や猫背気味な体躯も相まって、美大生のテンプレートみたいになっている。少なくとも、俺が映画やドラマでよく見る締め切りに追われた芸術家は大体こんな感じだ。

「友達来てるんだね。」

「うるさいっしょ。」

「そんなことないよ。」

「逆にお前は静か過ぎ。」

「呼ぶ友達いないから。」

 あいつは棚からレタスたっぷりのサンドイッチを取って、当然のように俺に渡してきた。よくよく見たら財布すら持っていない。なんかいる? と聞いたのは俺なので構わないし、なるほどこいつも意外とちゃっかりしたやつなんだなと妙な新鮮味を覚えた。 

「六十二番ふたつ。」

 俺がレジで煙草を買うのを、じっと隣で見ていた。俺は昔からちょっと老け顔だけど、こいつはいつまで経っても中学生みたいな童顔だ。こいつが買うんだったら間違いなく身分証を要求されていたに違いない。

「煙草吸うんだ。」

「ダチのだよ。浪人生だからもうハタチ。」

「ふぅん。」

「ま、一個は俺のだけど。」

 小さな声でそうささやくと、あいつは俺が袋からガサガサと赤い煙草を取り出していそいそとポケットに仕舞うのを見て、それから俺の顔を見て、ふぅんともう一度言った。

「都会に染まったわけだ。」

「その言い方やめろよ恥ずかしいな。お前はどうなんだよ。」

「僕は都会に馴染めてない。」

「一年も経ったのに?」

「でも別に苦痛じゃない。」

 本当に、特に苦痛でもなさそうに言った。本心なのだろうが、隣の部屋で馬鹿騒ぎをしていることに多少の罪悪感を覚えた。そうは言っても、俺の友達をこいつに紹介したところできっと馬は合わないだろう。

「お前、絵描いてないの?」

「この恰好を見れば分かると思うけど描いてるよ。なんで?」

「完成したら見せに来るかと思ってたからさ。」

 そうだっけ、とあいつは言った。呆然としたような表情が、みるみる笑いを堪えるようなしかめ面に変わった。

「そういえばそうだった。」

「お前が絵自慢を忘れるとはな。」

「最近はあんまり自信ない。」

「意外。」

「高校は、ひがむ人がいなかったから。」

 ああそうか、とワイシャツの袖を汚しながら絵筆を滑らせる楽しそうな横顔を思い出した。あの学校にはこいつに敵うやつなんかいなかった。でも今は全国から集まった絵の描けるやつしかいない。比較対象が腐るほどいる環境で苦しむのは、俺にも覚えがあった。

「誰にでも描ける、大して珍しくもないって言われるんだけど。」

「誰にでも描けんのか。俺も描けるってことじゃん。」

「黙らせてやろう、と思って。」

「うん。」

「まだ出来てない。だから今の僕の絵は、自慢できるほどのものじゃない。」

 もうとっくにマンションには着いていたけれど、玄関の前でこいつがそんなことを言うから俺は帰れなかった。それに、いつもぼんやりしていて絵のことしか考えていなくて、他人に興味もないし自分自身にも頓着しないこいつが、人間臭い感情をようやく身につけ始めているのを目の当たりにして、ただただ驚いていた。

 自分のためにしか絵を描かなかったこいつが、他人を理由に描いているらしい。今こいつは、足りていなかったものがどんどん埋まっている真っ最中なのだ。

「お前より上手いやつ、やっぱめっちゃいんの?」

「分かんない。人の絵あんまり興味ないから。」

「……ついさっきまでの俺の感動を返せよ。」

「感動するところあった?」

「絵見せろよ。どうせあんだろ?」

「友達、いいの?」

「いいよ。」

 上京して一年。始めて隣の部屋に入った。玄関に靴はほとんどない。サンダルと履き潰されたスニーカーだけだ。そこに、俺のビーサンが並ぶ。既に絵の具のにおいが満ちていて、美術室を思い出した。授業でしか入ったことがなかったが、あそこもこんな感じのにおいがした。

 俺の部屋と同じはずなのに、こいつの部屋は物凄く狭く感じた。廊下の半分は段ボールが積まれていて、肩をきゅっと狭めないと通れなかった。所狭しと並べられた絵が、四方の壁を覆い尽くしている。床にも置かれていて、全身をこいつの絵に見つめられているような居心地の悪さだった。しかもそのほとんどはやはり花の絵で、ついでみたいに端に置かれたベッドと、とりあえず買ったであろう小さな折り畳み式テーブル以外は、ほぼ生活感がない。

「相変わらずすんげぇな。」

「置けなくなったやつは実家に送っちゃった。」

「これ全部課題?」

「別に。課題はそんなに多くないよ。いつも関係ないもの描いてて、それで課題が終わらないんだよね。」

 そういえば、美術部のときも同じようなことを言っていた気がする。

 この一年で、こいつの絵が進化しているのは一目瞭然だった。ひょろひょろだった線が、自我を持ってそれぞれで生きているように見えた。そこに乗せられた絵の具たちは、人生で一番楽しい瞬間や、悲しい瞬間を切り取ったような、胸の熱くなる色彩をしていた。今まで見せてくれた絵とは違う、でも、見ただけでこいつの絵と分かる。

 だが、それらに並んで妙にひねくれた絵もあった。花を後ろから描いたものとか、あいつ特有の色使いではなくて、物凄く写実的な風景画とか、とにかくあいつらしくない絵がぽつぽつと置いてあったのだ。自信喪失による迷走というわけか。

「こんなにすげぇのに嫌味言われんの。」

「すごいから言われるんだよ。」

「お前、そんなんだからずっと友達できねーんだろ。」

「教授に言われた。他人から学ぶこともあるからもっと他の絵を見ろって。」

「ド正論だな、それ。」

「だから見ることにしたんだけど、あんまり面白くない。結局僕が一番好きなのは僕の絵だ。僕のために描かれた絵だから。」

 喋りながらサンドイッチを頬張るこいつは、片手で食べられるなんて言っておきながら、空いた手に絵筆を握ろうとはしなかった。ぶらんと垂れ下がった右手は所在無さげだ。あいつは、このマンションからすぐ近くの歩道橋と、安くて旨い定食屋を切り取った小綺麗な風景画をこつんと爪先でつついた。

「でも今はお前のためじゃなくて、誰かにマウントとるために描いてるんじゃん。」

「うん。でもやっぱり僕は僕のために描く。気付かせてくれてありがとう。」

「よく分からんけどまぁ頑張れ。」

「そっちも、サークルのマネージャーと付き合えるといいね。」

「えっ。」

 丸聞こえなのかよ。最悪だよ。

 そのあと自宅に帰ったら、一人はソファで寝ていて、二人は二人だけの内緒の話をしていた。何キロ先のコンビニまで行ってたんだよ、とツッコまれた俺は少しだけ素直に「お隣さんと会ってさ。」と言った。


***


 大学生のとんでもなく長い夏休みの中で、海に行ったり川に行ったり、花火をしたり飲み明かしたり、ありがちで満ち足りた日々を過ごした。最近、隣のあいつも日焼けをした。野外で花ばかり描いているらしい。そりゃあこんな猛暑で一日中公園にいるんだから、小学生みたいに半袖焼けをするのも無理はない。

「素麺茹でるけど食う?」

 試しにそんなLINEを送ってみた。これも三日後に返事が来たらどうしようかと思いつつ、それなら三日後も素麺を茹でればいいかと諦めて鍋を火にかける。ついでに煙草にも火を点けて、換気扇に向かってふうと息を吐いた。その時、少し音の外れたインターホンが鳴った。

「お腹空いた。」

 三日どころか三分もかからずレスポンスが来るとは。

ぽんとテーブルに置かれたスマホには、カチカチに固まった青い絵の具が小さくへばりついている。それから、スケッチブックと鉛筆をぽいっとソファに放った。

「食ったらどっか描きに行くんか。」

「うん。」

「よく飽きねぇな。」

「さすがに花には飽きてきたんだよね。」

「へぇ珍しい。次は何描くの。」

 返事が無いのでふと顔を向けると、俺の顔と、俺の手元から昇る煙をじっと見ていた。そういえば、この間誕生日を迎えて無事にハタチになったのだが、こいつの誕生日はいつだろうか。考えてみると、こいつのことをあまり良く知らないばかりか、絵が好きで絵が上手くて、ただそれだけで構成されている人間だと勝手に決めつけていた節もある。好きな子とか苦手な食べ物とか、そういう些細なものは何一つとして知らないのに、俺達は不思議と友達だ。

 短くなった煙草を灰皿に押し付けると、こいつは少しつまらなさそうな顔をした。線香花火が序盤で落ちたときみたいな顔だ。

「お前も吸う?」

「いらない。」

「だろうな。」

「もう一本吸ってよ。」

「なんで?」

 理由は一目で分かった。先程放り投げていたはずのスケッチブックがいつの間にかこいつの手の中に戻ってきているのだ。仕方が無いのでもう一本火を点けた。

「お前ってちゃんと見なくても絵描けるだろ。」

「何が?」

「卒業式のバッジ描いてたとき、ほとんど見てなかったじゃん。紫陽花も、色塗ってる時は枯れ始めてたのに完成したのは満開の絵だった。見たまんまとか言うけど、ほとんどお前の記憶と想像なんだろ。」

「そうかも。」

 ほら、せっかく火を点けてやったのにチラリと見ただけであとはスケッチブックから顔を上げない。それで描けるなら別に構わないけれど、とりあえずこいつが見やすいように目線の高さに煙草をキープさせておいた。腕がぷるぷる震え出したけれど恥ずかしいので黙っておく。沸騰した湯は火を止められ、湯気を吐きながら出番を待っていた。素麺は一体いつ茹で始められるだろう。

「マネージャー、付き合えたよ。」

「おめでとう。」

「お前は?」

「一応終わったよ。」

「素直に負けを認めたんか、そいつは。」

「どうかな。でももう僕には関わらないと思う。」

 二本目が短くなったとき、腹が鳴ったのでこいつはスケッチブックを閉じた。俺も、またコンロの火をつけて、湯に素麺を入れた。ぐつぐつと鍋の中で踊る素麺を二人してぼんやりと眺めて、二分のタイマーが鳴るのをただ待つ。

 固く閉ざした窓の向こうから、蝉の声が漏れて聞こえてきた。太陽が丁度真上に位置しており、窓際にはほとんど影がない。朝のニュースで見たが、今日の最高気温は三十八度だった。こんな日でもこいつは出掛けて花を描くのだろうか。半袖焼けをした細い二の腕には、うっすらとBCGの痕があった。

「コンロの傍って暑いね。」

 当たり前なことを言いながら、持っていたスケッチブックを再びぽいと投げ捨てた。こいつはそういう杜撰なところがある。それを尻目に配膳の準備をしつつめんつゆに氷を浮かべると、からんころんと涼しげな音に心を癒された。

 何を見て生きているのだろう、と本気で考えたことがある。生み出される絵は全て見たまんまを描いたものならば、きっと俺とあいつには見えている世界が何もかも違うのだと思っていた。けれど、あいつだって外に出れば日焼けをするし、BCGの痕があるし、暑い日は素麺に惹かれる。正真正銘普通のやつなのに、俺はこいつを普通じゃないとどこかで思い込んでいた。思い込んでいたかったのだ。そうでなければ、俺がこうも平凡であることに劣等感を抱いてしまうから。

 俺とこいつは違うんだと思っていたかった。そうでなくてはきっと耐えられないと思っていた。けれど、実際そんなことはなかった。

「足りなくね?」

「うん。おかわり茹でてよ。」

「態度が気に食わねぇけどいいよ。」


***


 コンクールでそこそこの成績を収めた、とあいつが言った。あいつの言うそこそこがどの程度かは知らないが、俺はその連絡に「やるじゃん。」と返して、帰りにコーラを買って行った。

 絵が完成する度、あいつは俺の家のインターホンを押してくるようになった。朝方に来るのはさすがにやめてくれと頼んでからは、大体夜の七時くらいに来るようになった。そうやって呼び出されて隣に向かうと、乾いたばかりの絵具のにおいとあいつの無表情に出迎えられる。無表情で、それでいてどこか誇らしげな、昔と変わらない顔だ。

 どの絵をコンクールに出したのだろう。この間見せてもらったヒヤシンスの絵? それとも、葉に溜まった朝露を飲むアゲハ蝶の絵だろうか。いや、あれはたしか別のコンクールに出していたような。そんなことを考えながら狭い廊下を進んでいくと、目の前にはぽつんと置かれた美術雑誌と、あいつがいた。コーラとそれを交換すると、しっかり折り目のついたページが一発で開かれて、俺は少し黙った。

「佳作。」

「……つまり何位?」

「上位三名ではない。」

「なるほどね。」

 ぷしゅっ、と音がした。

 題名『お隣さん』には、いつものこいつが描くような、目の覚めるような鮮やかさはなかった。淀んだ思いを煙と一緒に吸い込む、男の横顔は何かを憂いているようだった。だが、アイスコーヒー色の瞳には僅かな希望を暗示させるような小さな光が宿っている。

「お前やっぱり、見たまんまなんて嘘じゃんかよ。」

「そうだよ。やっと気づいた?」




三、名刺


よろしくお願いいたします、なんて言いながら渡した名刺には緊張が丸わかりの顔写真が印刷されており、それを手渡す俺も緊張が丸わかりな顔をしていた。

 営業として、春からこの菓子メーカーに就職した。直属の上司はいかにも菓子が好きそうなまん丸な見た目をしていて、マシュマロを握ったみたいな喋り方をする。教育係としてついてくれた先輩はそれとは対照的で、すらりとしたスーツに身を包んで四角い眼鏡をかけていた。

 新しいことだらけの毎日はあっという間に過ぎるが、楽しいことだらけだった大学時代と比べると、少し長いように思える。まだパリパリなスーツは窮屈で、ピカピカの革靴は痛い。就職と同時に職場近くへ引っ越して、あいつと俺はお隣さんではなくなった。あいつもあの学生マンションを出たらしいが、駅名を聞いても全くピンとこなかった。自然と連絡を取り合う回数も減り、あいつとあいつの絵のことも、あまり考えなくなっていった。

 試用期間が過ぎた頃にはスーツも身体に馴染んできて、仕事は嫌でも頭に入ってきて、それ以外のことはどんどん頭から追い出された。会社と家を往復し、休日にはたまに友達に会っていつもと同じ居酒屋で飲む。月曜日が始まれば憂鬱で、水曜日の朝は一段ときつく、金曜日には穴の開いた靴下を履いても、肌を黒く塗りつぶして誤魔化すくらいの心の余裕が生まれた。特別なことは何もないのに、日々はしれっと進んでいく。もともとあまり趣味もないから、時間があると何をすればいいのかよく分からなくて、ずっと昔にアップされたお笑い芸人のコント動画を見ては寝たり起きたりを繰り返した。こんな人生に何の意味があるのか、と時々考える。そんな思考すら意味がないことを殊更実感するのは、日曜日の夜だった。

 夏が過ぎ、外回りの度にシャツをずぶ濡れにするような不快な暑さは、いつの間にかどこかへ消えていた。緑の葉がところどころ黄色くなっているのを見たとき、ああこんな風に斑に色を塗る誰かさんがいたなと突然思い出して、頭が少しツンとした。今何をしているのかなんて、正直一番知りたくない人物である。それなのに、道沿いに植えられたそのイチョウの葉が風になびいて、向こうにある小さなギャラリーの入り口を俺に見せてきた。とある画家の展示会だった。

 白を基調としたコンクリートむき出しな小さなビルの一階に、チョコレートのようなブラウンのシャツを着たあいつが立っていた。平日だというのにそこそこ賑わっているらしい。そして俺は地味な海色のネクタイを締めて、これから帰社しようとしていた足を止めている。

「ねぇ!」

 目が合うと、あいつは人目も憚らずそう叫んで手招きをした。何人かの客はこちらを振り返ったが、別段興味はなさそうだった。

「最近涼しくなってきたね。元気?」

「お前、世間話とかできるようになったの。」

「一応。」

「画家になったんだ。」

「いや、フリーのイラストレーターみたいな……。普段はね、近所の花屋さんでバイトしてる。食べていけないから。」

 こいつはポケットから革の名刺入れを取り出して、俺に一枚渡してきた。ペンネームらしい「萩野月」という名前と、SNSのアカウント情報が記載されている。こいつ、名前にするほど好きだったのか、あの菓子。

「俺、お前はゴッホくらい有名な画家になるんだと思ってたわ。」

「ゴッホが有名になったのは死んだあとだから、まだ分かんないね。」

「へぇ。それにしたってファン多いな。なんかの絵がバズったとか?」

「すずめの絵。あれ。」

 歪な形の爪が、そっと背後の絵を指す。桜の花を啄ばんで落とす二羽の雀が、今にもそのふっくらとした羽毛を震わせて飛び立たんとしているようだ。

「サラリーマン、順調?」

「どうかな……。上司の指示聞いて、めんどい資料とかパワポとか作って、電話かけまくってスケジュール合わせて……そんな感じ。」

「使われてるんだ。」

「下っ端なんてそんなもんだよ。……あー、俺もう行かなきゃ。」

「仕事中なのにありがとう。」

 ひらりと振った手に控えめに光る、細い指輪は見ないふりをしておいた。

 ギャラリーを出ると、たまたま前を通った女性からシトラスの香りがした。元カノが好んでつけていたパルファムと同じようなにおいで、俺はついその高いヒールを目で追った。ふと振り返ったギャラリーには笑顔のあいつと客がいて、ひっきりなしに誰かの声が聞こえてきて、そのどれもが楽しそうで、穏やかであたたかい白の照明が無性に眩しく感じられた。壁に並ぶ様々な絵の中には学生時代に描いたアゲハ蝶の絵もあったけれど、俺の知らない絵ばかりだった。昔はひょろひょろだった線が、ありありとリアルを映し出す力強い線に変わっていた。夢みたいな、幻みたいな、抽象的で不思議な色遣いはそのままで、そんなにすごいのにあいつは、絵一本では食っていけないフリーターになっていた。なるほど、芸術の世界は一際厳しいらしい。

 ああ良かった。……そう思ってすぐに、俺は振り払うように歩き出す。

 いつまでも手に持ったままだった名刺を見ると、裏には『お隣さん』が印刷されていた。俺は情けなくなって、その名刺をくしゃくしゃに握り潰してポケットの奥にしまいこんだ。


 数時間後、申し訳ございませんでした、と頭を下げた俺の唇は真っ青だった。こんな俺をあいつが描いたら、リアルに、それでいて意味もなく鮮やかで繊細に美しくしてくれるのかもしれない。

 重大なクレームに発展する前に、上司が手を打ってくれたのはこの上ない幸いだ。何かがあっても最終的に責任を取るのは上司だから、といつもの柔らかい声音を崩さずに言ってくれたことが嬉しかった。それと同時に、この人が責任を取るほどの価値が自分にあるのかと自問する。

 小さい頃は宇宙飛行士になりたかった。惑星の図鑑を眺めるのが好きなだけだった。学生時代はサッカーにのめり込んでいたが、自分の実力を知ってあっさりと身を引いた。所詮その程度で、何事にも大した熱量を抱けなかった。俺には才能がないのだ、凡人なのだ、そう言い聞かせてあらゆる事から自分を遠ざけた。努力を怠る言い訳が欲しかっただけなのかもしれない。

 あいつは眩しい。あいつは絵が上手いだけで他のことは俺以上に何も出来ないけれど、そんなあいつが眩しいのだ。ゴミ出しの曜日を覚えられなかったり、電子レンジにアルミホイルを突っ込んだり、トイレに置くだけの洗浄剤の蓋を開け忘れたりするけれど、それでも、あいつがどうしたって太陽よりも眩しい。

 生まれ持ったセンスで手の届かない場所まで突き進んでいく存在だと思っていた。俺のような取り柄のない凡人では比較対象にもならないのだと。だから、あいつに憧れることがあれど、嫉妬することはなかった。それが今はどうだろうか。社会に出た途端、自分はその他大勢であり、あいつはその他大勢ではないと痛感して、それでもあいつはプロになれるほんの一握りに入れなかったのだと知って、あの瞬間湧きあがった醜い喜びがずっと俺を責め立てた。

 会社と家を往復し、休日には友達に会い、特別なことは何もないまま、しれっと日々が進んでいく。そういう生き方に俺を導いたのは、紛れもなく過去の俺である。だけど、だからって、俺はどうすれば良かったのだ。俺は絵が描けない。サッカーが上手くない。頭も良くはないし、それら全て、努力で手に入れられたとは到底思えないのである。と……いうのも怠惰の言い訳か。

 一人の家に帰る道中、立ち寄ったコンビニで冷たい缶チューハイのプルタブを起こした。自棄酒をするにはあまりにも正気で、情けなさがただ際立つ。こんな日くらいは、と自分を甘やかして買った少し高いベーコンのつまみも、今見るとそうそそられないのが悲しかった。チカチカとする街頭の下、点滅する視界の中で柔らかくなった革靴を見つめながら、狭いアパートに歩を進めた。

 玄関で鞄を放り、空いた缶を流しに投げ込んだ。シャツの胸ポケットから煙草を取り出すとポロリと何かが落ちて、丸められた『お隣さん』を拾い上げて、そっと開いた。あいつのSNSのアカウントを探してアイコンになっている『お隣さん』を見つけると、アップされた数々の絵を指先一つでスクロールしながら、咥えた煙草に火を点けて、息を吸って吐いて、それから少し涙が出た。

『なんでこの絵なの。』

 送ったダイレクトメールにはすぐに返事が来た。

『一番気に入ってるから。』


***


 湿度の高い都内の交差点で赤信号を見上げた。化粧品会社から依頼があり、半年後に販売されるバレンタイン限定チョコレートを任された。任されたというか……担当というのは名ばかりで、どうせいつもの通り、上司の指示通りに動くだけなのかもしれない。別にそれでも構わないのだが、貰ったチョコレートのイメージや、販売されている人気のコスメの画像を見たとき、真っ先にあいつの顔が浮かんだ。

「営業……。」

 打ち合わせと称して呼び出した駅ナカのカフェで、あいつはしげしげと俺の名刺を眺めた。平社員の名刺など、見るところはそう多くない。カウンター席の椅子に座ったが、あいつの背では足が付かないようで子供のようにぷらぷらと揺らしている。

「うちはOEMだから菓子は作れるけどパッケージは専門外。デザインはいつも外注なんだよ。」

「OEMってなに?」

「菓子売りたいけど菓子工場がないっていう会社のために、代わりに作ってやるみたいな感じ。」

「ふぅん。」

 名刺に印刷された俺の顔と、目の前にいる俺の顔を交互に見てから、結露で濡れたグラスを持ち上げた。ロイヤルミルクティーにガムシロップを足した甘そうなそれを、ちびちびと飲みながら今度は企画書に目を通す。首もとがヨレヨレなこのティーシャツは、隣に住んでいたときもよく着ていた。よく言えば物持ちがいい、悪く言えばダサい。スーツを着ている俺が何だか馬鹿みたいだ。

「こういうの、友達に頼むってアリなの?」

「上司に言ってない。俺がただ好きなイラストレーターってことにしてる。デザイン会社でもフリーランスのイラストレーターでも、やることは一緒だし。」

「そうなんだ。コンペ?」

「そう。得意だろ、コンペ。」

「まぁそうだね。」

 ベリーとシトラスの二種類のチョコレートが描かれた可愛らしい企画書は、女子が見ればきゃあきゃあ言いながら喜んだことだろう。だが、俺もこいつもオーガニックがどうの、ナチュラルテイストがどうのと言われても、何だかよく分からなくて目が滑ってしまう。それでもこいつはすぐに手帳とペンを取り出して何やらガリガリとやり始めたので、あ、本当にイラストレーターなんだなと今更実感した。絵を描く顔は昔と何ら変わらないので、感慨深さすらある。

「今度、うちの上司に挨拶してもらうことになるかも。お前って名刺交換とかちゃんとできんの?」

「うん。」

「俺の絵が描いてあるやつ渡されんの気まずいなぁ……。バレねぇよな多分。」

「違うやつ渡すよ。ちゃんとしたやつ。」

「あんのかよ、くれよそれ。」

 ああ、とあいつはぼんやり返事をして、革の名刺入れからこの間とは違う名刺を取り出して渡してきた。メールアドレスと電話番号と住所。裏を見ても俺は描かれていないが、その代わり小さな紫陽花がぽつんと咲いており、妙に懐かしくて思わずため息をついた。随分歳をとったなぁ、と老人みたいなことを思う。

「上司に会うときは小綺麗な格好で来いよ、頼むから。」

「分かってるよ。」

 ずぞぞ、とミルクティーが一気に消えて、あいつは俺の名刺をさっさと名刺入れにしまった。よくよく見るとあの名刺入れは、大学卒業時に贈られた祝いの品である。校章が印字された滅茶苦茶ダサいやつだ。まさかあのSNSのフォロワーたちも、あんな絵を描くやつがこんなに身なりに頓着しない人間だとは思わないだろう。

「もう帰っていい? 描きたい。」

 あいつはそう言い残して、俺の返事を聞くや否やカフェを飛び出していった。奢った一杯のミルクティーが無駄にならないことを願いながら、俺は半分くらい残ったアイスコーヒーをゆっくりと胃に流し込んだ。

 それからは怒涛の日々を過ごした。てっきり俺は雑用だとばかり思っていたのに、客とのやりとりは全部俺、諸々の決定も俺、何もかもが俺! まぁ担当が俺なのだから当然である。だが心のどこかで自分はまだ新人で、上司もそこまで期待してはいないだろうと甘えていた。

 上司とあいつの商談の日、俺はあいつがヨレヨレのティーシャツを着てこないか内心ヒヤヒヤしていたのだが、綿の白いシャツで現れたのを見てほっと胸を撫で下ろした。商談途中も、突然「描きたいので帰っていいですか。」なんて言い出したらどうしたものかと思っていたが、俺が思うよりあいつはずっと社会人だった。そりゃあそうだ、俺達はもう学生ではないのだとメモを取る手を一瞬止めたが、あいつのそんな当たり前な姿すら俺には酷く新鮮だった。

 例えばこの世で人生を評価するコンクールがあるとすれば、俺みたいな平坦な人生より、あいつみたいな突出した一つの何かを持っている人生のほうが、きっといい賞をもらえるのだろうと思う。あいつは誰かに評価されて順位をつけられる人生を選んだわけで、そもそものスタートラインに立てていない俺とは大違いだ。

「そんなコンクール無いから、考えるだけ無駄だと思うよ。」

「分かってるけど 。」

「僕に嫉妬してる?」

「絵に関してはな。」

「だろうね。」

 煙草休憩のついでにこいつをオフィスの外まで送っていった。デザインコンペが終了したころには、この道路沿いのイチョウも穏やかな山吹色に染まっていることだろう。

「人としてっていう話になると、絵だけ描けてもそれ以外が駄目ならしょうもないでしょ。」

「そりゃそうだけどさ。」

「でも僕、絵以外も出来るようになりたいとは思わない。面倒くさいし。僕を見てて、絵が描ければいいなぁとは思っても、絵の練習をしようと思ったことはないでしょ。」

「まぁ、ないな。」

「ならもういいじゃん、それで。」


***


 百貨店一階は女性でごった返していた。色んな香水が少しずつ混じって、フロア全体に華やかな香りが漂っている。厚手のコートは黒、グレー、ネイビーと暗い色が多いが、チョコレートを手に取る顔はそれとは対照的だ。退勤ラッシュの真っただ中、俺は人々に押し流されつつ右端のコーナーに向かった。

「ここの化粧水使ってるんだけどめっちゃいいよ~。」

「試してみようかな、乾燥しちゃって化粧ノリ最悪なんだよね。」

 可愛い、おいしそう、という感想の隙間からそんな言葉も聞こえてくる。会計に並ぶ女性たちはチョコレートの他にも肌ケア用品や化粧品も握りしめていた。なるほど、百貨店の特設バレンタインフロアに乗り込んでくるだけはある。

 『bouquet』という文字が金色の箔で押されたパッケージ。花束の形をしていて、開けるとピンクとオレンジの花の形をしたチョコレートが並んでいる。蓋に書かれた薔薇は、食べれば甘そうな優しい色合いをしているけれど、選んだ差し色には相変わらずのあいつ感が漂っていた。

 あいつのアカウントでは「コスメブランド『bouquet』のバレンタイン限定アイシャドウとチョコレートのパッケージをデザインしました。」という宣伝と共に、下手くそなチョコレートの写真が載せられている。画角とか明るさとかを何も考えていないのがよく分かる写真だが、ファンの反応から察するにこいつの写真下手は有名らしい。まぁ、いいか別に、と俺は騒がしい百貨店を後にした。


四、金魚


 朝のテレビをつけて、俺はギョッとした。直木賞受賞作品とその作者が紹介されたのち、落選者の作品紹介が始まったのだ。その時、あいつの絵が急にアップで映し出されたのである。あいつの好きな花の絵ではなく、金魚の絵だ。しかも死んでいる! 本のタイトルは『追憶の水槽』というそうだ。一体何の話だというのか。驚いた拍子に飲んでいた水が気管に入って、盛大にむせたおかげでニュースはほとんど聞こえなかった。だが、いちいち表紙の作者の話まではしないだろう。それから画面は受賞者のインタビュー映像に切り替わり、あいつの絵はとんと出てこなかった。

 チョコレートの一件で知名度が上がったあいつは、その後も色々な企業のグッズやパッケージでコラボをした。知名度が上がった、と言ってもネットを中心に活動していることは変わらず、クリエイターたちが集まって作品やグッズを販売するイベントなんかにもよく出展しているらしかった。真っ白な壁に一発描きをする動画は圧巻だった。

「本って読む?」

 隣のデスクの後輩は、ごちゃごちゃになったクリアファイルから書類を出しては、これじゃないこれじゃないとぶつぶつ文句を言っていた。俺がせっかくあげた五個もポケットが分けられたファイルなのに、全く活用できていないらしい。

「読みます! 直木賞取った本、あれ結構面白いですよ。」

「あー、今朝ニュースで見た。」

「落選しちゃった本の表紙、『bouquet』の時のデザイナーだよね?」

 上司が書類片手に現れて、後輩に渡した。提出したことをすっかり忘れていたらしい後輩は、散らかったデスクをちらりと見やってから、あどけない笑顔で誤魔化す。三つも下になると子供に見えてきて仕方がないのだが、昔の俺も先輩から見たらこんな感じだったのだろうか。

「デザイナーっていうよりかは画家ですね。あの人。」

 そして俺は相変わらず他人のフリをする。

「読んでみようかなぁ。」

 後輩は早速スマホのリマインダーに『追憶の水槽』と打ち込んだ。

 帰りに本屋に寄ってみると直木賞コーナーが設けられており、ノミネート作品がずらりと平積みされている。受賞作品は一際高く積まれ、書店員が書いたであろう気合の入ったポップが掲げられている。通りがかった人々は皆、ポップを見て、手に取り、ページを捲り、レジに行く。だが、その本たちの中でも一際目を引くのはあいつが描いた表紙だった。小さな子供の掌にぐったりと横たわる金魚の死体は、ぬらりと光っていて妙にリアルだ。なのに、まるで祝福するような色使いで塗られたその金魚からは、死の悲しさは不思議と感じられなかった。

『幼い頃に転んで作った擦り傷の痛みはもう忘れてしまったのに、その時に見た君の汚れたスニーカーだけは忘れられない。』

 書き出しの一文を読んで、漫画の最新刊と一緒にレジに持って行った。普段ほとんど本は読まないのだが、インテリアにならないようにしなければ。



***



「生きてるときは可愛いんだけどね。なんだろうね、死ぬと気持ち悪いよね。」

 そう言ってあいつはジョッキに刺さったストローに口を付ける。ジョッキは重いから持ち上げるのが面倒らしい。そんな風にサワーを飲むやつは馬鹿かこいつくらいだと思うが。そんな俺は社会人になって口癖となった「とりあえず生で。」を傾けて、左手は意味もなくおしぼりをいじっていた。

「魚って普段は触れないじゃん。」

「そうなんだ。」

「ストレスになるし、人間の肌って熱いから魚が火傷するんだってさ。」

 こいつは幼少期に、縁日で掬った金魚を飼っていたらしい。その割には随分と長生きをしたようだが、その長い間ずっとガラス越しに見つめるだけだった命を、掌に乗せたときのことは鮮明に覚えているという。そう語る中、あいつは箸で器用にほっけの身を崩した。

「観賞魚って死んで始めて触れるんだけど、ヌメヌメしてて気持ち悪いし、鰭がペタって手に張り付くし、急にくるナマモノ感が、嫌だなって。おっきい目も間近で見ると怖いんだよね。」

 へぇ、と相槌を打つ俺も、ほたるいかを口に放り込んで奥歯で噛み潰す。内臓なのか何なのか、クリーミーで旨い何かが身からじわりと溢れて、口の中は潮の味で満ちた。ビールで流し込んで、向かいのあいつがもつ煮込みに七味をかけすぎて顔をしかめたのをただ見守る。あれじゃかなり辛そうだ。

「それがすごい嫌で、でもすごく好きだった。今も好き。好きなのに、嫌だなって思うのが嫌。そんな感じで描いた表紙だよ。」

「読んだよ。そんな感じの話だったな。」

 ジョッキのカルピスサワーが徐々に減っていく。おかわりは? と聞く前に小さく「グレープフルーツ絞ってくれる?」と言った。そのくらい自分でやれよとは言わなかった。まぁ、そのくらいならやっても別にいいかと思ったのだが、オーダーを取りに来た店員にこいつが注文したのはコークハイだった。そういう気まぐれを許してやろうと思えるのもこいつが天才故か。いや、付き合いの長さもあるだろう。

 世間の評価からすればこいつは恐らく天才にはまだまだ到達しないレベルなのかもしれない。高校のとき美術誌に小さく載ったのは、高校生のわりに上手い、みたいなそんな感じだったのだろうか。美大の時にも数々の絵をコンクールに出していたが、以前よりいい成績は残せなかったようだし、こいつ自身も自信がないと言ったり、俺に絵を見せに来なかったり、あの頃から既に芸術の高い壁に阻まれていたのだろうか。

 それでもやっぱり、俺にとってこいつは特別だった。高校の時は勉強という本分があったから気にならなかったが、自分の人生の先が見えてきた頃にはこいつのことがコンプレックスになりつつあった。いつも手の届かない場所にいて、引きずり下ろすこともできず、粗探しをしても満たされず、でも、結局俺はこいつの絵を前にするとそういうごちゃごちゃの全てが泡みたいに消えてしまう。……なんてしみじみとしながら枝豆を摘まんだら殻だった。

「このあとさ。」

「お前さぁ、殻を皿に戻すのやめろ。」

「僕んちおいでよ。」

「なんで?」

「見せたい絵があるんだよ。」

 俺達はたったの二杯で飲み屋を出た。こいつは、待ち合わせしたときよりも軽い足取りで駅の改札を通っていく。よくよく見ると、使っている定期入れにはこいつの描いた絵がプリントされていた。聞いてみると、イベントで販売したグッズをそのまま使っているらしい。

 先程までの元気は電車に乗った途端にしぼんで、地下鉄の騒音と揺れで段々と眠くなってきたらしい。こいつはうとうとと舟を漕ぎつつも車内アナウンスを聞いて時々顔を上げていたが、やがてピクリとも動かなくなった。どこで降りるのか聞き忘れた。終点の三個前になるとほぼ乗客もいなくなって、八号車には俺達と金髪の男と老夫婦しか乗っていなかった。そんなときに金髪の男が誤って大音量で音楽を流したので、こいうはビクリと肩をすくめて目を覚ました。それから、「あっ。」と言って慌てて立ちあがる。

 昔住んでいた学生マンションよりはマシな広さなのだろうが、ものはあの時より増えていて余計に狭く感じた。身体を縮めて廊下を通り切ると、やっぱり四方の壁に絵がかけられていて、床には大量の画材を突っ込んだ段ボールがそこらじゅうにある。学生時代と変わったことと言えば、絵を描くためのパソコンが窓際に置かれていることくらいだ。

「電子データっていいよね、かさばらなくて。」

「全部それにすればいいじゃん。」

「紙に描く方が楽しいし、いっぱいあると嬉しいじゃん。」

「そうやってお前がじいちゃんになってもずっと絵描いてたら、きっとお前の名前の美術館が建ってさ、お前の絵ばっか飾られるんだろうなぁ。」

「わざわざそんなもの建てないで、僕の家に見にくればいいんじゃない?」

「知らねぇ人がいっぱい家に来んの嫌だろ。」

「じゃあ僕用の家をもう一個借りようかな。」

「だったら美術館建てるのと同じじゃね?」

「本当だ。」

「で、見せたいやつって?もしかして全部か?」

「あのね、小さい出版社だけど画集を出すことになって。今まで自費で出してたんだけど商業出版は初めてだから。」

 そう言って、立てかけられていた絵のいくつかを俺に見せてきた。「表紙、どれがいいと思う?」と代わるがわる眼前に掲げられた絵を見て、書店に並んでいるのを想像して、じわじわと嬉しくなってきて、どれがいいとかは決められなくなってしまった。

 これは七分先のチューリップに鼻先を寄せる少女の絵だ。こっちは炬燵でみかんを剥く男の子の、林檎のような頬が愛らしい。人を描くのは苦手だと言ってたあの頃が懐かしくなった。それらの暖色の穏やかな絵とは打って変わって、雨の日の暗いアスファルトにできた小さな水たまりとそれに映った信号機や、雪が積もった椿の花は、静かで清らかな世界に一匙の熱を感じられるように、僅かに塗られたオレンジ色が映えていた。

「どれもすげぇけど。」

「それは知ってる。」

「あーそうだ、あれはどう?」

 俺はその部屋に置かれていた本を指差して言った。一瞬、時が止まったかのように静かになって、それから、こいつは心底可笑しそうに笑ったのだ。



「覚えておいて。」

 帰り際、玄関で革靴に足を押し込んだ俺に対して、特有の無表情を浮かべていた。

「僕はゴッホじゃないから、僕くらいの絵じゃ死んだあとだって有名にはならない。僕はその他大勢と同じだよ。」

「そうかもな。」

「それでもあの時、僕を見つけてくれてありがとう。」


***


うちの美術部、コンクールで賞とったらしいよ。

え~、誰?

分かんないけど、優秀賞だって。

優秀賞って上から何番目?


 厚くて重いその冊子には、生き生きと泳ぐ金魚と、その鉢を覗き込む小さな男の子が描かれていた。その表紙に触れただけで、水の冷たさや金魚の生命、子供の温度を感じられるような気がした。


 荻野月 画集 タイトル『優秀賞』


 なぁ、全部俺の友達が描いたんだぜ、見ろよ。

俺はその控えめに展開されたコーナーを前に、あの頃のような誇らしさと、少しの嫉妬を滲ませた。



11月の文フリに出る予定です。この作品は本として刷ったので余部だけ持ち込む予定です。(書き下ろし等はなし)

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