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おやすみ

 女――八千代が話し終えても、タギは一言も発さなかった。

 八千代もまた、話し終えたきりだった。

 緩やかな風が、顔を伏せた八千代の長い髪と赤紅色の衣を揺らす。

「……話は終わった」

 風が止み、八千代は顔を上げてタギを見た。

「今度はそなたが約束を果たす番ぞ」

 彼女の枯れ木のように細い手には白い白い、永久の骸。

 話を聞いた限り、彼女は数百年単位でこの場所に座り続けていたことがわかる。この骸もよく今まで、風化して朽ちずに彼女と共に在ったものだ。

 タギはそのぽっかりと空いた眼窩(がんか)を見てそう思った。

 八千代は焦れたようにタギを呼ぶ。

「タギ」

「……俺は意外とリアリストなんだよな」

 唐突なタギの言葉に、八千代は困惑に眉をひそめた。

「何を申しておる?」

「だからそのされこうべ、それに魂が宿ってあんたを見守っていたとか、そんな可愛らしいことは思わないんだよ」

 錫状を手に取り、タギは続ける。

「奇跡的だとは思うけど。今までずっとこの風の吹きさらす岩の上にあって、形を留めて何百年もあんたの手の中にあったって言うのも」

 タギの口調は淡々としたもの。

 感情も何もない、ただ事実だけを語るもの。

「……何が言いたい?」

 八千代ははっきりとしないタギを睨んだ。

「人は時に、幸福な偶然を運命と呼ぶ。だったらあんたの手の中で今も形を留めてるあんたの旦那のことも、運命と呼んでいいんじゃないか?」

 揺らした錫杖がしゃらんと涼しげな音を立てる。

「幸福な偶然が運命……」

「そう思ったほうが、一つひとつの繋がりがより大事なもんだと思えるから、俺はそう思うだけの話だけど」

 零すように言ってから、仕切り直すようにタギは張りのある声で続けた。

「約束だから旦那の供養はする。けど、あんたと離れ離れにするような供養をしたら、逆に俺があんたの旦那に祟られるような気がしてきた」

「何を莫迦な……!」

 叫びかけた八千代を遮り、タギは続ける。

「あんたのせいで旦那が死んだって思ってるみたいだけどさ、鬼と暮らしてどんな目で見られるかなんて旦那だってよく分かってただろ? それでも旦那はあんたと暮らすことを選んだ」

 八千代は手の中の髑髏(されこうべ)に視線を落とした。

「地位を約束されていた……って言っても時代的に貴族もヤバかったか。けどまぁうまくやればジジイになっても贅沢に暮らせただろうよ。けど旦那はそれを捨てたんだ。地位と財産を保障された生活より、危なっかしい鬼女といることを選んだんだろ」

 どこまでも淡々と。

 八千代に言い聞かせる気などさらさら感じさせず、ただ自分の感想を述べるだけのようにタギは話す。

「あんたが旦那を手放せなかったように、旦那もそうだったんじゃないのかって俺は思った。だから供養するなら、あんたと離れ離れにならずに済む方法で、だ」

「……妾は」

 八千代は手の中のされこうべを、壊れそうなほど強く抱きしめた。

「こやつを不幸にした」

 ぽたぽたと、赤い雫が白いされこうべに零れてゆく。

「妾と居たばかりに、永久は殺された」

 赤い涙が止め処なく零れ落ちる。

「妾が居ては、永久は幸せになれない……!」

 遠い昔に枯れ果てたと思った涙が、思い出したように溢れてゆく。

 いつか自分が消え去る日までせめて。

 そう思い、罪悪感と共に彼をこの手に抱いていた。

 もう一体いつからそうしていたのか思い出せないほどの時間を、そうして過ごしてきた。その間、消えることのない罪の意識が当たり前のように染みついていた。

「……別にあんたが決めることでもねぇんじゃん? そいつが幸せかそうでないかなんて」

赤い涙に染まる目で、八千代はタギを見た。

 タギは相変わらず錫杖を弄びながら、八千代を見ることすらしない。

「他人がどう思おうが、自分が幸せって言ったら幸せだって奴なんていっぱいいるしさ。俺が見てきただけでも、惚れた女に騙されて文無しにされても幸せだって言い張った奴とかいたし、他人からは哀れみの対象にしかなってなかったけど。でも別に本人がいいならそれでいいんじゃないかって」

 シャラシャラと音を立て、錫杖が鳴る。

「自分が幸せかどうかなんて、自分で決めればいいんじゃない? 自分がいいって言ってるのに、他人に否定されたら気分良くないし」

 シャランと一際大きく音を立て、錫杖はタギの手で静まった。

「まぁそれが俺の信条だから、本当は俺もその頭だけの旦那がどう思ってたかなんて口出すのもあれなんだけどさ」

 不本意そうに口を歪めてタギは言う。

「けど俺はやっぱり自分のが大事だし、何か祟られそうな気がして堪らないのを黙ってるのも気分悪いんだよなぁ」

 どこまでも自己中心的な男。

 呆れが長年の後悔と自己嫌悪に勝ったのだろう。気づけば八千代の涙も止まっていた。

「そなたは……何を考えているのかまるで分からぬ」

 するとタギは不思議そうな顔をして八千代を見た。

「だって分かってもらえるほどの付き合いじゃないだろ? 俺達」

 全くその通りだ。その通りなのだが、これほどまでに己を通す者など、永久以来初めて見た。

「酔狂な坊主ぞ」

 そう漏らした声は、微かに柔らかな物。

 八千代自身は気づいてもいなかったが、確かにその顔には零すような笑みが浮かんでいた。

「鬼と鬼事をしているとほざいたり、説法かと思えば己の理屈ばかり。今までそなたのような坊主は見たことがない」

「うん。俺ほど善良で慈悲深くて懐の深い、清く正しい男は国中探してもまずいないな」

 真顔でそんなことを言うタギに八千代の目が大きく見開かれ、それから笑い声が漏れる。

「ふっ、あはははは」

 おかしな奴。

 確かにいやしない。

 こんな馬鹿な坊主、探したとてあの世にもこの世にもいないだろう。

「……美人のお姉さんの笑い顔を見れるってのは悪い気分じゃねーけど、自分がその笑いの対象になってると思うとアレだよな」

 タギは目を据わらせて八千代を見ていた。

 その顔はまるで幼子のよう。

 本当に妙な人間だ。

 大人のようで、子供のようで、そのどちらでもあるようで。

「ふふっ……済まぬ。しかし声を上げて笑ったのなど一体いつ以来のことか」

「あー良かったねえ」

 棒読みに言うタギに、また笑みが込み上げてくる。

「しかし……そなたは良い坊主になれそうだな」

「それはドウモ」

 よほど笑われて気に障ったのか、タギはすっかり仏頂面に棒読みだ。

 外観は明らかに二十歳程度の男だと言うのに、その様は拗ねた幼子のようにしか見えないからおかしい。

「長年の、重い何かを下ろせた気分だ」

 その手に抱えるされこうべを見て、そう呟く。

「……タギよ。妾は永久と共に逝っても良いと思うか?」

 タギは少し不思議そうな顔をしてから、躊躇いなく答えた。

「俺は知らないさ。あんたらの事、聞いただけで実際には知らないし」

 あっさりと、迷いなくそう言ってのける。

「そうか」

 ほんの一刻も経たぬ時間を過ごしただけの相手なのに、実にタギらしい答えだと思ってしまう。

 他人を救う気は殆どない。

 己の言葉を口にしてもそれを押しつけようと言うわけではない。

「……良い坊主にはなるやもしれんが、万人受けする坊主ではなさそうだな」

「万人に無条件に受け入れられるモノなんて、この世にあるの?」

「ないな」

 万人受けどころか、どちらかと言えばタギは敵も作りやすい性質だろう。

 だが少なくとも――。

「妾はそなたに少しばかり救われた。礼を言う」

 初夏の新緑の香の風が八千代の髪を揺らし、タギへと吹き抜けて行った。

「一体どれほど振りのことか……とても、清々しい気分だ」

「そりゃあ良かった」

 八千代の呟きに、タギはほんの少し相好を崩した。

「……そなたは善人か悪人か、よく分からぬな」

「決まってるだろ? 一分の隙なく世界始まって以来の善人だ」

 胸を張って行ったタギに、八千代はまた笑った。

 そしてタギも笑い、真っ直ぐな眼差しを八千代に向けてきた。

「もう一度だけ聞いておこうか? 本当にこれでおしまいでいい?」

「……ああ」

 八千代は儚げな笑みで、だがしっかりとした声音と共に頷いた。

「そして叶うことなら……永久と共に逝きたい。可能か?」

「鬼を討つのは少しばかり乱暴な手段になる。まぁ分かりやすく言うなら、お姉さんと旦那を一緒に斬るとかな」

「……ではせめて、その後に永久のために経を上げてやってくれぬか? 最期の時まで妾は永久と共に在りたいのだ。だがせめて、妾が滅んだ後は……」

「お姉さんと旦那のために、俺が心を込めて経を上げてやるよ?」

 八千代の懇願にも似た言葉を、タギはどこか意地の悪い笑顔と共に断ち切った。

「次の夜の世界が穏やかなものであるように。本来なら金を取りたいところを無償でお姉さんと旦那を供養してやるよ」

「次の、夜の?」

 八千代が目を丸くして聞き返すと、タギは「知らない?」と言って逆に驚いてみせた。

「ああ、この辺りじゃそういう話はないのか。この世で死んだ魂は夜の世界へ行くんだってさ。そして次は現つの世界へ、そして次にまた今のこの世界へ戻ってくる。そうして魂は三つの世界を巡り続けるらしい」

 穏やかな耳に心地よい声が語る。

「生前の業によっては例外もあるらしいけど。殺生とか自害とか」

「……初めて、聞いた。仏道にそのような教えがあるとは知らなんだ」

「あ、今のは仏教じゃねぇよ?」

「そなたは仏道を修める僧侶ではないのか?」

 八千代は目を丸くして聞き返した。

「一応ね。でも今のは俺がガキの頃聞いた話。俺は魂とか死後の世界とか、自分で見たことないものって信じない派なんだけどさ、この話だけは少し信じてる」

「信じないのに、か?」

「うん」

 それ以上聞かせる雰囲気も作らせず、タギは立ち上がって錫杖を地につけた。

 八千代は長い時を共にした髑髏を胸に抱いた。

「何にしても、永久とはこれで今度こそ別れだな。妾は罪を犯し過ぎた。否、永久はとうの昔に何度も生まれ変わっておるか……」

「魂を焼かれるような裁きを受けてそれで改心出来るようなら、もしかしたらどこかの神様とかそういう偉いのが、次の世へ行かせてくれるかもよ?」

 救いとも、慰めとも知れない言葉だ。

 ましてこの胡散臭い坊主のこと。当てにはならない。

 ならないが――。

「そうなれば、良いな」

「ま、それ以前に魂なんてものが本当にあるのかも怪しいけど」

 ぼそりと呟いた言葉が、全て台無しにする。

 本当にこの男は何がしたいのか……。

「そなた、妾を慰めるつもりか? それともいたぶるつもりなのか?」

 八千代が睨めつけると、タギは何度も目を瞬かせ、当然のように答えた。

「まさか。別にどっちも全然そんな気ないけど? ただ俺は思ったことを言っただけで」

「……全く。そなたは永遠に妙だと言い続けても足りぬくらい妙な男だ」

 八千代は額に手を当て、息を吐いた。

「だって変に期待持たせても悪いかと思って。お姉さん執念深そうだし、もしこれで化けて出られることでもあったら怖いし」

「そなた、魂があるかも分からぬと言ったばかりではないか」

「うん。分からないから無いかもしれないし、あるかもしれないだろ?」

 確かにその通りだ。

 その通りなのだが。

「……そなたは間違いなく大物になる。鬼女をここまで困惑させた男なぞ、そうはおるまい」

「俺はしがない小市民でいいんだけどな。大物なんて面倒くさそうだ」

「口の減らぬ小僧よ……だが、お陰で退屈せずに済んだ」

「うん」

 タギは錫杖を握り直し、八千代を見た。

「魂が縁を結ぶと、次の世界でも縁を結ぶ可能性が高いんだってさ。これも昔聞いただけの話で、信憑性はないけど」

「ならば、永久ともまた出会える可能性はあるということか」

「正確には旦那だった別人だけどな」

「いちいち可愛げのないことを申すな」

「性分で」

 シャラリと音がして、錫杖が八千代に向けられる。

「それじゃあお姉さん。次があるなら、今度は常夜の世界だ」

「ふん。わらわに次なぞあるものか」

 悪態を吐きながらも、八千代の表情は穏やかだ。

 タギは一度、大人でも子供でもないような透明な笑みを浮かべた。

 そして彼女と、彼女の伴侶へ最期の言葉を送る。

「おやすみ」

 それに応え、八千代も笑った。

 花のように、柔らかに穏やかに――。

 風を切る音と共に、硝子が砕け散るような音がした。

 そしてタギの耳に届いた声は本物か、空耳かは分からない。

 

 ――有難う。


 若い男女の声のようにも聞こえたが、気のせいかもしれない。

 だが、もしかすると気のせいでないかもしれない。

「……おやすみ」

 もう一度、常夜の世界への手向けの言葉を送り、短い経を読み上げる。

 そして顔を上げ、かつて髑髏を抱いた鬼女の座した苔むした岩を空を切って降りた。

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