八千代と永久
「あの者に刀を与えるとは真ですか?」
若い男の姿をした鬼は八千代を見上げて尋ねた。
八千代は答えない。ただまっすぐ、朱に染まりつつある空を見据えている。
「喰ってしまえばよろしいではないですか。近頃は主も肉を食されておられないでしょう」
「肉は飽いた」
落ちた言葉に、鬼は渋い顔で呟いた。
「……主は変わられた」
「そうか」
遠い眼で沈みゆく夕陽を眺め、そう答えた。
そして沈黙と共に夜が訪れる。
鬼は本来、食糧を必要としない。
血肉はあくまで嗜好品にすぎず、必ず摂らねばならないものではない。
何重にも纏った衣もそのままに、八千代は寝台に横になった。
眠れない。
本来なら眠る必要もないのだが、今は眠ってしまいたい。
何も考えずにすむように。
堅く瞼を閉じ、そう願う。
こんなこと、長い記憶の中にただの一度もない。胸が苦しくて、閉じられた瞼が熱い。
「八千代」
夜闇の静寂を破るよく通る声に八千代は顔を上げた。
母屋の外から聞こえるのは、この屋敷に唯一の人間の声だ。
「……まだ、刀なら出来ぬ」
「知っている」
「ならば疾く去れ。そなたに貸し与えたのは東対ぞ」
だが気配は去らない。それどころか、勝手に襖障子が開く。
八千代は体を起こし、そちらを見た。
「……何か用か?」
「何故、泣いている?」
影は八千代の問いには答えず、彼女の眼尻に触れた。
濡れた感触。
「泣いて……?」
その時初めて八千代は自分が泣いていたことを知る。鬼と化した身である己が泣くことが出来るということも、この時初めて知った。
「……知らぬ」
何故泣いているのかなど、こちらが知りたい。
「何故、妾は泣いている」
「自分のことなのに、わからないのか?」
「今まで泣いたことなどなかった」
自覚した途端、涙が溢れてくる。
嫌だ。永久には見られたくない。見えなくとも嫌だ。
八千代は俯き、低く声を発した。
「……去れ」
「嫌だ」
「去れ。喰われたいか」
「それをお前が望むなら、それでもいい」
一体何を言っているのか。ようやく念願だった刀が出来上がろうとしているというのに。
「……莫迦か、そなたは」
「莫迦でいい。だから泣き止め」
「止め方がわからぬのだ!妾のすることに文句があるのならば去ればよいっ!」
強引に永久の手を振り払い、八千代は肩で息をする。
――何故泣く。
鬼である自分が。数多の鬼たちの主である自分が。人であることを捨てた身で。
「……っ」
ふと、頬に温かな感触があった。
すぐ間近だから気付いた。
震える自分の手の上に重ねられた手と、流れる涙に触れる唇に。
驚いて八千代は身を引こうとするが、重ねられた手がそれを許さない。
「何を……っ」
「泣き止まないからだ」
睫毛が触れそうなほどの距離で、そう言われる。
「うるさいっ! そなたには関係ない!」
堅く目を閉じて、その強い瞳から逃れる。
「気に入らないなら喰えばいいだろうに」
淡泊な、感情が見えない声。
「うるさい、うるさいっ! それ以上余計なことを申してみよ! 刀などくれてやらぬ!」
「なら、刀などいらない」
思わず目を開いてしまった。
目の前にはまっすぐな永久の瞳があった。
「そなたは……何を考えている……?」
最初からよくわからない人間とは思っていたが……。
「刀がいらぬなら、何故まだここにいる?」
「欲しいものがある」
「……財宝か。そのような物、そなたの父がいくらでも持っていように」
「そんなものはいらない」
「それでは、な……」
それ以上、言葉は続かない。唇を塞がれ、寝台に倒れ込む。
「八千代が欲しい」
「な……に……」
「それ以外いらない」
また唇を塞がれる。
「……っ離せ!」
今までに多くの人間を切り裂いてきた長い爪が永久の肩に食い込む。
熱い血の感触。それでも永久は離さない。
爪は骨にまで達する。痛みがないわけないのに、血が溢れ出ているのに――。
先に折れたのは八千代のほうだった。
そっと肩から手を離した。
「莫迦が……殺されるつもりだったのか……?」
「それでも悪くなかったな」
今や永久の衣の上からも流れる血の感触がする。
「妻が泣くぞ」
「泣かない。他にも言い寄る男は山といるからな」
「だが大事なのはそなたなのだろう……?」
「方便だ。貞淑な妻を演じて、家に取り入るための。あれが大事なのは俺じゃない。権威だ。父を受け入れないのは、もう五十近いあのガマのような男が生理的に受け入れないからだ」
今まで聞いた中で、一番淡々とした声。
「……他に側室を迎えてるなり、離縁して別の女を選ぶなりすれば良いものを」
遠い昔の記憶が掠れるように蘇り、八千代は目を伏せる。
だが、永久は言った。
「俺は器用な性質じゃない。ご機嫌伺いの妻を何人も迎えても面倒なだけだ。皆実家のため、俺の家と縁を結びたいだけだ。そんな女を相手にするのは疲れる」
変わった男だ。
貴族の男など、多く妻がいればそれに越したことはないだろうに。
「八千代が都にいれば良かった」
静かな永久の声に、八千代は絞り出すように言った。
「妾は都なぞ嫌いだ」
「同感だ」
そう言って小さく笑った。
「八千代」
「……何ぞ?」
「俺の血も肉も命も全部やる。だから代わりに俺にお前をくれ」
「……本当に大莫迦だ。鬼を相手にそんなことを言った物好きはそなたが初めてだ」
いつの間にか涙は止まっていた。
「肩を貸せ」
まだ血の溢れ出る肩を強引に引き、八千代は傷口に唇を寄せる。触れた場所から傷口はふさがっていった。
傷口から流れ出た血は全て飲み干す。
「血肉も魂も今はこれ以上いらぬ……」
その言葉はもう一度塞がれた唇に呑みこまれた。
それから時代は永久が言ったように変わり、貴族社会もまた大きく変わったと聞く。
八千代と永久は御殿を出、鬼も人も足を踏み入れない、静かな山奥で暮らし始めた。鬼であることなど忘れてしまいそうなほど、静かな時を過ごしていた。時には二人の気に入りの眺めの良い岩に登って二人空を見上げ、穏やかな日々を送った。
ただただ、平穏で静かな日々を。
だが、それは起こった。
気に入りの岩の前での、一瞬の出来事。
大地に平行に走った一瞬の煌き。
そして朱に染まる。
ただ茫然と立ち尽くした。
「永久………」
首だけになってしまったいとおしい者を抱き上げ、抱え込む。
八千代を見下ろすのは、憎悪と嫌悪に染まった複数の人間たちの目。
「まさかこんな所に鬼がいるとは」
「危うく食われるところだった」
「あんたが教えてくれなかったら危なかったよ」
そう言って男達が目線を向けたのは、血に染まった刀を携えた人の姿をした、鬼。
かつて八千代を「変わった」と称した、あの鬼。
何故、人に紛れている?
何故、此処にいる?
何故この者が、永久を……。
人に紛れた鬼は静かに八千代に近づき、耳元で囁いた。
「貴女がいけない。このような人間などにほだされるから」
柔らかな声にどうしようもないほどの嫌悪を覚え、背筋が震えた。
「こっちの女は? あんた、もしかしてこの鬼に攫われてきたのか?」
「可愛そうに……何処の村のもんだ?」
「どうした? 口がきけないのか?」
かわい、そう?
誰が……?
「この女は私の伴侶となるはずだった者。連れ帰ります」
鬼は人のふりをして、醜悪な笑みを作り女の手を取ろうとした。
刹那、鬼の体から血が吹き出す。
「うわぁぁぁっ! お、鬼だ! この女も鬼だっ!」
長い爪が、かつての同胞の血に染まる。
「こ、殺せっ! 鬼とは言っても女だ!」
「鬼どもが! 二匹もいたとは……!」
八千代を取り囲む、悲鳴と怒声。
そこまでしか、覚えていない――。
気付けば辺りには赤い池が出来ていた。
八千代自身も赤く染まっていた。
「な……がひ……さ……」
もう二度と自分を呼んでくれない、抱きしめてくれなくなった彼をもう一度抱きしめる。
すると涙が零れた。
「永久……永久………永久っ………」
幾度名前を呼んでも、彼はもう二度と答えてくれない。
その事実に涙は溢れることなく流れ、いつしか血の涙を流していた。
声が枯れても泣き叫び、ずっと彼の首を抱えていた。
静まったのは、何度陽が昇った頃だったか。
「永久……そなたは言ったな。そなたの血肉と魂をわらわにやる、と」
代わりに永久は八千代を得た。
「あの日の誓い、今果たしてもらうぞ……」
いとおしい人。
その血肉すら、誰にも渡したくない。
ひとり、ただ朽ちていくだけなど許さない。
「妾は鬼だから……そなたを全てもらい受けるぞ」
哀しい血肉の感触。
かつては好んで食したモノなのに、涙は止まらない。
唇から血を滴らせ、鬼女と呼ばれた女は泣く。
枯れることを知らぬ血の涙はいつまでも流れる。
「せめていつか、妾が滅ぶ時まで、側にいて……」
きっとこの血にまみれた身は、清い貴方と同じ場所へは行けぬから。
いつか自分が殺される日まで、側にいさせて――。
「永久……」
白い骸を抱き、鬼女はかつて二人で過ごした岩の上で泣いた。
気が遠くなるほどの長い時を、愛しい人の骸を抱いて。