鬼の女と人の男
愛した男がいた。
親に勧められた結婚相手だったが、優しく聡明なその男に女は恋をした。
女は男の正室となり、男は当初こそ美女として誉れ高い女に構っていたが、やがて飽きて若い女を側室に迎えた。
女は嫉妬に駆られた。
毎日毎日念入りに化粧をし、衣を選び、夫が訪れるのを待った。
だが夫が自分のもとを訪れなくなって、季節は幾つ変わった頃だっただろうか。
初めて側室の女と顔を合わせた。
以来、嫉妬の念が昼も夜もなく女を支配した。
気付けば女は夫を殺し、人の血肉を食らう鬼と化していた。
屋敷を追われ、都を追われ、落ち伸びた先で女は鬼として生きた。
多数の鬼や物の怪達と顔を合わせることがあり、時には縄張り争いにもなった。
――それから時を経て。
女は近辺の鬼達を統べる存在になっていた。
他のどの鬼よりも非道。
他のどの鬼よりも血を好む、恐ろしい鬼女として。
鬼の御殿と呼ばれる鬼の住処で女は日々を過ごした。
気が向けば人里に降りて人間を襲い、時には迷い込んだ人間をたぶらかし最後には食ってしまった。
そうして彼女は若い時分の頃と変わらぬ姿で、周囲の時ばかりが過ぎて行った。
それでも時折、鬼を討ちに来た者。
財宝があるという噂に誘われてきた者。
噂の鬼の美女を拝みに来た者。
そのような者達が御殿を訪れ、鬼女を退屈はさせなかった。
だがある夏、そのどれにも当てはまらない者は訪れた。
その男は風体から貴族なのだろうと察せられた。まだ歳は二十を幾らか数えた程。
鬼の鍛えし刀は強力無比。人の鍛えた刀とは比べ物にならない硬度を持ち、呪力を宿す。
そのような根も葉もない噂を耳にした者だった。
鬼女は常のように、男の警戒心を解くように手厚くもてなそうとした。
今までの男達はどれほど強い警戒心を持っていようと自分が少し笑いかけ、酒と香に惑いすぐに警戒を解いてしまったのに、その男は違った。
ナマクラ。
そうとしか言えぬ太刀を、笑いかけた鬼女の首元に押し当てこう言った。
「どんな名刀よりも強い刀を造れ。どんな剛の者をもねじ伏せることのできる呪力を持った刀を」
ナマクラ刀を手に、男は不遜に言い放った。
その無礼な男の名は永久と言った。
その場で食い殺すことも、他の者達に惨たらしく殺させることも出来た。
だが、そうする気にはならなかった。
その男の目は今まで見た誰よりも強く、誰よりも貴き光を持っていた。
だから、興味を引かれた。
その日から永久は御殿に居座り始めた。
御殿に仕える者たちはいつでも永久を狙っていたが、男は鬼除けの符を持っていて力の弱い彼らには手出しできなかった。
「お前が此処の主ということは、一番力が強いのだろう。お前が刀を鍛えろ」
端麗な容姿とは裏腹に永久は言葉が悪く、態度は横柄。もっとも鬼である自分相手だからかもしれないが。
だが不思議とそれを厭うどころか、可笑しくて仕方がなかった。
「なぜ妾が人間ごときの言など聞かねばならぬ」
そう笑って言ってやった。
「よう聞け、童。確かに妾に仕える者たちはそなたの持つ符により手を出せぬ。だが妾は違う。いつでもその符を焼き捨て、そなたを食い殺すことなどたやすい。それを忘れるな。そなたは妾の遊びで生かされている。飽けばいつでも喰う。それが厭だと申すのなら、早々にそなたの屋敷へと逃げ帰るがよい」
十年、二十年生きた程度の童と、その数倍もの時を生きてきた自分とが対等であるわけがない。その時はまだそう信じていた。
豪奢な赤紅の衣に映える、流れるような緑なす黒髪の、自身の名すら忘れた鬼女は。
それでも永久は御殿に留まった。
御殿の主である鬼女の命により男は客人扱いされ、一応の食事と寝所を与えられた。
だが、それもいつまで持つか。
鬼女は御殿の者たちとそのような賭けをしたりして過ごした。
当の永久はと言えば、日中は外に出て何をするともなく過ごしたり、日に一度は必ず鬼女のもとを訪れ、刀を鍛えろと迫った。或いは鬼女の暇つぶしに貝覆いなどの遊びに付き合わせた。
それが日常となったある日、女は永久が常に腰にさしていたナマクラ刀を壊した。
これで男に残ったのは、貧弱な符だけ。
さて、これでいつまで持つか。
すぐさま逃げ帰るだろうと思ったが、永久はまだ屋敷に留まった。
容姿だけの人間だと思ったが、どうやら最初に見た瞳の強さは本物だったらしい。
いつからか、鬼女は永久に強い興味を持っていた。
今までに見たことのない面白い人間。
退屈な日々を変えた、奇妙な人間。
「名は?」
ある日、唐突に永久が訊いてきた。
戯れに庭を歩いていた時のことだった。
「名?」
言われた意味がわからず、訝しげに鬼女は聞き返した。
「そうだ。お前の名は何と言うんだ?」
その時初めて気づいた。
自分が人であった頃の名を、もう思い出すことも出来ぬほど昔に忘れたことに。
誰もが女を主と呼び、或いは鬼と呼び、誰も自分の名を知らぬことに。
自分に仕える者達も、目の前のこの男も名があるのに、自分にはない。
「……ない」
「ない?」
今度は男が訝しげに眉を寄せた。
「妾に名などない。人であった頃の名など疾うに忘れた」
永久に背を向け、鬼女は屋敷へと歩き出した。
今をどのような顔でいればよいのかわからず、そしてそれを永久に悟られたくはなかった。
ふいに、背に声がかかった。
「不便だな」
「……別に不便などない。これまで一度も必要としたことなどなかったのだから」
そう。必要ない。
誰も自分の名を呼ぶことなどない。
統べるべき身の自分と対等な立場に立つ者などいないのだから。
だが、永久は続けて言った。
「不便なのはお前じゃない。俺だ」
「何?」
思わず振り返ると、永久は不遜なまでに堂々と言い放った。
「お前を呼ぶ名がないのは不便だ」
「今までのように『鬼』とでも『鬼女』とでも呼べばよいであろう。何が不便か」
「不便だ」
訳のわからない押し問答の末、永久は言った。
「お前は名に興味がないのだから、俺がつけても文句はないな」
永久は不遜な笑みを浮かべた。
「そなたごときが妾に名を?」
「そうだな。お前は俺よりもずっと長きを生きていると言うし…」
鬼女の言葉など無視して永久は勝手に考え出し、そしてしばらくして顔をあげた。
「八千代でどうだ?」
「……八千代」
反芻し、つい思ったままの言葉が口から洩れる。
「悪く、ない」
そう言った時の永久は見慣れた不遜な笑みではなく、見たこともない穏やかな笑みを浮かべていた。
それが、最初に永久からもらったもの。
それから永久は自分を八千代と呼ぶようになり、自分も男を永久、と名で呼ぶようになった。
八千代と呼ばれることは、今までにない不思議な心地よさがあった。
それは鬼になってから、否、それより以前から長らく忘れていた感覚だった。
永久が屋敷を訪れて一月半。季節は夏から秋へと移り変わろうとしていた。
八千代と呼ばれるようになってからも永久は毎日、八千代の使う寝殿を訪れる。
もっともそれは人間の男女のように恋情から夜這うものではなく、昼間から堂々と刀を鍛えろと言うためだったが。
ある日、疑問に思った八千代は聞いた。
「何故、刀が欲しい?」
その答えは実に簡潔だった。
「これから戦が起こるからだ」
「永久も戦うのか」
「さぁな。だが可能性がある以上、ないよりはあったほうがいいだろう」
大した興味もなさそうに、永久は言った。
「そなたは身分ある者であろう。戦うのはそなたよりずっと身分の低い者たちではないのか?」
「時代が大きく変わろうとしている」
「どういう意味ぞ?」
「今は貴族を中心として世は回っているが、次期に武人として生きてきた武士達の世になる。その前に、貴族と武士との間に戦が起きるだろう。世の転換期とはそういうものだ」
「ならば、そなたが妾に刀を鍛えろと言うのは生き延びるためか」
「そうだ。父上がな」
自嘲気味に笑い、永久はそう言った。
「俺は父上の命で鬼の呪力を持った太刀を持ち帰るため、ここに来た」
「……あの程度の符とナマクラ刀だけを持たせただけでこの鬼の御殿へ、か? そなたの父は子殺しの趣味でもあるのか?」
「そうだろうな」
趣味の悪い冗談のつもりで言った言葉は、あっさりと肯定される。
永久は遠くを見て笑って言った。
「俺の妻は都でも美女としてもてはやされていて父上もえらくご執心なのだが、俺がいると言い、妻は父上を受け入れない。だから父上は俺が邪魔になった」
その時の衝撃を何と表わしたらいいのか。
永久とその父の確執よりも、彼には契りを交わした妻がいた。それだけが頭を巡った。
当然と言えば当然だ。彼の歳ならば妻の一人二人、いてもおかしくはない。まして身分の高い貴族の子息であり、これだけ容姿に恵まれているのだから。
遠い昔、人だった頃の記憶がふいに蘇りかけて慌てて頭を振った。
うまくまわらない頭で、言葉だけが口から零れ落ちた。
「妾は……刀を鍛えることはできぬ。だが、呪力を施すことはできる」
言葉だけが感情を伴わず、勝手に紡がれる。
「刀を鍛えることの出来る者を呼んでやる。その者が鍛えた刀に、妾が呪力を施してやる」
衣擦れの音とともに八千代は立ち上がり、欄干から庭へと目を遣った。
「誰か……刀を鍛えよ」
小さく零れた言葉に応えるように、庭に風が舞い上がる。
現れたのは猛々しい大男。
「一振り、この人間に合う刀を鍛えよ」
大男は永久に目を遣った後、一礼して姿を消す。
「……明晩には仕上がろう。それから妾が呪力を込める。明後日の朝には、そなたは帰れ」
永久に背を向けたまま、八千代は告げる。
「……どういう風の吹きまわしだ。今まで頑として首を縦に振らなかったのに。そんなに俺が憐れになったか?」
「鬼が人間を憐れむわけがなかろう。思い上がるな、童。これから我らの好む血が流れるという楽しき報せをくれた礼じゃ」
そう。鬼女たる自分は何より血肉を好むのだから。
「楽しみよのう……」
そう言った八千代の声は、やけに空しくいつまでも響いた。