生臭破戒坊主
この国は死んだ人間が辿り着くと言われる。
だが、時の混在する国と呼ばれるそこに住むのは紛れもない命ある者。
帝都と呼ばれる、この国の中心地からはだいぶ下った邑を形成する村の一つ。この辺りは帝都に比べれば、未だ百年以上は昔の生活が根付いている。
初夏のある日。珍しく村に余所からの訪問者があった。
墨染めの僧衣に袈裟。その手には金属音を鳴らす錫杖。編み笠を目深に被っているため顔や年の頃はわからないが、その風体からその男が僧侶であり、それも旅をしているらしいということは外界の情報に疎い村人にもすぐさま理解できた。
ただし、彼が清廉潔白な僧侶か、それとも俗呆けした生臭坊主かまでは計りかねるが。
村で唯一の旅籠を営む男とその妻は、一宿を求めてきた僧侶に茶を勧めながらその全身をしげしげと眺めた。
「随分若い坊さんだなぁ」
「それになかなかの男前じゃないか」
旅籠の主人と妻は笠を外し足を崩して座り込んだ僧侶に軽く目を見張った。
年齢不詳だった僧侶は随分と若い。その顔から察するに二十を幾つか超えたくらいだろう。だが、年齢よりも先に気になることがあった。
「……坊さん、だよな? 髪、あるけど」
「お坊さんは皆、頭を丸めるもんじゃないのかい?」
主人と妻は揃って僧侶の頭に目線をやった。
二人分の視線を浴びる僧侶の髪は、まだこの辺りでは一般的な髷を結う程長くはなく、所謂「ざんぎり髪」に近い。かと言ってそこまで短くもなく、眉やうなじにかかる程度に伸びているのがまた奇妙に映った。
「あんた、本当に坊さんかい?」
主人に問われ、若い僧侶は妻に差し出された団子を手にしながら口を開いた。
「ん。一応実家は寺だ」
「んじゃあ未来の坊さんか。何だい、修業の旅かい?」
「そんな大層なものじゃねぇけど」
ぞんざいな口調ながら律儀に答え、僧侶は合間に団子を頬張る。
するとふいに、僧侶の目が子供のように輝いた。
「お。この団子、美味い」
「もっと食べるかい?」
「是非」
僧侶の即答っぷりに妻は笑い、もっと作ってくるから待ってなと言って奥へ行った。
「そんで坊さんは修行の旅だっけか? 若い身空で大変だなぁ」
主人は茶を飲みながらしみじみと言った。
「や。だからそんな大層なもんじゃねぇって。それより親仁」
僧侶は食べ終えた団子の串を皿に置き、主人を真っ直ぐに見据えた。その黒い双眸は刃にも似た鋭さがあり、空気は肌で感じられる程張り詰める。
思わず主人は息を呑んだ。
すると僧侶はその鋭い目を一切緩めずこう言った。
「この辺、化け物とか出ないか?」
「……化け物?」
主人が聞き返すと僧侶は大きく頷き、真剣そのものの表情で繰り返す。
「ああ。鬼とか物の怪の類の話、この辺りにないか?」
「……」
主人の僧侶を見る目が胡乱なものとなり、張り詰めていたはずの空気は途端に萎み、緩みきっていった。
「あんたぁ……今時本気で言ってんのかい?」
僧侶は一度大きく息を吐くとその真剣そのものだった表情を崩し、どこか気の抜けた顔をした。
「信心深くて古臭い田舎……じゃなかった。こういう旧い土地柄ではまだ魑魅魍魎が市民権を得てると思ったんだけどな」
僧侶は頭をかきながらぼやく。
そうしていると、もうごく普通のどこにでもいる青年に見えてくるから、自然と主人の言葉も次第に砕けたものとなっていった。
「一応うちはこの村で唯一よその情報の集まる旅籠だ。確かに帝都あたりにゃ及びもしねぇが、俺はこれでも村一番のハイカラ者よ」
「うん。ハイカラって恥ずかしげもなく言った辺りに、この村では革新的で国規模で考えると古いってのがよくわかった。最近じゃ旅籠って言うのも珍しい」
僧侶はうんうんと一人で納得したように頷く。
主人は顔を赤くし、照れ隠しに僧侶の頭を軽く叩いた。
「痛」
「可愛げのねぇ坊さんだ」
「俺も可愛いと思われても困るな。たまにいるんだよ。坊主のナリをしてるだけで男色趣味があると本気で考えるような奴が」
僧侶は叩かれた頭をさすりながら、涼しげな容貌を心底忌々しげにしかめた。
「あー……坊さんはそっちの趣味じゃないのか。俺も坊さんてのは皆そういう趣味だと思ってたよ」
僧侶は女との交わりを禁忌としている。それ故、彼らの間では男色が当たり前なのだと噂に聞いていたのだが。
「断じてない。俺はな、自慢じゃないが『生臭破戒坊主』と知人に言われるような男だぞ?」
「……確かに自慢じゃないわなぁ」
生臭の上に破戒とは。
そもそも髪は剃るのが一般的な僧侶が髪を伸ばしている時点でどうかとは思うが。
「野郎の相手なんて、金銀財宝を山と積まれても御免被る。そんな奴は四肢をへし折って、有り金むしり取ってそれで遊郭にでも向かわせてもらう」
「そりゃ大した生臭っぷりだ」
力説する若い僧侶に主人は豪快に笑い出した。その知人とやらも随分うまい呼び名を考えたものだ。
「健全な男らしくていいだろ?」
「違いねぇ。そん時はぜひ俺もご一緒させてもらいたいね」
僧侶と主人は顔を見合せて笑った。
「じゃあ生臭坊さんは酒はいけるかい?」
「嗜む程度には?」
不敵に笑う僧侶を見て、主人は奥へ行った妻に「酒も頼む」と声をかけた。
それから間もなく団子と酒瓶が運ばれてきて、主人と僧侶は酒を酌み交わし、気づけばすっかり日も暮れていた。
「なぁ親仁。今日は俺以外に客いねぇの? ずっと俺の相手してていいのか? 接客態度悪いとか風聞立ったらよくなくね?」
「んあー、くぉんない田舎に来る客なんか、滅多にねーよぉ」
三升以上は飲んでいるはずなのに、多少陽気になった程度の僧侶に対し、主人は顔も真っ赤にした上に呂律も回らない。
「あんた! それくらいにしときな!」
「あぁっ、ひでぇよひでぇよ」
妻から猪口を取り上げられ、主人は酒瓶に抱きついて泣き出した。だが妻も慣れた様子で無視して僧侶を見た。
「坊さん。部屋はどうする? あんたの言う通り、今夜のお客はあんた一人だから一番いい部屋から安い部屋まで好きに選べるよ。つってもこんなボロ宿だから大して変わりゃしないけどね」
「じゃあ一番安い部屋で」
「一番いい部屋に泊まって、うちを潤してくれもいいんだよ?」
「酒代で十分潤したと思うけど」
僧侶が空になった酒瓶の数々を見やると、妻は笑ってそれらを片づけ始めた。
「半分はうちの亭主だからね。そんなに潤ってないさ」
「ん。半分以上飲んだと思うのは俺だと思うのは俺だけか?」
どう足掻いても親父は一升飲むか飲まないかだと思うのだが。
だが妻は笑って言う。
「ああ。あんただけだよ。こんなに飲むのも、うちの酒屋も同然の宿に泊まってってくれるのも」
「……そうか。じゃあたまには部屋代を奮発しよう。二番目くらいにいい部屋で」
「一番じゃないのかい?」
「俺は坊主だから、贅沢は慎むべきだろ?」
しれっと言う坊主に妻は一瞬呆気にとられた顔を見せてから、主人に似た嫌みのない豪快な笑い声を上げた。
「それだけ飲んで、何を慎むんだか」
「これは酒で身を清めてるんだよ」
「そうかい。じゃあ部屋を準備してくるから、悪いがもう少しうちの酔っぱらいに付き合ってやっておくれ。人と酒を飲むのが生き甲斐みたいな男でね」
妻は足取り軽く階段を上がって行った。
僧侶はそれを眺めながら、新たに酒を注いだ猪口に口をつけた。
「いいカミさんだな。親仁。俺と一緒に遊郭に行ってたら罰が当たる」
「……知らねぇや」
畳に寝転がる主人の顔が赤いのは、酒のせいだけではないだろう。
「ま……悪くはねぇわ」
「だろうな」
僧侶は笑って猪口を置き、長時間座っていたせいで凝り固まった体を伸ばした。
主人もむくりと身を起こし、赤い顔を僧侶へ向けた。
「この辺りじゃいい男は鬼に食われちまうって言うんだけどよ、俺は運よく生き延びて今のかみさんと一緒になれたってわけよ」
「運よく?」
熊のような容貌の主人の言葉に笑ってから、僧侶は置いた猪口を主人の手に渡して片手で酒を注いだ。
「じゃあ運のいい親仁」
「何だい?」
「そのいい男を食っちまう鬼について教えてくれるか?」
なみなみと注がれた猪口に、僧侶の鋭い目が映る。薄い唇だけで笑い、主人を見ている目が。
「……何だか坊さんってよりは、あんたのが鬼みたいだな」
主人は僧侶の視線から逃れるように酒を一気に煽った。
口元に笑みを浮かべ、僧侶は軽い口調で言う。
「人が化け物の類の話はあるかって聞いた時に素直に教えてもらえなくて拗ねてるだけさ」
「最近じゃすっかり廃れた話なんで忘れてただけだ。今しがた、口を衝いて二十年振りくらいに思い出したくらいでな。ついでにあんまり妙な坊さんなんでそっちに気を取られすぎてた」
「妙なってのも失礼だな。こんな善良な僧侶を捕まえて」
「善良な坊さんは生臭とも破戒とも言われねぇんじゃ?」
「これは言った奴の口が悪かっただけの話さ」
思いの外楽しげな様子を見せた僧侶に毒気を抜かれ、主人は一息吐いた。
「全く妙な坊さんだ。妙なついでにお祓いでもしてくれるってか?」
「報酬次第で考えてもやってもいいけど?」
「ってことは普段から拝み屋みたいな真似してくれるってわけでもないってことか」
「残念ながら。俺は鬼と少し話したいだけだから、そこから先は俺の気分次第」
「話したいだけ、ねぇ……」
主人は猪口を突き付け、僧侶は静かに酒を足した。
「村の丁度西にある山の麓に大きな岩があってな」
ぽつりぽつり、と主人は話し始めた。