4.たった三文字
花咲姫子が去った教室で、彼女に酷い事を言ってしまったと、後悔する宮原春。
彼は、彼女を支えた時に感じた感触を思い出し、やっぱり謝ろうと、心を決める。
宮原春は、花咲姫子の後を追って、走り始めた。
花咲が去った後、僕は自分の掌を見た。
一瞬ではあったが、掴んだ花咲の華奢な肩の感触がまだ残っている。
あのとき、感じた不思議な感覚はなんだろうか。
以前にも同様の事があったような感覚。
いや、ただの錯覚かもしれない。
僕は、花咲とは時々、話しをする事はあっても肩に触れる事はまずない。そんな事をしようものなら、あのツンツン娘は、容赦なく僕の事をグーパンチで殴るだろう。それに彼女と出会ったのは、高校に入ってからだし、今までクラスも一緒になった事はない。
待てよ。だったら、どうして僕たちは話をするような仲になったのだろうか。
そのとき、僕の頭の中に、入学してから間もない時の記憶が蘇った。
初めて花咲と会ったのは、保健室。そして、そのとき、花咲はどんな表情をしていたのか。
僕はそれを思い出すと、やはり先程までの自分の非礼な言動は詫びるべきだと思った。
冷たく、虚しいと思っていた春風は、今度は力強く僕の背中を押してくれた。その風に押された僕は、足を一歩踏み出し、その一歩は次の歩みへとつながった。そして、気付けば、僕は教室を飛び出し、彼女の後を追って走り出していた。
僕は、もつれそうになる足をなんとか動かし、誰もいない廊下に、慌ただしい足音を響かせた。そして、僕は走りながら、花咲の去り際の言葉を思い出す。
彼女は、去り際に「帰る!」と、言っていたので、恐らくは玄関へ向かったに違いない。
そう考えた僕は、階段を駆け下りると、玄関へと向かった。そして、僕が玄関に滑り込むと、まだ残っていた下級生が、息を切らせて走ってきた僕の事をみて、逃げるように帰って行った。しかし、僕はそれに気付く事なく、玄関を見渡して、花咲を探した。
玄関には・・・・・・、花咲の姿はなかった。
まだ来ていないのか。
だったら、管理棟の方かも。
僕は、花咲が管理棟にある運送用エレベーターを利用していることは知っている。実際に使用している場面は見たことはないが、あの薄暗く、狭い箱のなかに閉じ込められていると思うと、少し心配になる。彼女がどんな思いをして乗っているのだろうかと。
管理棟は、玄関と真逆の方向に位置し、屋根付きの渡り廊下を通る必要がある。花咲が玄関へ向かうためには、必ずそこを通るはずだ。
僕は早く花咲に謝らなければという思いを抱き、廊下を駆け抜けた。
途中、教師に「廊下を走るな!」と叱られたが、僕は気にせず走り続けた。そして、管理棟へ続く渡り廊下に辿り着くと、僕の予想通り、花咲はそこにいた。
「おーい。花咲―!」
やっと見つかった花咲を見て、僕はすぐに声を上げた。
花咲は、僕が声を発するよりも先に気付いたらしく、飲もうとしていたミルクティーの缶をいったん下げて、驚いた表情をしている。その表情がなんとなく嬉しそうに見えるのは、僕の自惚れだろうか。
そして、花咲の他にもう一人、意外な人物がその場にいた。
爽やかに刈り揃えられた短髪に、品の良いフチなし眼鏡が良く似合っているその人物は、僕の友人であり、花咲の想い人でもある水樹勉だ。
水樹は、僕の声に驚いたようで、珍しく冷静さを欠いたように振り返った。水樹の方は、あまり嬉しい顔をしていないように見えるのは、僕の思い違いだろうか。
とりあえず、僕は荒い息を整えつつ、小走りで二人の元へと駆け寄ると、まず友人でありながらも少々迷惑そうな表情をしている水樹に声をかけた。
「なんだ、水樹。まだ帰ってなかったのか。てっきり部活に行ったかと思ってたぞ」
水樹は、僕から目を反らすと、ずれていない眼鏡を何度も直しながら答えた。
「あ、ああ。そうだね。部活・・・・、い、今から行くところだよ」
何か様子が変だとは、思ったが、僕は気にせず、次にミルクティーの缶を不用意に触っている花咲の方を見た。
彼女も目が泳いでいて、落ち着かない様子だ。だが、嫌そうな表情ではない気がする。
「なあ、花咲」
僕が名前を呼ぶと、彼女は驚いた様子で、「はいっ」と裏返った声で返事をした。
僕は、その様子が面白くって、思わず吹き出しそうになったが、声が裏返ってしまった事に自分でも気付いた花咲は、「笑うんじゃねぇぞ」と言わんばかりに、じろりと僕を睨みつけた。だから、僕は笑いを必死に堪えて、言葉を続けた。
「あのさ、もう帰るのか?」
花咲は僕の言葉に動揺しつつも、相変わらずの刺々しい口調で答えた。
「そ、そうだけど、なんか用?急いでいるんだけど」
「そうか・・・・。話があったんだけど、じゃあ、明日でもいいわ」
僕が、残念そうな表情を浮かべながらも潔く諦めると、花咲は口調を強めて言葉を言い放った。
「何よ。今、言いなさいよ!」
急いでいるんじゃなかったのかよ。
理不尽に怒られた僕は、花咲の言う通り、大人しく用件を伝えることにした。
「えーっと、さっきの事、なんだけどさ———」
しかし、そこまで言いかけた時、僕の中に自分自身の声が響いた。
春、待つんだ。もう一度、二人をよく見てみろ。
僕は、慌てて口をつぐみ、その声に従って、二人を交互に見てみた。
まず、水樹の方は、居心地が悪そうな様子で、普段飲まないブラックの缶コーヒーを一気に飲み干し、苦い顔をしている。
一方の花咲は、落ち着かないのか、相変わらず不用意にミルクティーの缶を手の内で転がし、いつもと違ってしおらしく見える。
明らかに様子が変だ。
何か隠しているというか、気まずい雰囲気?
そのとき、僕はひらめいた。
も、もしや、花咲が、水樹に想いを伝えている場面だったのか!?
僕としたことがとんでもない場面に飛び込んでしまった。
そう思った僕は、慌ててこの場から立ち去ることにした。
「あっ、やっぱり俺、帰るわ。なんか二人で、話をしてたみたいだし」
僕はそう言うと、二人の顔を見ながら、身体の向きを変えようとした。しかし、花咲が慌てて僕を呼び止めた。
「待ちなさいよ!なんで帰るのよ」
僕は花咲の怒声のような呼びかけに、動きを止めると、申し訳なさそうに言葉を返した。
「い、いやぁ。水樹は部活に行くみたいだし、花咲も急いでいるみたいだしさ」
「別にいいわよ。少しくらいなら」
花咲が不機嫌そうに返事をした。
「いやいや。帰るって。あとは二人で話したらいいだろ」
「だから、いいってば。あんたも話があるんでしょ」
なぜか食い下がる花咲に、僕はちょっと強めに答えた。
「なんか俺、邪魔みたいだしさ」
すると、花咲も強く言葉を言い返した。
「邪魔じゃない!」
そのとき、僕を見詰める花咲の瞳が、不安定に揺らめいた。
そして、花咲の甘い香りが僕を優しく包み、彼女の明るい髪が、暮れていく陽の光を浴びて、キラキラと輝いた。
透き通るような白肌の頬は、愛らしく赤みを帯びていき、彼女の想いが僕の中に流れ込んできた————ような気がした。
いかないで。
そんな風に訴えてくる花咲は、とても綺麗で、でも儚くて、僕の心を動かした。
あれ。花咲ってこんなに可愛かったっけ。
しかし、不意にそう思ったのも束の間、花咲は高ぶった感情を抑えられず、手に持っていたカフェオレの缶を振り上げた。
僕の方に投げようとしている・・・・?
やはり先程、僕に届いた気がした彼女の想いは勘違いだったようだ。
明らかに、僕に向かって缶を投げつけようとしている。
つーか、それ中身入っているでしょ!?
「わー、ごめん、ごめん、ごめん!」
僕はなぜか謝り、投げつけられようとしている缶から守るように頭を抱えた。
そのとき、僕はある事に気が付いた。
あれ。僕、ごめんって言えている。
さっきは素直に言えなかったたった三文字の言葉。それが、今、自然と口から出てきた。そして、今ならきちんと謝罪できる気がした。
僕は抱えていた頭から手を離すと、体側に揃え、今度はきちんと頭を下げた。
「・・・・ごめん」
僕は出来る限り気持ちを込めて、落ち着いた抑揚で、その三文字の言葉を発した。
「えっ?」
花咲は、缶を投げようとしていた手をピタリと止め、戸惑った様子で僕を見つめた。それから僕はたっぷり十秒間頭を下げた姿勢を保ち、花咲もそれを黙って見届けた。
しばしの沈黙は、再び頭を上げた僕が破った。
「さっき教室で、俺、悪い事言ったからさ。もしかして、花咲を傷つけたんじゃないかと思って。それを謝りたかったんだ」
僕の言葉を聞いて、花咲は感情が少し静まったのか、ゆっくりとミルクティーの缶を下げた。それから、目を伏せ、何かを考えるかのように黙り込んだ。
僕は花咲が謝罪を受け入れてくれたのかどうか、不安だったが、僕には何も言葉を発しない花咲をただ見守る事しかできなかった。
長く感じられた沈黙は、少し微笑んで僕を見つめた花咲が破ってくれた。
「バーカ。あれくらいで怒んないわよ」
いつもの調子の刺々しい口調。だけど、少し晴れやかで、彼女が僕の謝罪を受け入れてくれた事を示していた。
安心した僕は、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「いや。怒ってたでしょ」
「うるっさい!」
口元を緩ませながら怒る花咲は、再びミルクティーの缶を振り上げた。僕は慌てて腕を伸ばし、両手を振って、花咲を鎮める。
「だから、それ中身入っているから。おい!やめろよ。ホント、ごめんって!」
そんな僕らのやり取りを静かに見ていた水樹は、穏やかに声を発した。
「じゃあ、僕、部活行くね」
「いや、その前に俺を助けろよ」
助けを求める僕を、水樹はいつもの涼しげな目で見た後、いたずらっぽくニヤついた。
「自分でなんとかしなよ」
「そんな薄情な」
水樹は、軽やかに校舎側へ身体を向けると、ヒラヒラと手を振りながら去って行った。
———まだ負けてないから。
水樹が去る瞬間、不確かだが、そんな言葉が聞こえたような気がした。しかし、「じゃあねー」と、愛想良く手を振る花咲に対して、爽やかに手を振り返す水樹を見ると、それが空耳だったのだろうと思った。
水樹を見送った後、僕はある妙案を思いつき、缶を振り上げたままの花咲へと視線を移した。
「あのさ、連絡先。教えてくれない?」
「えっ」
花咲は、一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐに不機嫌な顔で僕を見た。
迂闊だった。
花咲の手には、まだ振り上げたままになっている缶があった。そんな中、僕はまた彼女を怒らせてしまったのではないかと後悔した。しかし、返ってきた言葉は意外なものだった。
「090―・・・・」
微かに聞き取れるような声量で発せられた番号が、携帯端末の番号であることに気が付くまで、少し間が必要だった。
「あ、携帯の番号か。ちょっと、待って。今、携帯出すから」
僕は慌てて、携帯端末を取り出し、登録画面を開いた。
「いいぞ。もう一回言って」
「090-・・・・・」
またしても小さい声ではあったが、何とか聞き取った僕は、画面上に番号を入力すると、確認をするため、その番号を読み上げようとした。しかし、チラリと見た花咲の表情は、強張っており、何度も言わせると、また彼女の怒りに触れてしまうような気がしたので、黙って次の画面に移った。
だが、やはり、その日の僕は迂闊だった。
「あれ。花咲。下の名前何ていうんだったっけ?」
僕が、名前の登録画面を見ながら、質問をすると、花咲は、番号を言ったときよりも更に小さな声で答えた。
「・・・・・めこ」
さすがに聞き取れず、僕は聞き直した。
「えっ、何?聞こえなかった」
「・・・・・姫子」
今度は、少し声量を上げてくれたのだが、まだ控えめな声だった。そのとき、僕は気付くべきだった。彼女の前で、僕がその名前を口にしてはいけないのだと。
「ひめこ?花咲姫子・・・・ぷっ」
刺々しい花咲に対して、予想外の可愛いというか、キラキラした名前のギャップに僕は思わず吹き出してしまった。
あ、やばいかも。
僕は、慌てて口を塞いだが、殺気とも感じられるくらいの花咲の視線を痛いほど感じた。そこで、僕は花咲から目を反らすと、無為に何度も咳払いをして誤魔化そうとした。
だが、視線を送られている時点、いや、携帯番号を聞いた時点で、僕は地雷を踏んでいたようなものだったのだ。
軽い金属音が響き、僕の額に突き刺さるような痛みが走った。遅れて、甘ったるい匂いが僕の顔を覆う。
ツンツン娘め。本当に投げやがったな。
僕の身体は甘いミルクティーで塗れた。
☆くるみのつぶやき☆
水樹君はちょっとかわいそうな感じでしたが、二人が仲直り(?)出来てよかった。
話は変わりますが、2日毎に投稿していこうと思っています。