1.春のラブレター
朝、登校すると、下駄箱にラブレターが入っていた。
『水樹君。お話があります。今日の放課後、待っています』
開けっ放しになっていた玄関ドアから、爽やかな春の風が舞い込み、桜の花びらを一枚、僕の元へと運んできた。
人生で初めて受け取ったラブレター。
シンプルな白の便箋に、可愛らしい丸文字が並んでいる。その一つ一つは、丁寧に書き込まれていて、差出人の純粋な想いが感じられた。
だが、嬉しくはない。
それは、僕が無感情な人間だからではない。僕の名前は、「水樹君」ではなく、「宮原春」だからだ。
どうしよう、これ。
六百名の生徒を向かい入れる広い玄関は、まだ朝が早いこともあり、とても静かだった。そこで僕はひとり、宛先を誤ったラブレターの処理をどうするべきなのか考えた。
そもそも、このラブレターのおかしな点は他にもある。待っています、と記されているが、どこで待っているのか、その肝心な待ち合わせ場所が書かれていないのだ。
こんな残念なラブレターを一つ上の水樹の下駄箱に入れてあげるべきなのだろうか。いや、それでは、差出人の失態を晒すことになってしまい、可哀そうだ。では、差出人をこっそり見つけて、そっと返してあげるべきか。だが、それも叶わない。なぜなら、差出人も記されていないからだ。
では、どうするべきか。
僕は、しばらく黙考した後、ある方法を思いついた。
僕はそれを実行するために、肩から掛けていた鞄の口を大きく開くと、ラブレターを手にしたまま、躊躇なく鞄の奥底へと突っ込んだ。
そうして、宛先を誤り、待ち合わせ場所が記されていない差出人不明のラブレターは、僕の鞄の奥底へと仕舞われたのだった。
面倒なことは、後回しにしよう、という僕の悪い癖だ。
「さて、教室にいって、本でも読もうかな」
開き直った僕は、ひとまずラブレターの件は、なかったことにして、教室へと向かった。
*・∵・∴・∵・*・∴・∵・*・∵・∵・*・∴・∵・
そのせいで、僕は放課後になるまで、例のラブレターのことはすっかり忘れていた。
正しい宛先でもある水樹は、僕のクラスメイトであり、数少ない友人の一人なので、日中に何度も会っている。しかし、鞄の奥底に仕舞われたラブレターは、僕の目に触れることなく、記憶の奥底にも仕舞われたままだった。
そんな折、その忘れていた記憶を呼び起こす出来事が起こった。
その日、日直だった僕は、不運にも化学の実験道具を片付ける役を担い、教室へ戻るのが遅くなってしまった。案の定、荷物を取りに教室へ戻ると、授業を終えて、放課後を迎えたクラスメイト達は誰も残ってはいなかった。
別に誰かに待っていて欲しかったわけではないが、閉め忘れた窓から吹き込む春の風は、まだ冷たさが残っており、カーテンを揺らしている様子が、なんとなく虚しいと感じた。
「窓くらい閉めていけよな・・・・・・」
僕は誰もいない教室で、愚痴をこぼし、古木の床板を軋ませながら、窓際へと歩いた。そして、カーテンをまとめようと、手に掴むと、一際強い風が吹き込み、僕の手からカーテンを引き離した。
「やれやれ・・・・・・」
僕は、ため息を吐き、先に窓を閉める事にした。
校舎が古いせいか、木製の窓枠は、滑りが悪く、思ったよりも閉めるのに力が必要だった。
それでもどうにか窓を半分ほど閉めた時、どこからか吹き込んだ柔らかな風に乗って、ほんのりと甘い香りが、僕の鼻に届いた。
「この匂い・・・・・・」
僕は手を止め、その香りに誘われるように、顔を上げた。それと同時に、僕一人だけが残っているはずの教室に、僕以外の声が響いた。
「なんで、あんたがいるの?」
幼く、可愛らしい声ではあったが、刺々しく、不愛想な口調だった。
僕はその声に聞き覚えがあった。
だけど、なんで彼女がここにいるんだろうか。
そんな疑問を抱き、僕は振り返った。
しかし、僕の視界には、誰も映らなかった。
あれ、いない・・・・・・?
一瞬、そう思ったが、僕の視界の下の方で、艶やかな茶色い髪が揺らめき、彼女を視界にとらえるためには、視線を下げる必要がある事を思い出した。
そこで、僕は視線を落として、教室の入り口にいた女子生徒を、ようやく認識することが出来た。
女子生徒は、癖のないカフェオレ色の髪を、いつも後頭部の高いところで一つに纏めている。頬はほんのりと赤く、さくらんぼ色をしていて、ぱっちりと開けられた目は曇りなく、透き通るようで、とても綺麗だった。
しかし、目じりは少し上げっており、口元は緩みなく結ばれている。その女子生徒は、綺麗な顔立ちをしているのだが、表情は口調と同じでとても不愛想だった。
それでも、橙色の夕陽に照られる彼女の綺麗な顔立ちに、僕は目を奪われ、しばらく声が出せなかった。そうしていると、彼女の方から再び言葉を投げかけてきた。
「何、無視してんのよ。——まあ、いいけどさ。それより、水野君、知らない?」
相変わらずの不愛想な口ぶりに、さすがの僕も少しイラっとしたので、出来るだけ不機嫌そうに返事をしてやった。
「あいつならもう帰ったんじゃねぇの」
しかし、彼女には、僕の不機嫌な様子などどうでもいいのか、目も合わせずに、「ふぅん」と答えただけだった。
それから、彼女は教室に入ると、ゆっくりと僕に近づいてきた。
彼女が、前に進む度、古木の床が軋み、それと同時に、ぎゅっ、ぎゅっ、とゴムの擦れる無機質な音がした。そして、彼女は、僕の一メートル手前で止まり、不愛想だが、綺麗な目で僕を見上げた。僕も負けじと、不機嫌そうな目で彼女を見つめ返してやった。
僕は、彼女を知っている。
彼女の名前は、「花咲」。僕と同じ三年で、校内ではちょっとした有名人でもある。
それは、花咲が綺麗な顔立ちをしているからではない。その性格が、外見に反して刺々しく、不愛想だからでもない。
冷たく黒光りする金属フレーム。それと同色のホイールに、アクセントとなる真っ赤なタイヤ。半透明のキャスター(前輪)は、夕陽の光を吸収し、鈍く光っている。
それが花咲の脚であり、彼女が乗っている車いすだ。
花咲は、「ふん」と鼻を鳴すと、ハンドリム(駆動輪についている輪)を左右別々に回した。すると、車いすは軽やかに向きが変わり、彼女は、僕から離れて教室内を見渡し始めた。
恐らく、水樹を探しているのだろう。
しかし、なぜ花咲が水樹を探しているんだろうか。
僕の知る限りでは、二人はそれほど親密な関係ではない。それどころか、最近ではほとんど話をしているところを見たことがない。
では、なぜ花咲は、水樹の事を探しているのだろうか。
そんな僕の胸中の疑問は、花咲に届くはずはなく、彼女は、水樹がいないことを確認すると、少し残念そうに俯き、キャスターを出口の方へと向けた。
そして、僅かに言葉を漏らした。
「なんで、いないんだろう。手紙、入れたのに・・・・・・」
手紙?
僕はその言葉を聞き逃さなかった。そして、記憶の奥に仕舞われていたはずの、例のラブレターの事を思い起こした。
水樹・・・・・・手紙・・・・・・ラブレター・・・・・・花咲・・・・・・。
僕は少し足りない自分の頭を回転させ、それぞれの単語を関連付けた。そして、一つの答えに辿り着いたた。
例のラブレターを書いたのは、花咲だ。
そう結論付けた僕は、真相を探るため、帰ろうとしていた花咲を呼び止めた。
「なあ、花咲。お前、なんで、水樹を探しているんだ?」
急に呼び止められた花咲は、一瞬ビクッと体を震わせたが、すぐに車いすの向きを変えると、鬼のような顔を僕に向けた。そして、相変わらずの刺々しい態度をさらに強めて、言葉を返してきた。
「うっさい!あんたには、関係ないでしょ!」
別に怒る事はないじゃないか、と僕は内心で思いつつ、花咲の威圧的な態度を受けて、思わず、後退りをした。彼女は、僕の胸元までしか背丈がないのだが、その威圧感は、二メートル級の大男のようだった。
だけど、これで僕の出した答えが正しいと決まったようなものだ。
僕が大したことを言っていないのに、あれほどまでムキになって、誤魔化そうとするところが怪しい。やはり例のラブレターは花咲が出したものなのだろう。
それが分かると、僕の中で、普段、ツンツンしている不愛想な花咲を茶化してやろうという、意地悪な思いが芽生えた。
そして、僕は、花咲の威圧的な態度を屈服させるための言葉を発した。
「なあ、花咲。お前さ、水樹の事、好きなんだろ?」
もっと言葉を選ぶべきだった。
だけど、言ってしまったものは、仕方がない。
そんな僕の無神経な言葉を受けた花咲は、先程の鬼の形相を更に凶暴にして、僕を睨みつけると、激しく怒りを露にした。
「はあ?バッカじゃないの!なんで。なんでそうなるわけ?意味わかんないし」
だが、そうやって怒るということは、僕の言った言葉が、図星であると言っているようなものだ。
それから調子に乗った僕は、まだ威圧的な態度をとっている花咲にトドメをさすため、鞄の奥底から例のラブレターを取り出した。
「だってさ、これ。お前が書いたんだろ?」
花咲は、僕が取り出した例のラブレターを見て、怒りで赤く染めていた顔を、今度は青ざめさせた。そして、怒りを通り超え、驚愕する。
「え、なんで?なんで、あんたがそれを持ってんの?」
そんな花咲の様子を楽しむように、バカな僕はひょうひょうと答えてやった。
「間違って、俺んところに入ってたぞ」
「えっ、うそ・・・・・・。ちゃんと名札、確認したのに・・・・・・」
だが、事実、この花咲が入れたと思われるラブレターは、僕の下駄箱に入っていた。
そして、いつもは刺々しい花咲の表情は、自分の過ちを知って、いつの間にか弱々しくなっていた。そんな花咲に、僕は更に畳みかけるように言葉を続けた。
「つーか、放課後待ってますって、書いてあるけどさ。どこで待っているのか書いてないぞ。それに差出人もわかんねぇし。だから、本命の水樹のところに出さなくて、逆に良かったって」
追い打ちをかけるような僕の言葉に、花咲は小さく体を震わせて、唇もわななかせながら、尋ねてきた。
「読んだの・・・・・・?」
「ああ、まあ、悪いとは思ったけど、俺の所に入ってたからな。そりゃあ、読むだろ。普通」
それから僕は、例のラブレターを花咲の目の前で開き、改めて文面を見てやった。
ラブレターの文面には、相変わらず可愛らしい丸文字が並んでおり、あの刺々しい花咲が書いたとはとても思えない。
だけど、それよりも僕は、改めて見た丁寧な文面から、花咲の真っ直ぐな想いが伝わってきたような気がして、今更ながら自分の言動が、いかに愚かで、どれだけ花咲のことを傷つけていたのか、という事にようやく気付いた。
しかし、それでも僕は花咲に謝罪の言葉を述べるようとはしなかった。
それどころか、花咲ならば、これくらいでは傷つかない、いつもの仕返しをしたまでだ、と、自分に言い聞かせ、正当化しようとした。
だけど、僕を見上げる花咲の目は、溢れようとする何かを堪えているようだった。
そんな花咲は、何度か制服の袖で目を擦ると、僕を改めて睨みつけ、叫んだ。
「返せ!バカ!」
花咲は乱暴に車いすを急発進させると、僕との間合いを一気に縮め、ラブレターを取り返そうと手を伸ばした——が、しかし、彼女の伸ばした手は、僕の手元には届くことはなかった。
花咲の手は、そのままどこにも触れることなく宙を切きると、その勢いを止める事は、彼女の麻痺した身体では難しいようで、大きく前方へと傾いた。
「あっ!」
花咲は、短く言葉を漏らし、車いすから転げ落ちそうになった。
刹那、僕の身体は、考えるよりも先に動いた。
瞬時に伸ばした僕の手は、花咲の両肩を掴むと、車いすから転げ落ちそうになる彼女の身体を支えた。そして、花咲の肩を支えた僕は、すぐに言葉をかけようとした。
「だいじょ——」
しかし、言葉は途中で詰まってしまい、それ以上出てこなかった。
それは、不意に掴んだ花咲の肩が、想像していたよりも華奢で、いつもの刺々しい様子とは裏腹に、か弱さを感じたからだ。そして、彼女はそれほど強くないんだと、直感的に思った。
その瞬間、僕の鼓動が胸を強く叩いた。
ドクン。
なんだ、この感覚は。前にも同じような事があったような気がする。
しかし、そんな不思議な感覚を感じられたのは、ほんの一瞬だけで、花咲の叫びのような怒声と強く伸ばされた腕によって、すぐにかき消された。
「触るな!バカ!」
花咲は、僕の胸を強く叩きつけ、その反動を利用して、倒れかかっていた姿勢を持ち直すと、怒りに満ちた表情で僕を睨みつけた。
ごめん。悪かったよ。
そう言葉にできれば良かったのだが、僕の謝罪の言葉は喉元で引っ掛かり、声になる事はなかった。そして、そんな僕は、不機嫌そうにラブレターを返すのが精一杯だった。
「そんなに怒る事ないだろ。ほら、返してやるよ」
花咲は、もう一度、僕を睨みつけ、ラブレターを受け取ると、素早く車いすの向きを変えた。
「帰る!」
すっかり不機嫌になった花咲は、そう言い捨て、車いすを進ませ、教室から出て行った。
僕は、去っていく花咲の小さなうしろ姿を黙って見送り、自分自身の言動を悔いた。しかし、それ以上に、花咲の肩が華奢で、か弱かったことが何よりもショックだった。
いつもはあんなツンツンしていて、すぐ怒って、バカって言うし、時には殴ってくることだってある花咲が、あんなに弱々しかったなんて。
僕は信じられないというか、信じたくなかった。僕の知っている花咲は、いつでも強気の女の子なんだから。
そのとき、まだ半分開いたままになっていた窓から、強い春風が吹き込み、再びカーテンを大きくはためかせた。
四月の夕暮れ時の風は、なんだか冷たくて、やっぱり虚しかった。
☆くるみのつぶやき☆
初めて長編、連載を投稿します。
やってみると、自分の語彙力や文章力の無さを痛感しますね。
それにしても、やたらと、「風」という単語が出てくるなぁ。
これを書いた日は、風が強かったんですよ。。。きっと。