第一部 七
三日月宗近に魅せられたのは無理もなかった。
肩車をしていた父は宗則の心情を察してか、歩く速度を落としてくれた。それでも、足りない。行列さえなけれれば、閉館時間まで見ていたかった。少しずつ離れていく刀身を、首を回して見続けた。
車に乗って家に帰るまで、等間隔で流れていく街灯を眺めていた。車窓越しにぼんやりと浮かぶ光も、天下五剣の輝きには遠く及ばなかった。
武士に憧れていた。刀を帯びて町を行き、残虐非道な悪党どもを切り捨てる。私を殺し、義に殉じる姿は憧れの的だった。創作ではない。現実にいたのだ。父の読み終えた新聞紙を細長く丸めては、よく庭で弟と打ち合ったものだが、十才ともなれば物足りなく感じるものである。木刀が欲しいと言うと、父は決まって首を横に振った。危ないと言っていたが、自分ならちゃんと使いこなせる。
家に帰った少年は、家族とともに晩御飯を済ませ、自室の布団に寝転んだ。二畳を挟んだ隣には弟が寝そべっている。
「お兄ちゃん、刀好きだね」
「だって、かっこいいだろ」
土曜日になると、弟と庭で打ち込みに精を出した。庭の隅に生えている細い木を百回叩くと、ふたりは縁側でひと休みした。
「達、今日は試したいことがある」
そう言って宗則は立ち上がり、達を手招いた。ふたりは再び庭で向かい合った。
「試したいことって?」
「構えだよ」
宗則はさっそく構えを披露した。のちに霞の構えと知る手法だが、両手は交差しておらず、紙の刃は斜め上を向いていて、その姿は滑稽だった。
「どうだ」
達は吹き出した。宗則が真面目な顔をしていたこともあったのだろう。声を上げて笑うと、眼尻に浮かんだ涙を指で払いながら、
「そんな構え見たことないよ」
最初は怒っていた宗則だが、やがて違和感に気づいた。窓に反射する自分に向かって同じ姿勢を取ると、首をかしげた。たしかに違う。達の笑いをこらえる声が訊こえた。
「馬鹿にしやがって。見てろ、明日には、それはもう立派な構えを見せてやる」
「どうせ無理だって!」
それから三年が経った。
中学生になった宗則は、将来について考えることがあった。父は鉄道会社に勤める会社員だが、宗則は電車に興味はなかった。何年経っても、やはり刀が好きだったのである。中学に上がるとともに与えられた自分の部屋で机に向かい、宗則はため息をついた。
現代で帯刀しようものなら、銃刀法違反で捕まる。それはわかっている。どうにかできないか考えた。法律を破らずに刀に触れるにはどうすればいいのだろう。
道が開けたのは翌朝のことだった。中学の美術の時間、授業が終わると、先生に尋ねた。
宗則はティーカップに注がれた紅茶に口をつけた。彼がいじっているスマートフォンの画面には、大英博物館のホームページが映っている。頭の中で描いた博物館を巡ることだってできるが、失敗はできない。確実にことをこなすには、最新の情報が求められる。
紅茶を飲み終えた宗則は会計を済ませ、喫茶店を出た。見上げた空は海のように澄み渡っていた。
日本晴れであった。
◆◆
助手席で無線機と睨みあっているクライヴを尻目に、シートを後ろに倒したカーティスは車内で機を待ち続けていた。グレート・ラッセル通りに面した大英博物館への入場門が、雲間からときおり顔をのぞかせる太陽の光を鈍く反射している。張り込みを始めてから二日。SCO0のメンバーが、グレート・ラッセル通り、モンタギュー通りを押さえ、日ごとに場所をローテーションしつつ監視しているはずだが、事態が動く気配は一向になかった。
大英博物館に向かう人々を朝から晩までただ観察するだけの仕事。これで給料が払われるのだから安いものだが、単調な作業は退屈だ。初日にもらってきたパンフレットも読み飽きた。前方に止まっている車の中で待機しているエドワードが退屈そうに欠伸をすると、カーティスも誘われて口を大きく開けた。
ラジオを流そうとしたカーティスの人差し指は、ボタンの手前で止まった。クライヴがいつの間にかこちらを睨みつけている。張り込み初日にラジオをつけた際、情報を聞き漏らしたらどうするんだと、クライヴに怒られたのを思い出した。
カーティスはジャガーを降り、グレート・ラッセル通りにある日本風ファストフード店に向かった。チキンカツをふたり分買い、足早に車へ戻る。容器を差し出すと、クライヴは無線機から手を放してチキンカツを食べ始めた。揚げた衣と香ばしい肉の匂いが車内に充満した。窓を開け、カーティスはクライヴが食べ終えるまで、入場門の監視を続けた。「ごちそうさま」とクライヴが言うと、カーティスもチキンカツに手を付けた。
なんども姿勢を変え、それにも飽きてきた頃には日が暮れていた。今日は金曜日。大英博物館は二十時半まで開いている。忍び込むなら夜だが、監視を潜り抜けてすでに中にいる可能性もあった。日本刀を奪い、人混みに紛れて出てくるのが本人にとっての理想だろうが、白昼堂々の盗みを見逃すほど、ここの警備員も甘くない。
「もう盗み出している可能性はないのか」
「低い。チュウジョウが大英博物館から日本刀を盗み出せたのは、奴が周囲から厚く信頼されていたからこそだ。二回目は通用しないだろう」
「盗まずに、ロンドンで人斬りをするかもしれないぞ」
相変わらず無線機に熱中しているクライヴは、
「ロンドンは人が多い。注目されたいがために殺人を犯しているなら、そもそも人気の少ない地域で人を殺す理由がない。つまり大英博物館に来る可能性が高いわけだが、それなら、刀の収集か、あるいは人の脂がついて切れ味が落ちた刀の代わりが欲しいとか」
なるほど、と心の中で納得しつつ、カーティスは入場門に再び目を向けた。側にいる体格のいいアジア系の警備員が入場者たちを見ていた。
『こちら1-2。不審者は見当たらない』
クライヴが無線機に向かって言った。少しすると、
『こちら1-1、同じく異常なし』
エドワードのしわがれた声が訊こえた。
『こちら1-4。モンタギュープレイス出入口から館内へ入っていく標的らしき人物を確認。サングラスをしているため確証はない。撮影した写真を1-1に転送する。解析を』
アーロンの声だった。クライヴはカーティスを見てうなづく。十分ほどすると、エドワードから本人で間違いないという結果を伝えられた。支給されているタブレットの画面に、サングラスをかけた中条の写真が送られてくる。レザージャケットにジーンズと、ごく普通の出立ちである。髪は角刈りから坊主になっていた。
カーティスは後部座席からコンバットナイフを手に取ってジャケットの下に忍ばせた。M1911A1のマガジンをポーチから取り出し、挿入口に差し込む。上体に密着するよう、仕込んでおいた防弾チョッキの位置を調整した。サプレッサーをポーチに入れると、カーティスは車から降り、左耳につけてある小型のインカムのスイッチを入れた。
『クライヴ、訊こえるか』
声を出してみたが、フロントガラス越しにこちらを見ているクライヴに反応はない。
『おい』
調子が悪いのだろうか。
『おい、マヌケ……親バカ、スーツオタク』
『訊こえてるぞ』
人々の流れに逆らって館内に入ったカーティスを、巨大な中庭・グレートコートが出迎えた。目の前にある円柱の中は空洞で、巨大な図書室になっている。円柱に沿うように左右には階段が伸びており、奥のリフトから二階へ行ける。グレートコートを左に抜け、カーティスは客に紛れてガラスケースに囲われたロゼッタ・ストーンを見た。一七七九年、エジプトに遠征していたナポレオンの部下が発見した石碑。フランス軍に勝利したイギリス軍が接収し、現在までここに飾られている。黒色の石には、当時のファラオ・プトレマイオス五世が成し遂げた業績を称える内容が彫られているらしい。ロゼッタ・ストーンだけでなく、大英博物館に展示されている物のほとんどは、この国が大英帝国と呼ばれていたときに、世界中から集められた。収集した展示品があまりに多く、増改築が重ねられた結果、大英博物館の敷地はとんでもない広さになっている。じっくり見ようとすれば、一日ではとても足りない。
カーティスは中条宗則の顔を思い浮かべながら、ブルームズベリーに佇む小さな世界に入り浸った。流し見ではあるが、二本の脚は人混みをかき分け、ヨーロッパを越えると、アメリカ、東アジア、西アジア、中東、アフリカを制覇した。結局、中条らしき人間は見つけられなかった。
博物館南西の喫茶店で休憩していると、インカムに通信が入った。コーヒーを飲みながら耳を傾ける。
『そろそろ閉館時間になる。頼んだぞ』
クライヴとの通信を終え、カーティスはグレートコートに戻った。閉館後の館内で動くための根回しは、エドワードがすでに済ませていた。関係者のひとりに警察手帳を見せ、客がいなくなるのを待つ。閉館時間を十五分ほど過ぎると、大英博物館は一日の役目を終えた。少しずつ暗闇に溶け込んでいく館内。初めて目の当たりにする、夜の大英博物館。フラッシュライトで前方を照らしながら銃を抜き、二階へと向かう。
まず二階の日本関係のスペースを捜索し、いなければ倉庫に向かう。カーティスは計画を立てながら、正面入口付近の階段から上へ向かった。日本の展示スペースは館内の最奥にある。
階段を上がって西の通路に出ると、その神秘的かつ不気味な雰囲気に、カーティスは息をのんだ。
まるでお化け屋敷だった。青銅で形どられたアウグストゥス帝の銅像が、自分を呪い殺そうと睨みつけているようだった。足早に通路を抜けると、西アジアの展示スペースに出た。暗がりの中、ミイラを収めた棺が整列している。通路の中央から左へ曲がり、奥にある階段をさらに上がる。
上部にJAPANと彫られた入口のさきには、埴輪が展示されていた。土をくり抜いてつくられたつぶらな瞳と目が合う。銃とフラッシュライトを交差したまま階段を上がると、古代から現代まで日本が辿ってきた歴史の年表ともに、薄暗い暗闇の中を突き進む。カーティスはコルトガバメントのグリップをひと際強く握った。
明治時代を紹介するスペースで、中条宗則は立ち尽くしていた。『大正天皇と三国元首』を見つめている。ポロシャツから伸びる筋肉質の両腕のうち、右手には日本刀が握られていた。柄に施された金色の装飾が、わずかな光を受け静かに反射している。
「中条宗則だな」
男は意識を取り戻したかのようにこちらを見た。中条宗則は、カーティスから七メートルほど離れた場所に立っている。サングラスは胸ポケットに引っかけられており、据わったふたつの目でこちらを観察している。
空気は重く、張り詰めていた。
「日本人? いや、違うな」
「ロンドン警視庁、重大犯罪対策チームのカーティス・サカキバラだ。命あって、お前を殺しに来た」
「流暢な日本語だ」
中条の左手の親指は鯉口に据えられていた。
「どうして人殺しになった」
しばしの沈黙を挟み、侍は口を開いた
「大層な理由はない」
中条は鯉口を切った。冷たく美しい刃が顔をのぞかせる。カーティスは身構え、コンバットナイフを抜いた。
「そんな小さな刃物では敵わない。銃を使うべきだな」
「これでいい」
「死ぬぞ」
「構わない、俺はとっくに死んでる」
カーティスはコンバットナイフを逆手に持ち替えたと思うと、地面を蹴って中条に突っ込んだ。
中条の左手から、銀色の居合が放たれた。