第三部 二十二
「ここ来る前」
バルタサールはパトリシオの目を見ながら言った。
「近くの廃墟に行った」
そこになにがあるのか、パトリシオは知っている。館から西へ一キロほど進んだところにある、かつて自動車工場だった跡地。半年前までカルテルが使っていた。
「死体処理もうまくなったみたいだな」
人が増えれば争いも増える。一般人を食い物に私腹を肥やす者同士が、行儀よく話し合うはずもなく、血で血を洗う抗争が起こる。戦いは組織の規模とともに膨れ上がり、犠牲者は増える一方であった。そんなときにパトリシオが目を付けたのが、廃墟となった自動車工場だった。設備を運び込み、殺した者を収容、洗浄する。健康的な臓器を摘出し、不要になった部位は燃やして近くの畑の肥料にする。臓器を売れば、コカインにも引けをとらない貴重な収入源となり得る。
毎週、惨たらしい死体が担ぎ込まれてきては、カルテルの資源として活用された。成人した男女、犯された少年少女、骨ばった体の老人、ぼろきれをまとった路上生活者たち。
パトリシオは何度か視察に向かったことがある。嫌悪感剥き出しで不満を述べていた男たちは、一ヵ月もすると黙々と死体と向き合っていた。
死体処理の場所がある安心感が、さらなる殺しを煽った。従う者には麻薬を、逆らう者には死を。顧客の生死を問わず金が入るのだから、構成員たちの懐に入る金も増える。メキシコ・ペソの山に彼らは酔いしれ、バルタサール・カルテルは凶暴な組織へと変貌していった。
ほかの組織の連中がいくら声を挙げようが、犯罪者などもとより相手にされない。市民たちの抗議は、パトリシオと手を組んだ、サンティジャン率いる連邦警察が真摯に受け止め、そしてうやむやのうちに消えていった。
「ひどいもんだ」
「犠牲失くして勝利はねえ」
「それは命を大切にする者に許された言葉だ」
パトリシオの向けた銃口が、ゆっくりと立ち上がるバルタサールの額を追従した。
館の入口からは、断続的な銃声が訊こえていた。
「俺がここに来た理由はふたつある。ひとつは、お前とサンティジャンの癒着の事実を確かめること。ふたつ目は、アレクシアの暗殺依頼の取り消しだ」
パトリシオはにやけ顔で言った。
「殺し屋を助けると」
「あいつは正当な手続きで裁かれなくてはならない」
「それは無理だ。送り込んだ部隊は、うちのなかでも選りすぐりの精鋭だ。レアンドロもいる。アレクシアは、もう死んでいるかもしれん」
「それはない」
「なぜ言い切れる」
「優秀な護衛がいる」
バルタサールは右手の杖でパトリシオの持っていた銃を弾き飛ばした。パトリシオが懐から別の拳銃を取り出そうとした瞬間、バルタサールの拳が彼の左の頬を穿った。あまりの勢いに、そのまま一回転して地面に倒れ伏す。応戦しようとしたカルメラは、バルタサールによって蹴り飛ばされた。咳き込みながら、パトリシオは頭上の銃を求めて手を伸ばした。直後、背中に激痛が走った。短い首をどうにか回すと、尖った杖の先端が刺さっていた。バルタサールの左手には拳銃が握られている。
「その体では満足に動けないだろう。サンティジャンに連絡し、命令を取り消せ」
「断る。俺は、まだ道半ばなんだよ」
「どんな組織もいつかは消える。それが今日だ」
権威は魅力的だった。宝石のように輝き、パトリシオを照らした。小汚いギャングのアジトで惨めに働いていたときには感じたことのない経験だった。
受け入られるものか。パトリシオは痛みに耐えながら思った。やっとの思いで手に入れた現在の地位を手放せば、また薄暗い世界に逆戻りだ。ステーキも食えないし、美女も抱けない。天高く積まれたシャンパンタワーを見れなくなる。もっと金が欲しい。もっと力をつけて、バルタサール・カルテルをさらに大きくする。
背中から杖が抜かれると、パトリシオは仰向けにされた。足元に堂々と立つバルタサールの顔からは感情が感じられなかった。毎日の流れ作業をこなす人間のような、機械的な表情だった。
バルタサールは、立ち上がったカルメラを拳銃でけん制した。隠していたナイフを捨てさせると、地面に伏せるよう命令した。
室内を見渡していたバルタサールは、やがて目を止めた。パトリシオも同じ方向に顔を向ける。袋詰めにされた長方形のコカインが一ダース、赤いシルクの上に積み上げられていた。バルタサールはひとつを手に取った。
なにかを思いついたかのように、彼は懐からスマートフォンを取り出した。
◆◆
防弾仕様のバンに揺られながら、ジョージ・アシュバートンはG36のグリップを持ち直した。
銃器専門指令部に出動要請が下ったのは四時間前。アレクシア・ハバートとその協力者が、メキシコの協力隊を退けながら逃走を続けているらしく、事態を重く見たロンドン警視庁は、協力隊隊長、レアンドロ・アドモの提案を承諾した。ブリーフィングでは、協力者のひとりであるカーティス・サカキバラという男に関する情報も共有された。
戦争も人殺しも経験していないジョージにとって、カーティスはどこか別の世界の人間のように思えた。小説や映画に出てくるような、ひとりで何人もの敵を蹴散らす主人公の類だ。実戦を経験していない自分が戦っても負けは見えているし、できれば撃ちたくない。
時間とともに増していく緊張を抑えながら、事態が早急に解決することを祈った。
「期待してるぞ、新人」
隣に座っていた上司に声をかけられ、
「はい、頑張ります」
高速道路のM90に乗ったという話が来てから三十分ほどして、車は止まった。協力隊との合流地点である、ファーニーバンクに着いたのだろう。ケアンゴームズ国立公園の南東に位置する、小さな宿泊施設だ。バンの後方のドアが開くと、ジョージも仲間に続いて外に出た。午後の日差しが、隊員たちのヘルメットに鋭く反射している。黒い戦闘服がさっそく太陽光を吸収したのか、背中に少し熱さを感じた。
情報の場所は本当にここなのかと、ジョージは不思議に思った。凶悪犯とその協力者が潜んでいるとは思えないほど、のどかな雰囲気だ。世俗から隔離されたかのような美しい田園地帯が周囲に広がっており、北西にはケアンゴームズ国立公園の丘陵が見える。
隊長はジョージたちの前に出てきて言った。
「協力隊の隊長を呼んでくる」
ジョージは前にある車を見た。自分たちと同じ黒色のバンだ。その右にはアストンマーティンが停められている。一般人も泊まっているのだろうか。
施設のドアが開き、なかから隊長とラテン系の男が出てきた。SCO19にも引けをとらないほど立派な戦闘服に身を包んでいた。
「メキシコから来た協力隊の隊長を務めている、レアンドロ・アドモだ。すでに話はいっていると思うが、バルタサール・ベネディクトの殺し屋だった女が現在逃走中で、ここら一帯にいるというところまで突き止めた。イギリス警察の精鋭と協力し、奴らを追い詰めたい」
ふたりの隊長は握手を交わす。レアンドロはロッジに戻ると、残りの隊員を連れてきた。レアンドロと同様、ほかの者も一様にラテンアメリカ系であった。
不意にひとりの隊員と目が合うと、ジョージは背筋が寒くなるのを感じた。同じ警察の人間であるはずなのに、なにかが決定的に違う気がした。昔、学校で不良を見かけたときと似たような感覚だった。
続いて現れたのは、スーツやジャケットに身を包んだ、ラフな一団だった。四人いる。そのうちのひとりが手帳を見せながら隊長に近づいた。そのデザインを見て、ロンドン警視庁、重大組織犯罪局の者だとすぐにわかった。
「クライヴ・エインズワースです。よろしくお願いします」
クライヴという男は笑顔で隊長と握手を交わしたが、その顔はやつれていた。
※
ジョージたちは徒歩で移動しながら周囲を警戒していた。まだ夕方前ということもあり、視界は良好だ。五十メートルほどさきで優雅に飛んでいるベニシジミも視認できた。燃えるオレンジ色の羽をはばたかせながら花から花へと移り、蜜をせっせと吸っている。
「なにか見つけたのか」
隊長に訊かれたジョージは、おずおずと答えた。
「ベニシジミが」
隊長は大げさにため息をつくと、
「つぎから、お前の装備品のチェックリストに網と虫かごを追加しておく」
ほかの隊員たちが笑いを堪えているのがわかり、ジョージはとたんに恥ずかしくなった。さっさと仕事を終わらせて、家でゲームの続きをやりたい。
部隊は、両端の起伏に挟まれた地形を選び、前進を続けた。
開けた野原を歩いていると、前を歩いていた協力隊のひとりが崩れ落ちた。ジョージは目を見開いた。
「全員、西の森まで走れ!」
隊長が叫んだ。
撃たれた隊員が倒れたとき、ようやく状況を飲み込んだ。
狙撃されたのだ。直後、弾を追いかけるようにして銃声が響いた。銃声が遅れて響くほど遠距離狙撃を行える人物は、現状、ひとりしか思い浮かばない。
ジョージは反射的に伏せたが、隊長に摑まれ、無理やり立たされた。開けた北側から撃たれたのに、その場で伏せても意味はない。頭が真っ白になり、訳も分からず走る続けるなかで、彼は再び銃弾の音を訊いた。ジョージの数メートルさきを銃弾が通り抜けた。弾が空を裂いて飛来する音。生で訊くのは初めてだった。怖ろしい音だった。なにも考える余裕を与えられず、涙を拭う暇もなく、ひたすらに隊長の後を追った。もう一度銃声が鳴ると、ジョージの斜め前方を走っていた別の協力隊員の頭が吹き飛ばされた。
一同は森に到着すると、木々や灌木に隠れた。激しく鼓動する胸を必死になだめながら、ジョージは撃たれた男たちを思い出した。人が死ぬ瞬間を見るのも初めてだったのである。ジョージはもはや観客ではなかった。
彼はとたんに口をふさいだ。その行動に意味はない。ただ、呼吸の音から位置を割り出され、殺されるかもしれないと、そう思ったのだ。
<敵は北にいる>
隊長からの無線通信だった。
伏せた状態で銃を構えながら、ジョージはようやく息を整えると、開けた土地を見た。北と言われても、視界の先には延々と緑と山が続いている。これでは敵の位置をつかめない。
<本部からの支援を受けられないか掛け合う。アドモ隊長、いいかな>
<了解した>
※
陽が落ち始めた頃、事態に進展があった。銃器専門指令部の所有するヘリコプターの一機が、部隊の上空に駆けつけたのである。機体の両脇には武装した隊員が一名ずつ座っていた。
<これより周辺地域の捜索を開始する>
ヘリは部隊の進行ルートを往復しつつ、コックピット下部に取り付けられたサーチライトで辺りを照らし始めた。暗闇の大地を光が貫き、近くにいたサヨナキドリの群れが、軽快な鳴き声とともに散っていった。ブレードが回転する勇ましい音がジョージたちを勇気づけた。
暗視装置をつけた一同は、中腰で森を移動し始めた。ヘリの偵察が功を奏しているのか、敵からの攻撃はない。暗い森を進んでいく。
部隊の後を追おうとしたジョージは、違和感に気付いた。
隊員の数が少ない。
草がこすれるかすかな音に振り返った瞬間、ジョージは暗視装置を外され、何者かに腹部を殴られた。二転三転する視界のなかで必死に味方の助けを願ったが、誰ひとりとしてこちらに気付いていない。襲撃者はギリースーツを着用していた。ジョージたちがいた森のなかに潜んでいたのだ。狙撃は誘導するための罠だったのかもしれない。
誰も異変に気づかないのはヘリのせいだと、彼は理解した。あのブレードの駆動音が、敵の出す音をかき消してしまっている。再び銃声が訊こえた。
薄れゆく意識のなかで、ジョージはまたひとり、仲間が襲われるのを見た。協力隊の隊員だ。自分とは違い、ナイフで首を刺されていた。白と黒のコントラストの視界に、黒い液体が飛び散る。なぜ自分は首を絞められているのか、わからなかった。
「おやすみ」
頭上から声をかけられ、ジョージは気を失った。