第三部 十
モザイクがかかった視界のせいで細部までは判別できない。だが、クライヴの前で片膝をついた男の右手には、たしかに杖が握られていた。遠くでは人々の雑踏がかすかに訊こえる。
「ベネディクト!」
クライヴは叫んだ。実際は、芯の通っていない、消え入りそうな、か細い声だった。
鮮明になっていくクライヴの目が、バルタサールの姿を捉えた。黒色のスーツとネクタイ、中折れ帽に身を包む姿は、さながら葬儀の参列者のようだった。眼は鋭く光り、クライヴを睨んでいる。幼少時に撃ち抜かれた右脚はろくに動かせず、杖で代用しているというのに、弱さなど微塵も感じさせぬ佇まいと風格があった。
「惜しかったな」
ここはすでにメキシコだった。外国人が現地の人間に勝手に危害を加えれば、クライヴ如きではどうにもならぬ事態に発展するだろう。
クライヴとバルタサールのあいだは一メートルしかない。力任せに一歩進めば、クライヴの両腕はバルタサールの胸倉をつかめるに違いなかった。奴の顔を気の済むまで殴ることだってできる。だが、その一メートルが遠い。悪事を正し法の番人たることを、その存在を持って知らしめている警察に、この空間を越えられようはずはない。それを十分に理解している自分に心底腹が立った。
バルタサールは不敵に笑った。左腕で上げると、クライヴの体が軽くなった。拘束を解かれたのだ。スーツを整えながら立ち上がったクライヴは、その場でバルタサールを睨んだ。
「お前のような連中がいるから、世の中は腐っていくんだ」
力んだ全身で声を震わせながら、クライヴはバルタサールを糾弾した。
「模範解答だな」
「お前には必ず罰が下る」
「それはいつだ」
「いまかもしれないぞ」
クライヴが薄汚れた上着を左手でつかむと、茶色い革でできたショルダーホルスターとそこに納まっている拳銃が姿を覗かせた。動きを察知した背後の警備員がサブマシンガンを構えた。
バルタサールは警備員を見ると、
「銃を下げろ」
突きつけられた銃には目もくれず、バルタサールはクライヴの目を見続けている。
どのような過程があったにしろ、バルタサール・ベネディクトはメキシコ大使館に招かれている。ここで奴を殺せば、カルテルの親玉はこの世から消えるが、衝撃と遺恨は残るだろう。イギリスとメキシコから、双方の大使館が撤去され、関係悪化という事態を招いたとしても、自分は、自らが達成した正義を誇り、前を向いていられるだろうか。妻は、息子は、カーティスたちSCO0は、受け入れてくれるだろうか。
クライヴは震える手で銃を下ろした。
「賢明だ」
「……麻薬のせいで、僕の友だちは道を踏み外した。あいつは麻薬なんて興味もなかったのに、ただの偶然で、チャーリーは廃人になった。あんなに明るかった奴が、ゾンビのようになった。こんな理不尽な話があってたまるか」
クライヴは顔を俯かせ、静かに泣いていた。
「お前の友だちの幸福を祈ろう」
顔を上げたクライヴは驚きに目を見開いた。バルタサール・ベネディクトは、脱いだ帽子を胸に当て、頭を垂れていた。
「――ふざけるな!」
クライヴには、チャーリーを破滅に追いやった連中と同類の男が懺悔しているようにしか見えなかった。ローレンス神父なら、彼の頭の上に手をやり、あるいは神の御名の下に許したかもしれない。だが、クライヴには、大悪党を許せるだけの器量はなかった。
バルタサールは顔を上げて微笑んだ。やつれた顔に浮かぶ笑みに、他意は感じられなかった。彼はすぐに踵を返し、仲間の待つ元へ歩いていく。
「おい」というクライヴの呼びかけも虚しく、バルタサールは仲間を連れて大使館の玄関へと進んでいった。
復讐心とともに大人になった男の後ろ姿を、クライヴはじっと見つめていた。
◆◆
バルタサールはドアを開けた。前にいる金髪の女性に声をかけられ、彼は気が付いた。大使館に電話したとき最初に応えたのは、この人だったのだろう。
同じ場所に居合わせた客人たちは、彼らを奇怪な目で見ていた。
「ベネディクト様、もう少しでペルニーア大使が来ますので、客室へご案内します」
「申し出はありがたいんだが、ちょっと脚が痛くてね。ここで待たせてもらうよ」
「わかりました。では、そちらでお待ちください」
一行は、受付の指し示した場所に置かれていた黒革のソファーへと向かった。バルタサールが座ると、仲間たちは周囲に散る。大きく息を吐いた彼は、目を瞑って座していた。
「ベネディクト様」
数分ほど瞑想に耽っていたバルタサールは、高く透き通った声によって現実に引き戻された。受付にいた女性が左に立ち、不安そうにこちらを見ている。
「気分が優れないのでしたら、医務室にお連れ致します」
バルタサールは、
「大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけだよ」
「そうでしたか。あっ、大使が来ました」
鋭い靴音が訊こえ、受付の背中から顔を覗かせると、黒のスーツに赤いネクタイを締めたアウレリオ・ペルニーアが姿を現した。短く切り揃えられた白髪は薄く禿げあがっていて、愛想笑いをまんべんなく振りまいてきたであろう頬は、たるんでいた。
「人払いにしては大胆だな」
例の予告のことだろう。
「カルロスの案だ」
「訊いたぞ、エルギンの一件。あいつは――いや、いい」
バルタサールは、ソファーの側にまで来たペルニーアと握手を交わした。敵の顔をしげしげと見たペルニーアは、対面のソファーに腰かけた。
「脅迫状か」
バルタサールが言った。
「我ながら良い手だと思ったよ。警備を厳重にしつつ、領土を広げるには都合がいい。情報統制も抜かりはない」
「インターネットは欺けないだろうがな」
ペルニーアは笑いながらタバコを一本取り出した。豪奢な装飾が入れられた、いかにも高級そうなターボライターで先端を炙った。
「あの一帯で関係者以外にお前の顔を見たのは、あの小僧だけだ。さっき訊いたよ。ひとりならどうとでもなる。それより、どこに飛ぶんだ? ヨーロッパは厳しいだろう。アジアあたりか」
「メキシコだ」
ペルニーアは時が止まったかのように顔を硬直させた。
「本気で言ってるのか」
「パトリシオに会わなければならない」
「お前のところの幹部か」
「いまは二代目だ」
メキシコとカルテルの関係は想像以上に根深い。アメリカの薬物市場を支配し、莫大な利益と武器を流入させるカルテルは、国内において多大な影響力を持つ。バルタサールたちが復讐を成し遂げることができたのは、そのおかげだった。
政府側とカルテルによる麻薬戦争は長く、鮮烈を極めた。二〇〇六年から二〇一二年のあいだに八万人近い死者が出た。
メキシコの南部に位置するミチョアカン州は、“ファミリア・ミチョアカーナ”と呼ばれるカルテルが支配していた。肥大化したことで、“ラ・ファミリア”と“テンプル騎士団”に分裂した。テンプル騎士団がミチョアカン州で幅を利かせていたところを、地元で結成された武装自警団が軍とともに反撃を行った。激しい戦いの末、二〇一四年には、騎士団が拠点としていた“ティエラ・カリエンテ”を占拠。ミチョアカンにおける麻薬戦争は、八年の年月をもって終結した。
規模を拡大させていった武装自警団は、政府の傘下に入ることでその存在を合法化するか否かで揺れていた。民衆から圧倒的な支持を得ていた組織は、あくまでも政府からその存在を黙認されているに過ぎない。多種多様な人間を受け入れていくうちに、自警団はかつての高潔な目標を失い、自分たちが憎んでいた麻薬組織のような残虐行為に走る者も増えていた。当時のリーダーは政府に下ることを頑なに拒んだが、合法化を進める組織の腹心による裏切りにあい、投獄された。
国を巻き込んだ麻薬戦争は、いまも続いている。
「政府と癒着しているようだ。それも、カルテルを潰すためではなく、私腹を肥やすために」
「どこかの誰かを真似たのかもな」
「あれは模倣じゃない。俺たちの手を利用しただけだ」
真剣な顔つきのバルタサールを見たペルニーアは、吸い始めたばかりのタバコを灰皿に押し付けた。立ち上る煙が、空調機の流れに乗り消えていった。
「予想できなかったわけじゃないだろう……パトリシオと会ってどうするんだ」
「話し合い、内容によっては然るべき処置をとる」
大使館を出ると、すぐ左にあの男が立っていた。スーツの裾は破れ、頬には痣がある。ショルダーホルスターに銃はなかった。バルタサールが歩いていくと、男はスマートフォンに落としていた視線を上げた。
「君にひとつ訊きたいことがある」
「なんだ」
「アジトの場所、よくわかったな」
「柱時計の音とグレンエルギンが決め手だった」
彼は落ち着いた物腰でこれまでのことを話した。
「グレンエルギン……酒好きに取り立てを任せたせいか。客が用意するものまでは気が回らなかった」
バルタサールは自嘲気味に笑った。それを見たクライヴは、
「僕からもひとつ訊かせてくれ」
「手短にな」
「あんたは、カルテルに復讐するため麻薬に手を染めたんだろう」
「そうだ」
「もしも、もしもの話だが、もう一度人生をやり直せるなら、復讐をするにしても、違う方法を選んだか」
「かもしれないな」