第三部 五
豪奢な屋敷の奥。開け放たれた窓からは、暑くもなければ寒くもない、心地よい風が室内へと流れ込む。シーリングファンが静かに回る部屋で椅子にふんぞり返っていたパトリシオは、今月の収支報告書に目を通していた。短く切り揃えられた黒髪は天井を見上げるように逆立ち、鍛えられていたはずの腹は、かつての面影を微塵も残さず、だらしなく前に出ていた。二重の眼は、書類に書かれた五〇〇〇万メキシコ・ペソ(約五億円)という数字をなぞった。
彼は恍惚の表情でうなづいた。快楽に溺れ、欲望を見境なく貪る連中から金を巻き上げるのは容易い。金のなる木を一定本数に保つという考えは、頭のどこにも存在しなかった。パトリシオは、支配する者だった。
地元のギャングが壊滅したとき、パトリシオは焼き焦げたアジトでバルタサールと出会った。後光の影に染まる彼の姿に、パトリシオは怖気づいた。死ぬと思った。自分たちが、カルテルから回って来た麻薬を捌いていたからだ。
だが違った。バルタサールの右手は、パトリシオに差し伸べられた。
「来い」の一言で十分だった。その日からパトリシオは、バルタサール・カルテルの一員になった。社会科の成績がいいというだけで古巣の運営を手伝っていたが、中学程度の知識が通用する場などたかが知れていた。それでも、バルタサール・カルテルでパトリシオを笑う者はいなかった。仲間たちはときに彼の知識を頼り、ときに足りない部分を補った。
必要とされて、必要とする関係が嬉しかった。勉強したいと言えば、組織は高い教科書や資料を買う金をくれた。バルタサールに恩を返すため、必死で勉強した。
会計に強いセフェリノの協力もあり、パトリシオの周到な組織運営はカルテルでも評判だった。力だけでなく、人材やコネクションを活用した中長期的な計画は、組織に多くの金をもたらした。
バルタサールがロンゴリアに復讐してから、十年が経ったときのことである。掲げた目的を達し、安定を求めたバルタサールは、ボスの座を誰かに譲るのではないかと、仲間たちのあいだで囁かれていた。
そして、イギリス行きを決めたバルタサールは、二代目にパトリシオを指名した。バルタサールの後を継ぎ、このカルテルをより強力に、より巨大なものにして見せる。自分の名を歴史に刻みつけるのだ。ギャングに所属していたときから胸に秘めていた野心に、権力は薪をくべた。パトリシオは動き出した。メキシコ中に伸ばされた手は、パトリシオのなかにあった。
資金源をさらに拡大させるため、まず警察から手を付けた。客ではなく、自分たちのビジネスを邪魔する障害を排除する。女の構成員を使って男の警官を路地裏だの、勢力下のバーに誘き出し、弱みを握る。兼ねてから汚職が蔓延している警察を篭絡するのは至って楽だった。先代の時代にできたコネを使えば、体制側の連中とも速やかに黒いつながりができた。
照明の右に置かれた電話が鳴った。パトリシオは収支報告書を手放すと、代わりに受話器を手に取った。
『パトリシオだ』
『仕事は順調か』
人を見下しているような高慢な口調に、パトリシオは表情を曇らせた。
『いい感じだ。利益はうなぎ登り。親父のつながりを少しこねるだけでこれほどまで金が手に入るとは、正直、自分でも驚いている――あんたたちの支援もあるだろうがな』
バルタサール・カルテルが方針転換をしたことで、なりを潜めていた連中が軒並み反発してきたのは想定内だった。先代がやろうとしていることとは違うが、パトリシオはバルタサールではない。彼の影は、遠く大西洋を挟んださきにある島に映えている。あちらでも派手にやっているようだが、自分には関係ない。
『ブラウリオ・カルテルの件は見事だった。奴らが勢力圏を譲ったおかげで、顧客も増えたんだろう』
『まあな』
『心配事はいらない。後始末は我々に任せろ』
パトリシオは眉間に皺を寄せた。背中の位置をずらすと、革張りのソファーの背もたれが苦しそうに音を立てた。
『あいつの処理も任せていいんだな』
『イギリスにバルタサールの捜査協力隊を送り込んだニュースは見ただろう。交渉するのに苦労したよ。彼らが無事に仕事を遂行してくれるだろうさ。無論、別の手も打ってある』
アレクシア・ハバード。バルタサールやほかの部下たちが娘のように可愛がっていたあの女。奴はリカルド・サンティジャンとの通話を訊いていた。内容は知らずとも、サンティジャンとのつながりを匂わせる事実が明るみに出れば、政府が本腰を入れて対処し出すかもしれない。自分が、明日も明後日も玉座に座っているためには、ほんのわずかな不確定要素も見逃してはならない。バルタサールの部下だったブラスを捕えたとき、そう確信した。
ブラスは先代の仲間だったため、メンバーとの接触も見逃していたが、ある日、ブラスがいつも会っている奴のポケットに、輪ゴムで丸めた札が入っているのをほかの仲間が見つけた。後日、ブラスを尾けた結果、奴はカルロスと連絡を取っていた。情報が流されていたのだ。
先代は約束を守る男だった。カルロスの独断に違いない。パトリシオは確信していた。事実、それは正しかった。
『あんたが仕事をきっちりこなす分には、こっちも相応の働きで返す。ペルニーアのときのようにな』
『もちろんだ。では』
 




