第三部 四
カーティスはキッチンの小さな棚からアールグレイの茶葉を取り出すと、白いポットに入れて煮出した。トレイにティーセットを乗せ、アレクシアの前のテーブルに置いた。
「元気そうでよかった」
アレクシアが言った。
「肩を怪我しただけだからな」
ふたつのカップに紅茶を注いだカーティスは、再び彼女の隣に座った。
ノッティングヒルの街は今日も賑やかで、開け放たれた窓からは、男女の活気づいた声が訊こえる。
「この前はあんな朝早くに電話してごめんなさい。昼くらいにするべきだったわ」
カーティスは首を横に振った。
「そんなことない。むしろ、タイミングがよかった」
「そう? ならよかった」
カーティスは紅茶をひと口飲んだ。
「それで、今日はどうしてここに」
「お見舞い。それとおしゃべりをしに」
ふたりはソファーに腰かけながら、団らんのひとときを過ごした。今日外で見た露店、人々の目線を一手に集めていた大道芸人たち、ロンドンに注ぐテムズ川、フランスを見据えるネルソン提督像と、そこに悠然と広がるトラファルガー広場のことを話した。
アレクシアの話題が終わった後、カーティスはいまに至るまでの自分の足跡を話した。訊き始めの頃は不安気だったアレクシアの顔が、徐々に明るくなっていった。
「確信はなかったの」
アレクシアは呟いた。
「純粋に私が思ったことを口にしただけ。それであなたを勇気づけられたのなら、すごく嬉しい」
「イラクから帰ってきた俺は、いわば抜け殻だった。生きる意味もわからなくなって、かといって死ぬ勇気もあるわけじゃない。どっちつかずの毎日を過ごしてきた」
「……いまは?」
カーティスは彼女の目を見ながら、
「生きるために生きる。それが、ジョナサンやエルマーたちにできる最大のお返しだ」
微笑み、ときには声を挙げて笑う。一秒でも長く続いてほしいと願う時間は、あっという間に過ぎていった。
ポットのなかのアールグレイが底をつき、皿に盛られていた茶菓子も平らげた頃、カーティスの自宅には、夕陽が差し込んでいた。テレビの上方、壁に掛けられた時計は、十七時を指している。
「もうこんな時間」
「夕飯はどうする? よかったらいっしょに」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
カーティスはティーセットを持ってソファーから立ち上がった。ティーセットをキッチンに置くと、
「食材があまりないから、近所の店まで行って買ってくる。なにか要るものは」
「私も料理手伝うわ……そうだ、メモに欲しい食材を書くね」
アレクシアは持参していたポーチから小さなメモ帳を取り出すと、いくつかの項目を書きだした。縦にびっしりと書き込まれたメモ書きの白と黒のコントラストがシマウマの模様にも見えた。食材が書かれた紙をちぎったアレクシアは、カーティスに渡した。
「多いな」
「今回は前よりも頑張るから、期待してて」
「楽しみだ」
カーティスは自室に戻って、クローゼットの扉を開けた。茶色のテーラードジャケットを羽織ると、クリーム色の中折れ帽を被り、アレクシアの元へ戻る。
「少ししたら戻る」
「いってらっしゃい」
自分を送り出すアレクシアの言葉にむずがゆさを感じ、思わずにやけた顔を隠すように背を向けると、玄関へ向かい、ドアを開けた。陽射しを切り裂く帽子のつばが、カーティスの顔に濃い影を落とした。
夕暮れ時ということもあるのか、さきほどまで溢れていた活気は抑え気味で、街行く人もまばらだった。何人かの顔なじみと挨拶を交わした。
歩くにはちょっと遠いが、今回はオーガニック食材を取り扱っている店で食材を買おう。きっと、彼女も喜ぶはずだ。彼は思った。
◆◆
カーティスを見送ったアレクシアはソファーに座り直すと、スマートフォンを取り出して画面を見た。ここに来る途中で一度だけ振動したのだが、その理由は、父からの連絡だった。
バルタサール・ベネディクト。組織を勝手に飛び出して以来、こうして彼から連絡が来るのは三度目だった。罪の意識と、自分の生活を邪魔されたくないという考えゆえに、アレクシアは自分を育ててくれた男の呼びかけから顔を背けている。
稚拙な自分を恥じる思いもあるが、それ以上に、バルタサールと連絡もせず、恩を仇で返すようなことをしているのが情けなかった。
暇つぶしに見ていたテレビの電源を落とした彼女は、ソファーに座ったまま、リビングを見渡した。視線は、やがて大型テレビの側にある棚で止まった。三つある引き出しのうち、いちばん上の段が、少しだけ引かれたままだったのである。アレクシアは立ち上がると、そのまま近づいていった。右手で丸い取っ手をつかむと、そろそろと手前に引いていく。
顔を出したのは拳銃だった。丁寧に磨き上げられ、天井の照明を鋭く反射する漆黒の銃身、カーティスの手に合わせて作られているのであろう、緩く波打つグリップに、金色に輝くメダリオン、堅牢なフレーム。ところどころに残る傷跡は、多くの戦場をくぐり抜けた年季を感じさせた。
この前パブで飲んだときにカーティスが言っていた、祖父の形見だろう。アレクシアは思った。たしか、コルトガバメントだっただろうか。メキシコにいたとき、構成員のひとりが持っていたような気がする。もっとも、これほどの近代化はされていなかったけど。
アレクシアは引き出しを元に戻すと、二段目が気になり、なかを確かめた。拳銃の弾が透明なケースに敷き詰められている。彼女は、いちばん下の引き出しの中身もあらためた。
リボルバー式の拳銃がひとつ、寂しく佇んでいた。一段目に入っていたコルトガバメントとは打って変わり、手入れはほとんどされていない。木製のグリップパネルは変色していて、黒色の銃身は錆びついている箇所もあった。長く使われていないのは明らかだった。
アレクシアは、持ち主に忘れ去られたような拳銃を手に取った。ずしりと重さが右手に伝わってくる。シリンダーラッチを押して、銃身に収まっているシリンダーを左に押し出した。
六つの薬室のうちひとつだけ、銃弾が装填されていた。弾が装填された薬室は、銃身のすぐ左に位置していた。
玄関のドアが開く音が訊こえて、アレクシアは急いで拳銃を引き出しに戻した。
カーティスが戻って来たのだろうか。
アレクシアはソファーに腰かけながら、廊下の方へ声をかける。
「どうしたの、忘れ物?」
「そう、忘れ物だ」
アレクシアは肩を震わせた。
「……カルロス」
廊下から姿を現したカルロスは、黒いミリタリージャケットに、淡い緑色のカーゴパンツという出で立ちだった。金髪の髪が窓から差し込むわずかな夕陽を反射して眩く光っている。サプレッサーが付けられた拳銃をアレクシアに向けながら、カルロスは近づいてきた。
「パディントンの自宅にいなかったから、探すのに手間取ったぞ」
彼が会いに来た理由は、考えるまでもなかった。
ゆっくりと歩み寄るカルロスは黙り込んでいる。アレクシアの横まで来ると、腰のホルスターに銃を戻し、ソファーに腰かけた。
「バルタサールから伝言がある」
「えっ」
「二度と俺たちに関わらないと誓うなら、許すと」
破門だった。幼いときから自分を育ててくれたバルタサールや、ほかのみんなに背を向け、なにごともなかったかのようにこれまでの日々を過ごすということだった。
「どうして」
「俺たちは急きょメキシコに帰ることになった――パトリシオの動向が怪しいもんでな」
カルロスの淡々とした口調が、アレクシアの奥底から記憶を呼び戻した。万が一、バルタサールたちとの取引きする場合のカード。幼かった頃、偶然耳にした、パトリシオの立ち話。彼は黒電話の前でやたらと声を低くして喋っていた。詳しい内容は訊けなかったが、たたひとつの単語が、アレクシアの心に残っていた。
「――リカルド」
アレクシアは気付かぬうちに口を開いた。
「リカルド?」
「リカルド。パトリシオは昔、その人と電話で話してた」
当時はリカルドという名前を訊いても思い当たる節などなかった。アレクシアがその名前の主を再び思い出したのは、バルタサールの真似事をして新聞を読んでいるときだった。
――リカルド・サンティジャン、メキシコ連邦警察長官への就任が決定。大統領からの信頼の厚さの証左か。アウレリオ・ペルニーア現長官は閑職へ?
「リカルド、か」
カルロスは左手で顎を撫で始めた。眉間に寄っていた皺の線は濃くなっていき、
「……リカルド・サンティジャン。アウレリオ・ペルニーアの部下だった男か」
ペルニーアはカルテル撲滅へ本腰を挙げていた。だが、金と麻薬が蔓延るメキシコでは、純粋な正義はいともたやすく捻じ曲げられてしまう。就任してきた美人秘書にまんまと引っかかったペルニーアは、上機嫌で秘書の自宅へと向かう様をパパラッチに撮られ、新聞で大々的に報じられた。辞職は避けられなかったが、高い事務能力と話術の才能を以って、努力の果てに駐英国メキシコ大使になった。先進国の大使と言えば訊こえはいいが、とどのつまり、左遷だった。十年以上前の話である。
「信ぴょう性が出てきたな。それを手土産にすれば、戻れるかもな」
「組織にってこと」
「ああ」
アレクシアは一瞬迷ったが、
「やめとく。自分で決めたことだから」
「……そうか」
「その代わり、お願いがある」
「それは?」
「私の友だちに、危害は加えないで」
カルロスは微笑んだ。
「メキシコに戻ればなにもできない。が、念のためボスに伝えておこう。ここの家主は、カーティス・サカキバラ、だったか。仲良くしているようだな」
身の回りを調べられていることは想定済みだった。
「ええ」
「ならいい。じゃあな」
カルロスは立ち上がった。