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悪党に鉄槌を 殺人犯に花束を  作者: 菊郎
第一部 悪党に鉄槌を
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第一部 三



 カーティスはケンジントン公園のベンチに腰かけていた。時刻は七時。人はまばらだ。散歩好きな彼だが、雑多な都会を渡り歩くのはあまり好きではなかった。視界の隅では、朝日を受けて輝くピーターパン像が佇んでいる。耳をすますと、側を流れる川のせせらぎも聞こえてきた。

 肌寒い空気が顔を刺す。カーティスは流れゆく雲を眺めながら、生まれ故郷である日本を思っていた。


 カーティスは日本の神奈川県で生まれた。日本人の父、榊原泰(さかきばらやすし)と、イギリス人の母、カミラ・アーネットを持ち、父の苗字と、母が考えていた名、カーティスが、小さな病院で元気に泣く三千四百グラムの赤ん坊に授けられた。

 地元の幼稚園に入れられたカーティスは、周りの子たちとすぐに仲良くなった。朝は父とともに元気よく「いってきます」と母に告げ、昼には幼稚園で友達と小さな園庭を元気に走り回り、泥まみれで帰ってきては、夜には両親に挟まれてぐっすり眠った。人の笑顔を見るのが好きだったカーティスは、困っている友だちをよく助けた。


 「母さんの故郷をこの目で見たい」という、カーティスの言葉がイギリス行きを決めた。十二歳となった彼は、テレビやインターネットで世界を知っていくにつれ、母の故郷に行ってみたかったのである。自分がハーフであるという疎外感から、逃げたい思いもあった。

 カーティスが生まれてから一度も帰国していなかったこと、そして(やすし)の後押しもあって、三人はスコットランドのグラスゴーへ向かった。

 羽田空港を発ち、初めて目にする海外。降り立ったグラスゴー空港に、カーティスの心は弾んだ。

 日本人はもちろん、イギリス人にアメリカ人、インド人やエジプト人の友達もできた。その中にはクライヴもいた。イングランド生まれのロンドン育ち。立派なイギリス人(ブリティッシュ)である。

 いつしかカーティスは、イギリス人としての自覚を強く持つようになった。風にはためくユニオンジャックに敬意を抱き、国歌も覚えた。

 生き生きと毎日を過ごすカーティスを見て、泰とカミラは永住を決めた。

 カーティスの家には、カミラの祖母、アミーリアと、祖父のブライアンがいた。カーティスはブライアンに惹かれていた。と言うのも、彼はかつて、第二次世界大戦中にイギリス陸軍兵士として北アフリカ戦線にいたのだ。北アフリカでの戦いが終わると、今度は西部戦線へ送られたという。


「ドイツ軍は物量で連合国に劣っていた。だが、ロンメル将軍は、自軍の戦闘技術だけでなく、気候や地形を利用して、我々を翻弄した。悔しいが、見事だった。我が軍の捕虜を丁重に扱ったと知ったときは驚いたよ。報せを聞くまで、ドイツ軍はくそったれのケダモノしかいないと思っていた」


 国籍や人種など関係なく、国家や家族、友人、恋人のために命を捧げ、戦い抜いた英雄たちの物語は、あらゆる資料よりも、カーティスの胸を打った。北アフリカ戦線は、騎士道の残った稀有な戦場と言われていると知ると、一層興味を示した。


「俺も爺ちゃんたちみたいになりたいな」


「なれるとも」


 ブライアンはそう言った。


「本当に?」


「正しいことを為せる人になれ」


 カーティスは面食らった。強くなるには、力や技術だけがあればいいわけではないのか。


「それより、爺ちゃんみたいな銃の名手になりたい」


「技術は後回しでいい。仲間や弱者の味方であり、卑怯な者たちの敵でいろ。私が西――」


「西部戦線で砲撃を受けて死にそうになったところを、味方に助けられた、だろ? だから仲間は大切にする」


「そうそう」


 ブライアンは皺だらけの顔で笑うと、カーティスの頭を撫でた。

 少し恥ずかしかった。だが、かつて銃を握っていた無骨な手は力強く、心地いい。祖父の言葉はカーティスの糧となった。カーティス・サカキバラは、このとき実体を持った。

 彼は、人一倍優しく、正義感が強い男になれるよう努めた。困っている人を助け、不当な暴力を振るう輩と戦った。高校では有名人になり、彼を快く思わない者も少なくなかったが、些細なことだった。

 イギリス陸軍への入隊を決めたのは、高校を卒業する二ヶ月前のことだった。泰は歓迎した。カミラは反対していたが、カーティスの強い願いを尊重し、やがて首を縦に振った。クライヴたちも彼の決断を称え、賞賛した。


「こいつを持っていけ」


 カーティスが陸軍の入隊式へ向かう前日のことだった。棚からM1911A1(コルトガバメント)を取り出し、ブライアンはそう言った。



 ポケットにスマートフォンを突っ込んだカーティスは立ち上がった。東へ向かう。高級ホテルのグロヴナーハウスが見えた。左へ曲がり少し歩くと、小さなパン屋に差し掛かった。「グロヴナーベーカリー」と、可愛らしいフォントで書かれた木製の看板が外に立てかけられている。二階建ての木造建築で、一階の窓からは棚に陳列されたパンが見える。カーティスはそっとドアを押した。真鍮のベルが渇いた音を立てた。後頭部だけを出してカウンターで作業していた若い女性がこちらを見た。


「舞ちゃん、おはよう」


「カーティスさん、おはようございます。まだ開店前だよ」


 日本訛りの英語でカーティスを出迎えると、村上舞は微笑みながら軽く会釈した。黒髪のポニーテールがわずかに揺れる。イギリスに長期滞在している日本人で、パディントン地区に住んでいる。旅行が好きで、これまでも欧州各国を渡り歩いてきたらしい。彼女にとってイギリス、とくにロンドンは居心地がようで、グロヴナーベーカリーを気に入ってからは、就労ビザを取得し、アルバイトを始めた。二年前のことだ。彼女と知り合ったのも同じくらいだった。丸みを帯びた顔に、くっきりとした目が印象的で、きれいよりも可愛いという言葉が似合う。


「朝っぱらから年下の女の子を口説くなんて、あんたも大胆だね」


 カウンターの奥のドアが開き、店主のシンディーが顔を出した。舞とは打って変わって、しおれたレタスのような顔をしている彼女は、今年で六十八歳になる。年の割に背はしっかりと伸びており、真っ白になった頭髪は後ろでまとめられていた。一九六〇年、当時ロンドンに住んでいたブライアンによって建てられたこのパン屋に、シンディは友人として出資していた。ブライアンとアミーリアが亡くなってからは、ここの店主を継いでいる。カーティスは毎週日曜日、お客様として足を運び、金を落としては、簡単なパトロールをするのが習慣になっていた。


「そんなつもりはないって」


「どうだかねえ。それはいいとして。今日も買っていくんだろう」


「ああ」


「貧相な食卓に少しでも花を添えてやりな」


「冷凍保存してもいいですけど、あまり買い込まないでくださいね」


 舞が言った。

 ここでパンを大量に買い込んで冷蔵庫に放り込み、少しずつ食うのはどうかと考えたこともあった。冷やして保存すること自体は大丈夫なようだが、グロヴナーベーカリーのパンは生産数が少ない代わりに防腐剤を使っていないので、日持ちしない。一ヶ月分買うとシンディーに冗談交じりで話したら、怒鳴られたのを思い出す。


「選ぶならとっとと選びな」


 ドアが開いて一組の男女が入って来た。ケンジントン公園かハイド・パークでピクニックでもするのだろう。「いらっしゃいませ」と言いつつ頭を下げた舞に、ふたりは笑顔で答えた。日本流のおもてなしに驚かないのは常連だからか。

 カーティスは入口付近に積まれていたトレイとトングを持つと、ふたりに続いた。パンの香ばしい臭いに吸い寄せられるように、トングで適当なパンをつかみながら、棚に沿って歩いていく。


「私が前に言ったこと、忘れたわけじゃないだろうね」


 舞の隣に立ったままのシンディーが言った。

 カウンターに置かれたトレイには、パンが十個乗っている。


「んなわけないだろ。一日で食べる」


 舞が勘定を済ませ、パンを詰めた白いビニール袋をカーティスに差し出す。彼は受け取ると、店を出た。

 最近はロンドンも物騒だ。いつどこでなにが起こるか、わかったもんじゃない。

 ビニール袋を引っ提げながら、カーティスは周囲を歩き始めた。

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