第二部 十二 2017年5月17日
『珍しいな、こんな時間に電話してくるなんて』
カーティスは慌てて言葉を取り繕った。
『ごめんなさい、電話しようか迷ってたら、いつの間にかこんな時間になっちゃって……いま仕事中?』
『そんなところだ。でも問題ない』
アレクシアの声は重々しかった。
『パブであなたの話を訊いていたときね、思ったの』
『なにを』
カーティスはグリップを握り直した。トリガーに引っかけている人差し指に、冷たい感触が伝わってくる。オンブバッタの親子が、L115A3の銃身の上を悠々と跳び越えていった。
『私、もっと言えることがあるんじゃないかって』
アレクシアはわずかに息を吸うと、
『生きることを諦めないで』
突き刺すような感覚が体を走った。
『交通事故で入院したあなたが、私の病室まで来たとき、包帯でぐるぐる巻きになった姿を見てびっくりした。でも、なにより驚いたのは、それじゃなくて……その、あなたがちっともつらそうじゃなかったこと』
『つらそうじゃなかった?』
『まるでその状況を楽しんでいるみたいな……そんなつもりなかったならごめんなさい』
アレクシアは続けた。
『戦争から帰ってきて、いまの警備会社で働くまでになにがあったのかは、まだ訊いてないよね』
『ああ』
『警備会社にいるのって、その、昔を忘れられないから?』
アレクシアはカーティスの嘘をまだ信じていた。だが、言葉の端々は、事実に手が届こうとしていた。
どう答えればいいのか、彼は戸惑っていた。言葉が頭につぎつぎと浮かんではくるが、いずれもその場しのぎの言い訳ばかりで、口に出ない。一歩踏み込んできた彼女の勇気を、安易な言葉で踏みにじりたくはなかった。
『……かもしれない』
『それはきっと、あなたが自分の目指した生き方を求め続けているからだと思う。だって、命懸けの戦いから帰ってきて、過去に苦しんで、それでも人を守る仕事を続けてるんだもの。生きていたら頑張れるって、あなたは信じてる』
目にこみ上げてくる熱いものを、抑えきれなかった。
『ありがとう。少し楽になった気がするよ』
『ええ、どういたしまして』
『そろそろ切るよ』
『じゃあ、またね』
『また』
『……泣いてるの?』
※
カーティスは呼吸を整え、灌木のなかへ押し入り、限界まで銃身を押し出した。風はそよいでいる程度だが、一・五キロメートルさきともなれば大きな障害になる。
<風の方角と速度を>
<北北西二・二メートル>
ブレンドンが言った。
カーティスはスコープの目盛りを調節した。ヒューズを最後に見た牧場の倉庫周辺に照準を合わせる。試し撃ちをする余裕はない。機は一度しか訪れないだろう。日が昇り、周囲の木々には影が伸び始めた。
体は小刻みに震えていた。死の恐怖だった。脇でも後ろからでもなく、正面から向き合うのは、久しぶりだった。
気持ちは不思議と落ち着いていた。呼吸を整え、胸中で自分を必死に勇気づけた。すると、震えは止まった。カーティスとヒューズ、どちらが死ぬかは、刹那に懸けられている。
グリップをつかむ手に力がこもった。トリガーを押し込み、遊びの限界ギリギリまで引き絞る。体中の神経を両手と目に集中させた。風を受けてこすれる葉音が、いままで以上に大きく訊こえた。
屋根で動きがあった。
ヒューズの行動は素早く、瞬く間にこちらに銃口を向けていた。これまでのカーティスの射撃から位置を予測していたのだろう。マクミランTAC-50のスコープが朝日を反射している。
ヒューズもカーティスも引き金を引いた。カーティスはスコープのさきから、凄まじい発火炎を見た。射撃は、ほぼ同時のように思えた。
カーティスは時間が止まったかのような感覚にとらわれた。顔を撫でる風も、照り付ける陽の光も、小鳥の鳴き声も、すべてが止まり、このまま永遠に続くのではないかと思える。静かであった。一瞬のうちに最高潮に達し、そして鎮まっていく緊張が引き起こした錯覚なのだろうか。
激痛がカーティスを現実に引き戻した。耳障りな金属音とともに細かな破片となった狙撃銃が後方へ吹き飛んだかと思うと、鮮血がほとばしり、新緑の地を赤く染めた。ギリースーツや戦闘服もろとも右後ろの肩の肉が抉られ、額と右の頬には深い切り傷ができていた。右耳に触れると、血がこびりついていた。
痛みにたまらず、呻いた。
歯を食いしばりながら、付近に転がっていたスコープを拾うと、カーティスは牧場の方角を覗き込んだ。体を動かしながら地面へ落ちていくヒューズを見た。
<大丈夫か!>
アーロンが声を荒げた。
<問題……ない>
カーティスは立ち上がった。身に着けていた装備を置くと、痛む体を引きずるようにして走った。ヒューズの仲間がどこに潜んでいるかなど、どうでもよかった。
マクシミリアン・ヒューズに会わなければならない、そんな気がしたのだ。
※
カーティスの放った弾丸は、ヒューズの左腕を吹き飛ばしていた。真っ赤な傷口からは血が止めどなく流れ、倉庫の裏に生い茂る草に、体を預けている。呼吸は浅かった。
無数の皺が刻まれている目尻がわずかに動き、カーティスは彼と目が合った。戦闘服を着ていても、貧相な体は隠せていなかった。頭髪は白くほとんど禿げ、頬は痩せこけている。目の隈は濃く、袖からのぞかせる右手は血管が浮きでいて、骨ばっていた。だが、狙撃銃はいまもその手に握られていた。
「見ろ」
ヒューズに倣い、カーティスは空を見上げた。東に見える太陽は人々や動植物の眠りを覚まし、幾度となく続けられてきた日の始まりを告げる。雲間から差し込む陽光はカーテンのようで、なにかを招いているように見えた。
「これほど静かだったのか……メッサーシュミットも、ストゥーカも、いないではないか」
空を飛んでいるのは鳥たちだけだった。両の翼を力強く広げ、揃って西へ飛んでいく。
ヒューズの目は、その美しく、静かな空を映していた。彼は七十年以上前の空を見ている。カーティスは、連綿と続く歴史を一時も逃さず見届けてきた、この空を見ている。空は、変わらなかった。
「きれいだ」
カーティスは頷いた。
「私が、ずっと求めていた空だ」
カーティスは頷いた。インカムに手を回し、無線の電源を切った。
「戦地から帰ってきて、ずっと悩んでいた。いったい、俺はなんのために戦ったんだと」
ヒューズは視線をカーティスにやった。
「祖父に教わった騎士道は、なかった。どれだけ戦っても、何人殺しても見つけられなかった。同僚に怒鳴られたときは逆上したが、あいつの言い分は正しかった。もう昔のことなんだと。だが、認めたくなかった。犯罪者と正々堂々戦って、祖父が教えてくれた道を示したかった。それで死んでもいいと思った。でも、生きなければ教えを実践できない。自分はなにがしたいんだか、わからなくなっていた」
ヒューズは小さく口を開いた。
「近くにあるから、答えは見つけにくい」
ヒューズは浅い息をくり返しながら、
「守りたい存在があったから、人を殺した。お前のように。いや、それだけじゃないな……生きたかったのだ、死にたく、なかった」
ヒューズの虚ろな視線に、カーティスは、過去を見透かされたように思った。
祖父の願いは、力を持たぬ人々を守る、その精神を貫くことにあった。周囲がどうであるかなど関係なかった。自分がそうあれば良かった。皺だらけの手で頭を撫でられた時、祖父の教えを守ると決めた。それで良かった。
「名は」
「カーティス・サカキバラ、イギリス陸軍大尉だ」
「友の名、覚えたぞ」
ヒューズは微笑んだ。
「大尉、戦争はどうなった。教えてくれないか」
ヒューズの顔に狂気はなかった。戦争への問いは、問いではなく、確認のように思えた。彼は、永い夢を見ていた。
少しばかり考えた後、カーティスは力強く言った。
「イギリスは勝ちました」
「そうか。そうだったな」
ヒューズ少佐は空を見上げた。
「今日は、ユニオンジャックがよく見える」
瞼がゆっくりと閉ざされた。眉間に刻まれた深い皺は、きれいに伸びていた。
インカムの電源を入れなおすと、直後に通信が入った。
<応答しろ!>
クライヴの声が訊こえた。
<生きてるよ>
<心配させないでくれ。そうだ、周囲をくまなく偵察したが、奴の仲間はまだ見つからない。引き続き、警戒してくれ>
<その必要はない>
<どうして>
カーティスはヒューズを見た。細い首にぶら下がっているドックタグは、三つあった。




