第二部 十一 2017年5月16日 21時5分
トロサックスを南下したカーティスは、デュークス・パスをさらに下った場所にある森林に身を潜めていた。L115A3のスコープで辺りをしばらく監視しては、水筒の水をひと口含んで休憩を取る。腕時計を見ると、時刻は二十一時五分を指していた。
<ドローンの偵察はどうだ>
耐えかね、カーティスが言った。
<まだ見つけられない。国立公園の面積が広すぎるのもあるが>
狙撃中を手に、カーティスは匍匐前進を始めた。顔に群がる草木を押しのけ、ヒューズのいた山岳地帯を目指す。
頂上から姿を消したということは、奴は少なくとも北へ行ったということだ。山岳地帯の南側にいれば攻撃を受ける可能性は低いが、撃たれてから後悔しても遅い。わずかな危険があるなら、警戒して動かなければならない。気の遠くなるような緩慢な動きで、カーティスは進み続けた。
つぎはどこで待ち構えているか、カーティスは考えた。グレイ・フィングラス貯水池の後方には雪を戴く山が連ねている。体力に自信があっても、わざわざここを走破するとは考えにくい。
高度と地形から、北東に位置するインバー ロックラリッグ辺りが怪しいと踏んでいた。カトリーン湖から北上すれば森が生い茂る渓谷がある。移動範囲が制限されるこの地形で、敵を狙撃するにはうってつけだった。
<カトリーン湖を北上し、インバー ロックラリッグに向かう>
<そこが怪しいんだな>
クライヴが言った。
<ああ>
罠が仕掛けられている可能性を考慮し、グレイ・フィングラス貯水池への北上は避け、現在地点からアバ―フォイル、キンロッカードを経由し、カトリーン湖を西側から回る。時刻は二十二時半。長らく戦場から離れていたカーティスだが、険しい地形を行く体はむしろ躍動していた。
カトリーン湖の西端に差し掛かり、カーティスはグレンガイルに走る道に沿って歩く。汗が滴る顔を風が冷ました。
<目標地点に接近>
インバー ロックラリッグの南にたどり着いたカーティスは、渓谷へと足を踏み入れた。
道を避け、右の森林に身を隠す。空気が張り詰めていくのを感じ取った。
銃声が訊こえた。さきほどよりも近い。十メートルほど左に生えていた木の幹に弾丸が命中した。渇いた着弾音とともに木の破片が辺りに散らばる。ヒューズが照準を合わせているのかもしれない。
カーティスは山を少し登って高さを確保した。手ごろな木の上で膝立ちになると、座り込み姿勢をとった。
スコープで覗いたさきには牧場があった。側を道が何本か走っている。ここを東に行けばモナチャイル、バルクヒダ―で、幹線道路に出る。
スリングを左腕に巻き付け、銃を固定した。
長距離での狙撃が基本の銃は、フリーフローティングバレルと呼ばれる機構が鉄則である。ほんのわずかなブレでも、着弾点は数センチほどずれてしまうため、銃身にかかる影響を少しでも削らなければならない。そのため、狙撃銃の銃身は、ほかの部品と隣接することはなく、浮いている。木材やコンクリートなど、構造や材質、質量の違う物体に銃身を置けば、弾道にどれほどの影響が出るか予測しきれない。
<通信を傍受>
キャロルからやや上ずった声が訊こえた。
<よし、つないでくれ>
カーティスはインカムから訊こえる音に耳を傾けた。ノイズのなかに、しわがれた声が響く。
≪安心しろ、クリフォード。つぎは仕留めるさ≫
仲間がいるのか? カーティスは眉をひそめた。
≪奴は南か西のどちらかから来る。どちらだろうと構わんが≫
声は途切れた。
<電波を見失ったみたい。でも、あなたの予想通り、標的はインバー ロックラリッグにいるわ>
カーティスは深く深呼吸した。夜も更けていた。虫たちの透き通った鳴き声だけが響いていた。
<ヒューズと通信はできるか>
<傍受すればできるだろうけど>
<つぎ傍受したら奴とつないでくれ>
<カーティス、またお前は>
諫めようとしたクライヴをカーティスが制した。
<奴と話せば、情報を訊きだせるかもしれない。位置情報も割り出せる。それより、クリフォードとかいう奴のことが気になる。ドローンで俺の周囲を偵察してくれるか>
カーティスはスコープを再び覗き込んで索敵を再開する。森林や奥の牧場をくまなく探した。
一・五キロほどさき、牧場の倉庫の屋根でなにかが光った。
スコープの反射光だ。
照準を合わせて引き金を引いた。だが、銃弾が迷彩服の男を貫くことはなかった。すぐ左の雑木林が大きく揺れる。即座に木を降りると、お返しと言わんばかりに弾丸がカーティスのいた場所を通過した。
カーティスは中腰で走り、近くに生えていた木の幹に隠れた。
<カーティス、通信を傍受したわ>
荒れた息を整えたカーティスは、
<よし……つないでくれ>
再びインカムに左手を押し付けた。ノイズが消えたのを見計らって語り掛けた。
≪マクシミリアン・ヒューズ少佐だな≫
≪誰だ?≫
しわがれた、だが力強い声だった。カーティスは気圧された。
≪……さきほどお前が殺そうとした男だ≫
≪見上げた度胸だ。流暢な英語だが、降伏でもするつもりか。そうはいかん。お前たちドイツ軍をこの国から一掃するまで、私は戦い続ける。ついこの前も、お前のとこの斥候部隊を撃ち殺してやった
彼はいま一九四〇年代にいる。ブリーフィングで配られた書類を思い出した。
≪……ドイツ軍は必ずこの国を占領する。俺ひとりになってもな≫
ヒューズは高らかに笑った。世界大戦を生き抜いた兵士の、圧倒的な自信の表れだった。
≪人はそれを蛮勇と呼ぶ。ダンケルクを見ただろう。時には退くのも戦術だ≫
≪俺に帰る場所はない≫
≪たしかにな。お前ひとりのためにドイツ軍が軍艦を寄こすとも思えん。不本意ではあるが、私はアメリカから支援を受けている。準備は万全だ。絶体絶命のお前に、私を殺せるか≫
※
クライヴたちからの情報では、牧場からヒューズは動いていないとのことだった。ここで決着をつけるつもりなのだろう。カーティスも、ここから動き出そうとは考えなかった。下手に動いて撃たれるよりは、持久戦に持ち込んだほうが分がいい。
カーティスは伏せた状態で、牧場の倉庫に向けて発砲した。倉庫の側に積み上げられていた干し草が四散した。その場から右へ三十メートルほど離れると、すぐ体勢を整える。致命弾を当てるつもりはない。ヒューズにプレッシャーをかけられればいい。俺はいつでもお前を殺せると。
牧場側から反撃があった。弾はカーティスのいた場所から大きく逸れて、地面に吸い込まれた。
≪そんなものか、ドイツ人≫
インカムから訊こえた声にカーティスは驚いた。もはや隠す気はないらしい。
≪お前こそ、さきほどから見当違いの方向を撃ってるぞ≫
≪最後に勝てばいい。結果がすべてだ≫
カーティスは狙撃銃に装着されていたサーマルスコープを取り外した。夜間での狙撃に適しているのは間違いない。が、周囲の野生動物など熱を帯びた物も白く表示してしまう。敵がひしめく戦場なら気にすることでもないが、いまは一発の銃弾が生死をわける。自分の目に頼るのがいちばんだ。ちょうど夜目も慣れていた。
貯水池付近のかんしゃく玉といい、さきほどの反撃といい、ヒューズは周囲の変化を手掛かりに撃っている。ヒューズも、狙撃銃には最低限の装備しかつけていないのだろう。
太陽がこの公園を照らし出す瞬間が勝負になる。暗闇が掃われ、互いの姿がさらけ出されるとき。
カーティスは草むらを這っていき、森の先端部までたどり着いた。月の光が前方の開けた平地と、ヒューズが身を潜めている牧場を青白く照らした。スコープが反射しないよう銃の位置を調整し、近くに生えていた灌木に身を寄せた。
ヒューズの狙撃の腕前はよく知っている。わずかな誤りがあれば殺される。いや、全力を出したところで返り討ちになるかもしれない。彼の射撃に老いは感じなかった。
生と死の狭間を右往左往し、カーティスは漠然とした日々を淡々と過ごしてきた。理想を追いかける少年と、戦場に打ちひしがれてた大人が、いまもカーティスの両腕を引っ張り続けている。
二〇〇四年のあの日。
――あんたの本能は、現代の戦争の現実をわかっている。だが、くだらねえ矜持がそれを否定している。
マクシミリアン・ヒューズは、狂気に身を落としながら、この国のために戦っている。一方の自分は、死に苛まれながら生きている。この溝を、埋められるのか。
※
依然として敵に動きはない。クライヴの報告によれば、クリフォードは見つかっていないという。
カフェイン入りのガムを噛んで眠気を払いのけながら、カーティスはL115A3のスコープを覗いていた。数時間前とまるで変化がない。風にそよぐ木々が背後に映っていなければ、静止画と言われても違和感がない。
同じ姿勢で何時間も微動だにしていなかったため、小便もその場で済ませていた。饐えた臭いがわずかに鼻を突くが、イラク戦争では珍しいことでもなかった。便所に行った自分のせいで味方が危機に及ぶと思えば、多少の羞恥心など消し飛ぶものだ。
≪ダン、水筒を取ってくれ。ありがとう≫
クリフォードのつぎはダンか。しかも側にいるようだ。奴には、偵察要員のクリフォード、そして観測手のダンもいることになる。
<訊いたか>
<ああ。僕らのほうで引き続き情報収集は行う。お前はこれまで通り集中してくれ>
<くれぐれも、ドローンを奴に近づけるなよ>
カーティスは東を見た。ドーバー海峡の彼方に広がる空が、わずかに白んでいる。
明け方だ。
極度の緊張に、胸が高鳴った。この状況、ヒューズの力量、自分が戦う意味が、重圧となってのしかかった。震える手を抑えながら、彼はストックに当てていた頬の位置を調整し、バイポッドが固定されていることを確認した。大きく深呼吸し、ガムを飲み込む。
日が昇るには少し時間がある。最後の小休止を取り、カーティスは覚悟を決めた。
自分が死んだら、口座に振り込まれている預金のすべて、そして遺書を両親に送るよう手筈を整えてある。
遺書には、すべてが記されている。
心臓の鼓動は、カーティスの思いに反して激しさを増していく。それは生きるための活力を与えているのか、緊張感をもたらしているのか、わからなかった。
突如、スマートフォンが入っているポケットが振動した。
いったい誰からだ。
スコープからは目を離さず、引き金にも手をかけたまま、彼は左手でスマートフォンを取り出した。連絡相手も見ずに通話ボタンを押す。
「もしもし」
「こんばんは、カーティス。おはようかしら? アレクシアだけど」




