第一部 ニ
カーテンの隙間から差し込む陽射しで、カーティスは目が覚めた。ぼさぼさの黒髪を放って掛け布団を畳み、洗面所に向かう。リビングに行くと、ソファーに腰かけてテレビの電源を入れた。四十二インチの画面では、BBCの男性記者がマイクを手に話していた。背後に見える壁は、サウジアラビアとイラクの国境だろう。
『イラクで再びテロが起こりました。直後、テロ組織による犯行声明が出されたとのことです。イラク戦争でフセイン政権が打倒されて以来、政情が安定せず、国民たちは不安な毎日を送っています……』
伸びた顎髭を丁寧に整えて顔を洗い、日課のトレーニングを済ませると、身支度をしてリビングに戻った。テレビの隣に置かれた木製の棚から護身用の拳銃を取り出し、ショルダーホルスターに収めた。
玄関のドアを開けると、ちょうど昇り始めていた朝日が、カーティスを照らした。
高級住宅街が立ち並ぶノッティングヒル地区の一角に、彼の家はあった。カーティス自身は大した金持ちでもなく、現在の自宅も政府に貸し与えられているに過ぎない。
彼の左手首には腕時計が巻かれていた。その腕時計は、戦地に行く前、クライヴの提案でカーティスが購入した。イギリス軍が古くから採用している腕時計メーカー・CWCのワンオフモデルである。時計の裏側にはレーザー刻印で「二十一/二/二〇〇三」と彫られていた。彼にとって、唯一の装飾品だった。
時刻は七時三十分を指していた。玄関の鍵を閉めて駐車場へ向かう。道すがら横切ったポート・ベロー通りには多くの露天が並び、陳列された商品を眺める人はさまざまだった。ここでは連日、マーケットが開かれていた。中世より始まったとされる、伝統あるマーケットである。
「カーティス、仕事か」
通りのいちばん手前の露店から顔を出した男性が声をかけた。無精ひげを蓄えた口がつり上がった。
「ああ」
「警備の仕事って、実入りいいのか」
「命をかける職業だからな。それなりだ」
「俺もやろうかなあ」
「オススメはしないぞ」
男は豪快に笑った。
「冗談だ。お前さんを見る限りじゃ、命がいくつあっても足らん。ここで商売してるほうがいい」
ジャガーに乗り込んだカーティスは、ホランド公園通りを出て東を目指す。目的地は、ウェストミンスター地区・イギリス内務省。車を走らせながら、歩道を歩く若い男女や家族連れを、窓越しに見つめた。
彼が過ごす日々は平日で、また休日でもあった。
◆◆
「――以上が、今回の報告内容となります」
目の前の椅子に座って机に頬杖を突いていたエドワード・レッドフィールド局長に、クライヴは昨晩発生した出来事を報告した。内容を訊き終えたエドワードはマグカップを手に取り、なみなみと注がれたコーヒーを一口含んだかと思うと、机に置いた。外では、朝の澄み切った空を鳥たちが元気よく飛び回り、可愛らしく鳴いている。
「またか」
エドワードはほとんど白くなったみずからの頭髪をかき上げた。垂れさがったふたつの目尻に、さらに深い皺が刻まれる。
「はい」
アメリカで四人の男を撲殺、その後イギリス国内に渡り五人の娼婦を強姦し殺した男、ウォルター・ウィリアムズは、パディントン地区の一角でカーティスによって殺された。二十三時頃である。死因は側頭部に撃ち込まれた四十五口径弾だが、腕や胴体には、多くの防御創が確認されている。元プロボクサーを相手に、カーティスは素手で戦った。
「あいつは大丈夫なのか」
「重い傷はありません。本人の希望もあり、病院内での治療は受けさせず、家まで送りました」
エドワードは大きなため息をついた。
そのあからさまな態度を見ても、クライヴは不快に思わなかった。国内に潜む重罪人を秘密裏に処理するため設立された重大犯罪対策チーム、その唯一の実行部隊員であるカーティスが、標的とフェアに戦うという常識外れの行為をくり返しているのだ。ウォルターの件は初めてではなかった。ロンドン警視庁上層部は報告書に目を通してはいるが、カーティスのやり方で仕損じたことはなく、黙認されているのが現状である。上は結果を見るだけだから気楽だが、こちらは彼を補助しなければならない。失敗すれば、首が飛ぶのはカーティスだけではない。
局長室のドアが勢いよくノックされた。
「局長、俺です」
「入れ」
ドアが勢いよく開かれると、灰色のジャケットを着たカーティスが入ってきた。顎髭は唇の真下で短く切り揃えられ、黒い短髪はラフに後ろへ流れている。
「よう、クライヴ」
カーティスが言った。
「ああ」
「ふたりとも、とりあえず座ったらどうだ」
ふたりは机の前に置かれた二対のソファーにそれぞれ腰かけた。クライヴは淹れたコーヒーを口にしながら、エドワード局長の部屋を見渡した。左の壁には、ロンドン全域を記した地図が張られている。右の棚には本がところせましと並べられており、警察や法律関係のほかに、エドワードが持ち込んだであろう、ミステリーやアクションものの小説が隅に集まっている。作業机には、SCO0の職員の集合写真が立てかけられていた。写真のなかの面々はみな、いまより少しだけ若かった。
イギリス内務省にSCO0が設立されてから五年が経つ。手にかけてきた対象は十三人。いずれも重罪人であり、警察が表立って動きにくい者が選ばれやすい傾向にあった。今回の標的となったアメリカ人のウォルター・ウィリアムズは、連邦捜査局の要請によってリストに加えられた。
仕事が不定期ということもあり、SCO0の職員は、本来の所属先を兼ねている。エドワードはロンドン警視庁の刑事管理官、クライヴは重大組織犯罪局、彼の部下も同様だった。カーティスは形だけとは言え、国内の警備会社に籍を置いている。
SCO0には、誰もいないのである。
「ひとまず、無事でなによりだ」
エドワードが言った。
「ありがとうございます」
「つぎの仕事は未定だ。なにかあれば追って伝える」
「わかりました」
エドワードはカーティスのやり方に異論を挟むつもりはないようだった。
最初の仕事をこなしたとき、自分はもちろん、エドワードも、三人の部下も、現場を見たときはえらく驚いた。最初の標的だったフェルディナンド・ダーマーの両手には、二本のコンバットナイフが握られていた。武装しているという事前情報はなかった。
渡したのはカーティスだった。ダーマーが元曲芸師で、ナイフの扱いに長けているという、それだけの理由で。正々堂々戦う、それだけのために。本人がそう言ったのだから間違いない。
正面でエドワードと談笑するカーティスをクライヴは見つめていた。ダーマーのときと比べたら、今回はよかったかもしれないと思いそうになる思考を必死で振り払った。
エドワードとカーティスの談笑は、クライヴも巻き込み一時間続いた。この前見た映画だの、気に入ったバンドの曲、レストランの美味かった料理など。およそ殺しに関わる人間たちが話すような内容とはかけ離れているが、それこそ、カーティスたちに必要なものだった。
「ふたりとも、朝飯は食ったか」
「はい」とカーティスは答えた。クライヴも同じだった。
「そうか、まあ、たまには二度朝食を取るのもいいだろう」
不満げに顔をしかめたふたりを連れて、エドワードはジャケットを羽織って執務室を出た。