第一部 一
吹き付ける雨にうんざりしながら、クライヴ・エインズワースは骨ばった両手を回してハンドルを右にきった。ヴィクトリア・エンバンクメント公園に沿って伸びる道路を走り、照明に照らされたビッグ・ベンでも見ようと思ったが、そんな気は失せた。ワイパーの動作音が、静かな車内に響く。
<こちら1-2。周囲に異常なし>
計器板の下に設置されていた無線機を取り出し、クライヴはつぶやいた。今回は範囲が広い。ここまで来るとは思えないが、念には念を入れておくべきだ。
クライヴは車を道路の脇に停め、車窓を半分開けた。ウェストミンスターの冷えた空気が顔に当たり、溜まっていた眠気を霧散させていく。車窓を閉め切ると、助手席に置いてある水筒を手に取った。ぬるくなった紅茶を蓋に注ぎ、少し飲んだ。水筒を助手席に置き、再び車を走らせた。
閑散としたトラファルガー広場に差し掛かると、無線機から男の声が訊こえてきた。
<こちら1-3、周囲に異常なし>
異常なし。
クライヴは安心感を覚えている自分に失笑した。最初はあれほど反発していたのに、気づけば慣れている。それだけ信頼を寄せていることの裏返しでもあるのだが、いつまで経っても、この緊張感は消えない。
<こちら1-4、周囲に異常なし>
<こちら1-1、じきに終わる。各員、備えろ>
徐行し辺りを見回すと、広場の一角のベンチに、傘を差した少年が腰かけていた。赤と白色をした、チェック柄の長袖のシャツ、群青色のジーンズに身を包む彼の顔は、夜にも拘わらず、ひと際暗く沈んでいた。車のエンジン音に気付いたのか、顔を上げ、こちらを見た。
<1-2より1-1へ。少し時間を>
<どうした>
<トラファルガー広場に子どもがいます>
<家まで送ってやれ。急げよ>
<了解>
クライヴは傘を手に取ると、運転席を出て彼のもとへ歩いていった。
「重大組織犯罪局のクライヴ・エインズワース警部だ。隣に座ってもいいかな」
警察手帳を見せながら言った。
「いいよ」
「ありがとう」
左手で何回か払いって、びしょ濡れのベンチに腰かけた。
「どうしてここに?」
「お母さんに怒られた」
「いつから」
「夕方。テムズ川を見たり、近くを見て回ってた」
トラファルガー広場から南に行けばテムズ川がある。周囲には、ビッグ・ベンに、ウェストミンスター寺院、バッキンガム宮殿、セント・ジェームズ公園。ウェストミンスター地区は、暇つぶしに打ってつけだった。
「……宿題、するの面倒くさくて」
クライヴは笑った。
「宿題はやったほうがいいぞ」
「お母さんと同じこと言ってる」
「面倒くさがってやらなかった結果、最後には後悔するんだよ」
「それも訊いた」
「何を隠そう、僕も後悔してる」
「お巡りさんなのに」
「お巡りさんとして働きながら、いまもいろんなことを勉強してるんだ。社会のこと、マナーのこととか。うまくいかないことなんて、いくらでもあるよ。むしろ、大人になってからのほうが多いかも」
クライヴはあどけない表情でこちらを見つめている少年を見た。
「正義の味方なのに、なんか意外」
「だろう?」
◆◆
カーティス・サカキバラは痣だらけの両手を構えた。まくられた袖から覗かせる腕は太く、たくましかった。
「この気違い野郎……!」
路地の行き止まり。ウォルター・ウィリアムズは震える声でつぶやいた。口から流れた血が、すでに描かれた軌跡を沿って顎を伝わったかと思うと、地面へ落ちる。それもたちまち雨に還った。
カーティスはウォルターの怒声など気にしていない。街灯のもと、テンガロンハットの下にできた影は黒い絵の具で塗りたくったように濃く、黒いマスクを被っているように見える。夜に溶け込む革張りのジャケットは雨を受け流し、彼の体を縁取っていた。
暗闇からなにかが姿をのぞかせた。髭だった。笑ったことで口角ともにつり上がった顎の髭が、街灯に照らされたのだ。脇のホルスターに収まっているM1911A1が光る。
挑発的なカーティスの表情は、ウォルターを激昂させるには十分だった。血走った目のウォルターは脇を絞め、両腕を前に構えたかと思うと、雨粒に弾けるアスファルトの大地でステップを始めた。カーティスも続く。ふたりは円を描きながら距離を詰めていった。距離が一メートルほどになるや否や、ウォルターのジャブが、発砲時の拳銃のスライドのような速度で放たれる。だが、カーティスの左の頬骨を狙っていた拳は空振りに終わった。並外れた反射神経を持っているわけではない。カーティスの目は、ジャケットの裏で膨らんだ、ウォルターの筋肉を捉えていた。
「そんなものか、チャンピオン」
カーティスはにやけ顔で言った。
「言ってくれるじゃねえか」
怒りをあらわにする反面、ウォルターの顔には活気が宿っているように見えた。
ジャブを右に躱したカーティスに、ウォルターはすかさず左フックを浴びせた。カーティスの胴体に衝撃が走る。彼はかすかなうめき声こそ上げたが、怯まなかった。カーティスはウォルターの左腕をつかんだかと思うと、渾身の力で引き込んだ。彼の体勢が崩れる。カーティスは固く握りしめた左の拳を、ウォルターの鳩尾を叩き込んだ。続けざまにウォルターの胸倉とベルトをつかみ、地面に投げつける。アスファルトの大地に鈍い音が響く。
「おお」とわずかな絶叫とともに、筋肉質の巨体は地面に沈んだ。雨音が激しさを増す。気を失ったウォルターを見て、カーティスはショルダーホルスターから抜いた得物にサプレッサーを装着した。
体中に響く鈍痛を感じながら、カーティスはウォルターを見た。リングで客から喝采を受けていた頃の面影はなかった。
引き金を引いた。乾いた音とともに発射された弾丸は、ウォルターの側頭部に深く食い込んだ。水浸しの地面を鮮血が覆っていく。地面を跳ねる雨の中に薬莢の音が混じり、そして消えた。
深呼吸したカーティスは、近くに置いてあったゴミ箱に腰かけた。かすかな駆動音が聞こえたので頭上を見上げると、小さなドローンが飛んでいた。四つのプロペラを回転させ、ロンドンの空を滑っている。
スマートフォンでネットサーフィンをしていると、表通りに一台の車が止まった。カーティスの目に映ったのは、警察仕様に改造された、ミツビシのランサーエボリューション。運転席が開き、灰色の上等なスーツを着た男が出てきた。傘を差して、こちらへ近づいてくる。スマートフォンで時計を覗き込むと、あれから十分が過ぎていた。
「遅かったな」
「悪い。家出少年を家まで送ってた」
「警部はお優しい」
クライヴはカーティスの背後に視線を移した。とたんに顔をしかめる。
「懲りないな」
「重要なのは結果だろう」
クライブとともに、カーティスは痣だらけとなった死体を見下ろした。
「部下が待機してる。呼んで大丈夫か」
「ああ」と答えると、クライヴはスマートフォンで通話を始めた。
カーティスはポケットに手を突っ込みながら、ウォルターと戦った場所を見回した。朝になれば、ここは本来の姿を取り戻す。勤務先の職員の手によりゴミが積まれ、通勤で人が行き交う。野良猫も通るだろう。
「帰るか」
「そうだな」
カーティスとクライヴは通りに出るため踵を返す。道中、イギリス警察お馴染みの黄緑色の上着を着た、ふたりの警察官とすれ違った。クライブの車に乗り込もうと助手席のドアを開けたとき、前方から婦警が歩いてきた。
「キャロル、頼んだぞ」
カーティスは言った。
キャロルと呼ばれた女は茶色の髪を揺らしながら彼を見た。大きな目と、目が合った。
「いつか上からどやされるよ」
「そう言って、何年だ」
呆れ顔のキャロル・アップルヤードを尻目に、カーティスは助手席に座った。車がエンジン音を上げ、道を走る。喉が渇いた彼は後部座席に置いてあった水筒に手を伸ばした。外した蓋に向けて傾けてみたが、中身は一滴も落ちてこなかった。