いい子でいたいの
「誰か学級委員長に立候補する人はいませんか」
今、決まったばかりの副委員長が声をかける。だが、教室の中の誰一人手を挙げることはなかった。
「推薦でもいいんですけど……」
白けた空気の中、悲しげに副委員長の声が教室中に響く。しんと静まり返り、皆顔を下に向けていた。
無理もない。今年、高校3年生になる私達は受験が控えているのだ。学校の委員会なんて、煩わしいことをしている暇はない。誰もがそう考え、他の誰かが委員長に立候補する時を待っていた。
だがその空気の中、一人だけ恐る恐る手を挙げた。
「じゃあ、宮田さんを推薦したいと思います」
クラスの中の目立つ女子グループの一人、前川さんだった。
「宮田さん、しっかりしてるし、前のクラスでも学級委員だったから適任じゃないかなと思って」
そう、私を持ち上げるように前川さんは言う。
「そうだね、宮田さん頭もいいし」
他のクラスメイトもつられるように、私が学級委員長にふさわしいと言い出した。
「そうかな、私なんて……」
私は舞い上がる気持ちを押さえ、謙虚にそう言ってみた。
「いやいや、よく考えたら宮田さん以外ありえないっしょ」
お調子者の永山くんが、そうはやし立てた。
教室中がもう、私が学級委員になるしかないムードになった頃、先生が言った。
「もし宮田がよければ学級委員、やってみるか? まあ宮田は去年も学級委員やったし、先生としては他の誰かにやってもらいたかったんだけどな」
そう言いながらも先生が心底ホッとしていることを、私は知っている。
「私なんかで良ければ、やってみたいと思います」
私は、前川さんが推薦してくれた瞬間に頭に浮かんでいたセリフを言った。
先生は、
「じゃあ他にやりたい人がいないなら、宮田にやってもらうけど、いいよな?」
と他の生徒達に確認を取った。
「いいでーす」
満場一致で、私に学級委員が決まった。
私は望み通りの結果になり、嬉しくて仕方がなかった。
これで、今年もお母さんに「私、学級委員長になったよ」って言える。
そしたらお母さんが近所の奥さん達に自慢して、「千代子ちゃんは本当によくできた娘さんね」って言ってもらえる。
本当は学級委員をやりたくて仕方がなかった。でも、誰も手を挙げていないのに立候補するのは、ただの「出しゃばり」になってしまう。
あくまで誰かが立候補してくれる形で委員長になりたかった。
そのために日頃、「しっかり者の宮田さん」をやっていて、本当によかった。
「千代ちゃん、数学の宿題やってきた?」
友人のカナコちゃんがそう聞いてきた。
「ああ、ドリルの? うん、やってきたよ」
「本当にごめん、悪いんだけど宿題見せてくれない?」
カナコちゃんが両手を合わせ、頭を下げる。
「昨日、夕方遅くまで部活やっていて、全然できなかったの。 ホント、悪いんだけどさ」
言い訳混じりで、申し訳なさそうに言う。
「いいよ、宿題ぐらい。 部活、忙しいもんね」
そう言って私は嫌な顔一つせず、解答済みのドリルを渡した。
「えーいいの? マジありがとう! なんかごめんね、せっかく一生懸命やってきたのに」
「ううん、気にしないで。 ホラ、早く写さないと先生来ちゃうよ」
ニッコリ笑えば、カナコちゃんはまるで女神を見たかのようにパアアと明るくなり、「ありがとう ありがとう」と繰り返した。
昨日、寝る時間を削って解いた問題を、カナコちゃんは簡単に写していく。
私はそれを、流れ作業を眺めるように見つめていた。
放課後になると、今年最初の委員会が四時から始まることになっていた。
それまで三十分ぐらいは時間があったので、始まるまでどこかでゆっくり読書をしようと、教室を出た時だった。
「あ、いたいた宮田さん」
前川さんだった。
「ねぇ宮田さん、私これからすぐに茶道の習い事に行かなきゃならないんだけど……もし宮田さん掃除当番なければ、代わってくれないかな? あの、もしダメだったらいいんだけど……」
遠慮がちに言ってはいるが、どう考えても私に代わってもらいたくて仕方がないと言ったところだろう。それにしても、他に掃除当番じゃない人はたくさんいるのに、何故私なのだろうか。
「うん、いいよ。 ちょうど用事もなかったところだし」
でも、断る理由もない。
しいて言えば三十分後に委員会が始まってしまうのだが、三十分以内にはさすがに掃除も終わるだろう。
「本当!? ありがとう、助かったー。 このお礼は今度必ずするからね!」
「いいよ、お礼なんて。 早く茶道行ってきなよ」
そう、笑顔で言うと、前川さんは
「あ、ヤバい遅刻する! じゃあ申し訳ないけど、行ってくるわ」
と言って、教室の出口に向かって走って行った。
出口近くまで来ると、前川さんはくるりとこちらを向いて、
「宮田さんって、ホントいい人だよね!」
と言った。
思っていた通り、掃除は早く終わった。掃除が終わると、班の代表が担任の先生に報告しに行かなくてはならない。
ところが、班の代表である永山くんがどこかにいなくなってしまったのだ。
他の班員達が口々に、どうするべきか考えあぐねていた。
「まあべつに永山がいなくても、他の人が先生のところに行けばいいんじゃね?」
「でも、永山くんが行かないと先生が変に思うかもしれないじゃない」
「そんなのいなくなったアイツが悪いし、オレらには関係ないじゃん」
永山くんが行った方がいい派と、べつに行かなくてもいい派で分かれ、何やら一悶着起こりそうな雰囲気になってきた。
私は無駄な争いが好きではない。
争うということは、どちらかの派閥につかなければならないからだ。そうなると、どちらかの敵になってしまう。
私はどんな時も、中立の立場でありたかった。
「それじゃ、私永山くん探してくるね」
この場合、本人を探してくるのが一番の解決策に違いない。そう思い、私は言うや否や、すぐに教室を飛び出して永山くんを探しに行った。
私は学校中を駆け回ったが、永山くんらしき人を見つけることができなかった。
時計を見ると、もう委員会開始まで残り五分をきっている。
「もう帰っちゃったのかな……」
途方に暮れていると、後ろから誰かが声をかけた。
「千代子、何してんの」
私の彼氏、キョウヤだった。
「あ! キョウヤ……うちのクラスの永山くん、見かけなかった?」
私は走り回っていたため、ぜいぜいと息を切らしながら、キョウヤに尋ねた。
「永山? 二組で友達としゃべってたみたいだけど。 てかなんでお前、そんなにゼーゼー言ってんの?」
キョウヤがそう聞いてきたけれど、急いでいるからと言い、私は再び階段を駆け上がった。
二組は、私の隣のクラスである。
教室に戻ると、もう誰もいなかった。
すっかり掃除が済み、キレイに並べられた机には、窓からの夕日が照らされている。
私は気が抜けて、ヘナヘナと教室の壁に寄り掛かった。
「なんだ、終わっていたのか……」
ハア、と溜息をついた。もう委員会が始まってしまう。また、階段を下の階まで降りていかなくてはならない。
私は走りすぎて疲れた足を、ヨタヨタさせながらも歩いて行った。
私の何がここまでさせるのだろう。
時々そんな疑問が頭に浮かんでは、考えないように打ち消している。
その理由がわかってしまうと、私の今まで積み重ねてきたものが台無しになってしまうようで、無意識に抑え込んでいる気持ち。
夜、キョウヤと電話して、今日あったことをいろいろ話した。
私が今、一番心開けるのはキョウヤだからだ。キョウヤは、私の話をよく聞いてくれた。
「それは、お前が悪いよ」
「…………え?」
一連の出来事を話し、同情してくれるかと思ったら、キョウヤからは意外な返しが来た。
「だってお前、ヘンだよ。 みんながやりたがらないことをやろうとしたり、自分が苦労してやった宿題を見せたり、掃除代わってやったりさぁ。 おまけに掃除当番の班員でもないのに必死で永山を探してたのかよ。 逆に聞くけど、なんでお前ってそこまで頑張るの?」
「………………それは……」
自分でもよくわからなかった。ただ、何か困ったことがあると、自分に責任が降りかかってくることが恐くて。後になって、「お前のせいだ!」と責められるのが恐くて。その思いの内を、キョウヤに言ってみた。すると、
「はぁ? なんで誰も千代子を責めてないのに、そう考えるの? 責められてから考えればいいじゃん」
と言う。
キョウヤは何もわかっていない。責められてからでは遅いのだ。
自分が何かやったことで、自分が悪いことをしたと言われるのは我慢ならない。
私はその後、キョウヤの言ったことに納得できないまま、ベッドの中で悶々と「お前が悪いよ」を繰り返していた。
とにかく私は「悪い」と一度言われると、ものすごくいたたまれない気持ちになる。悪いことは罪だ。私は何も悪いことをしていない。
悪い人だと、思われたくない。
でも何故かいつも空回りしている。どうしてなのか、わからない。
次の日の放課後、部活が休みのカナコちゃんと、委員会が休みの私は近所のファミレスでおしゃべりをしていた。
「ほら、吉住さんってさぁ男子の前ではブリッコするじゃん?」
カナコちゃんは吉住さんのことを悪く言っていた
「吉住さんってさぁ、友達から借りたノート、試験前ギリギリまで返さなくて。 しかも他の人に勝手に又貸ししてたことが判明して」
私はうなずきながら、カナコちゃんの話を聞いていた。カナコちゃんは、吉住さんの悪行とその周りへの影響を、私に同情させようとしていた。
一通り話終えると、カナコちゃんは小首を傾げながら、私の顔を見た。
「………………ん?」
「え、どうしたのカナコちゃん」
「いや、私の話、聞いてるよね?」
「ちゃんと聞いてるよ」
「あの……なんか、思うことない?」
そう、カナコちゃんは困ったように言う。でもカナコちゃんのご期待に添えそうにない。
私は昔から、人の悪口を言うのが好きじゃないからだ。
女同士で話していると、たまに白けてくる瞬間がある。
趣味に合わない洋服を褒め合ったり、興味のない彼氏とのノロケを聞かされたり、他の女の子の悪口を言って盛り上がったり。
でも、そういう建前の友情しか築けないのは、私が建前で塗り固められた人間に他ならない。
女同士でも、自分が「女」である必要のない友情はあるのだ。
カナコちゃんと会った次の日、私は自宅で夕飯を食べていた。うちは父の帰りが遅いので、母と二人で夕飯を済ませることが多かった。
父は若くして、一流企業の部長クラスで高給取り。だから母の昔からの夢だった、高級住宅街で庭付き大きな一戸建てに暮らしている。
私も将来は、父のコネで就職が決まっているらしい。
「ねぇ、千代子。 そろそろ進路のこと、学校に提出しなきゃならないんじゃない?」
母はいつも私以上に、私の進路を気にしている。
「うん。 R大学の歴史学科にしようかと思うんだけど……どうかな?」
私は何か新しい事を決める時、必ず母に尋ねるように相談する。
「お母さんはS大学がいいと思うの。 S大は偏差値高いけど、千代子の成績なら問題ないし、自宅からも通えるじゃない?」
「え? でも、私R大学でやりたい勉強があるんだけれど……」
「あら、ダメよ」
人から「ダメ」と言われると、私は反射的に体が固まる。
「千代子には、S大学に行ってほしいの。そのために進学校にいれたんだしね」
「いれた」と言われると、なんだか自分の実力ではなく、母の力で学校に行っている錯覚さえ起こす。
「近所のお子さん達、みんなS大じゃない? S大以外は大学じゃないわ。 みっともないじゃない」
私は母の「みっともない」という口癖が苦手だった。
「でも……R大学で考古学の勉強したい……」
わずかながらに、抵抗してみた。
すると母は目を丸くさせて、こう言った。
「あんたがそんなこと言うなんてめずらしいわね。 でも一言言わせてもらえば考古学なんてなんの就職の足しにもならないじゃない。 せめて理系だったらね。 でもあんたは文系だし、せめて就職率の高い、有名大学にでも行っておかなければ後々困る事になるのよ。 S大ブランドで箔がつくしね」
母の言うことは、最も正論だった。実際、考古学なんて勉強したところで就職には何の役にも立たない。
「そうだね……。 うん、私もやっぱりS大がいい」
「そうよ。 やっぱりS大生ってなんかかっこいいじゃない」
母は自分の思い通りになって、気分上々だった。
私は脳内で計算していた。
これからの人生の日々を。
有名大に行って、一流企業にお勤めして、そこで働いているそこそこ高給の企業戦士と結婚して、子どもが生まれて、子どもが成人する頃にはオバサンになって、オバサンになった私は旦那から見向きもされなくなって、イケメン俳優にでも夢中になって、毎日毎日趣味も娯楽もなく、永遠にテレビか女友達との愚痴が日課になる、そんな生活が待っていることを。
一瞬の内で悟ってしまった。
そして考古学の道を選択し、就職も結婚も台無しになる人生、台無しになってみたい自分を抑えて、今後待っているつまらない人生の方が楽だし、幸せそうに見えることに気がついた。
そして自分でも、他人からも幸せに思われる人生を今、この瞬間に選択した。
私には反抗期がなかった。
反抗らしい反抗といえば、中学の時どうしても友達と旅行に行きたくて、母の反対を押し切って行ったことぐらいだ。
母はその時言った。
「まさか、男の子と一緒に行くんじゃないでしょうね」
女の子しかいないと言っても信じてもらえなかった。他の友人の親は快く許してくれたのに。旅行から帰ってきても、母はしばらく口を聞いてくれなかった。
何故娘の言うことが信用できないのだろう。私は自分の親からも疑われるような、最低な人間なのだろうか。親に嘘をついて男の子と旅行するような、悪い子に見えるのだろうか。
私はこの時の母の機嫌の悪そうな顔を、忘れられない。
いつも何かを選択するときは、この時の母の表情を思い浮かべ、母が選びそうな「間違いのない」ものを基準に選ぶ。
それで間違いなくやっていけるはずだった。
でもそんなことがあってからというもの、自分の中で何か納得のいかない気持ちが沸き起こってきた。
このままS大に行っていいのだろうか。いや、母が選んだのだから間違いはないはずなのに。どこか微妙に解答がずれている国語の文章題を、正解にしてよいものか否か迷っているような気持ちだ。
久しぶりのキョウヤとのデートも、そのことで頭がいっぱいで集中できなかった。
私達は日曜日の人気のない公園のベンチで、先程見た映画の話をしていた。というより、キョウヤの方が一生懸命映画の感想を語っていた。
心ここにあらずな状態でキョウヤの話に耳を傾けていると、キョウヤはあからさまにつまらなそうな顔をしていた。ちゃんと話を聞いているのに、何故かキョウヤは微妙な顔をすることが多い。カナコちゃんもそうだけど。
ふと、キョウヤは思いつきのように、私の肩を自分の胸のあたりまで寄せてきた。すると私はキョウヤに密着する形になった。
つきあってからこんなに密着したのは初めてだ。ドキドキして嬉しいような、なんだか悪いことをしているような、おかしな気分になる。
キョウヤと私は静かに見つめあった。そして、キョウヤは目を閉じ、私の顔に近づいてきた。
その時、私は昔のことが一瞬頭によぎった。
居間で家族とテレビを見ていた時のこと。母が、恋愛ドラマの高校生達を見て、
「まったく、恋だの愛だの言ってる暇があるんだったら勉強すればいいのに。 子どものクセにいやらしい子達だこと」
と言った時のことを。
記憶がフラッシュバックした瞬間、私は反射的にキョウヤをドンと押し返していた。
「いって……何すんだよ!」
キョウヤは私に押された拍子に、ベンチに仰向けに反り返った間抜けな格好になっていた。
「…………! ごめん……!」
私は自分のやったことに驚きつつ、急いでキョウヤに謝った。
しかしキョウヤは不満げな顔をしている。
「あの、どっかぶつけた……?」
オロオロとキョウヤに尋ねれば、ますますキョウヤは不機嫌そうな顔をする。どこか気まずさと恥じらいと怒りを含んだような、複雑な表情で。
とにかく私はキョウヤを怒らせたくなくて必死にあれこれキョウヤをフォローしているつもりだった。
「ね、お腹すかない? この前カナコちゃんと食べに行った店、おいしかったの。 ね、食べに行かない?」
だが一向にキョウヤは微笑んでくれない。
「私、こないだお小遣いもらったばっかだからおごってあげるし!」
私はどうしていいのかわからなかった。
「ねぇ、押してごめん。 何でもするから」
「おい」
キョウヤがやっとのことで口を開いた。
「なんでお前、怒らねーんだよ」
そう言われて、私はキョトンとキョウヤを見つめた。
「オレが変なことしようとしたから言えた立場じゃないけどさ。 嫌なら嫌って言えばいいじゃん! オレ、お前が嫌がってること無理にしたくないし、オレの一方的な気持ちでつきあっていたくない」
「そんな……嫌なわけ……」
「押し返すぐらい嫌だったじゃんか! なんで謝るんだよ! 怒ればいいじゃん! オレに!」
「だから押してごめんて……」
「べつに押されたことなんて怒ってない!」
私はじわっと目頭が熱くなるのを感じた。だってキョウヤは怒っているじゃないか。こんなに謝っているのに、許してくれない。なんで怒っているのか、わからない。嫌われてしまったかもしれない。
「私……どうしたら……」
「どうもしなくたっていい。 もうお前お得意の『いい子アピール』がウゼーんだよ、オレは!」
そうキョウヤが言い放つのを耳に入れた瞬間、背筋がゾッと凍るのがわかった。まるで、自分の完全犯罪を暴かれたような気持ち。
私は震える声でキョウヤに尋ねた。
「いい子アピールって……キョウヤ、私のことそんな風に思っていたの……?」
「はぁ? 逆に気がついてないとでも思ってたの?」
キョウヤがそう言うと、私の中で築き上げたものが崩れ落ちる音が聞こえた。
そんな私のことなんて気にもせず、キョウヤは話続けた。
「お前、人なめすぎ。 そういうのって相手はわかるよ。 だいたい千代子が何頼んだって断らないことをみんな知ってるから、面倒を押し付けられてんだろ? べつにお前がいい人か悪い人かなんて関係ない。 ただただみんなにとって『便利な人』になっていただけだ」
「だいたいちょっと断ったぐらいで人から嫌われるようなら、その程度の関係性ってことじゃん。 そんな奴シカトすればいい。 それなのに、お前はその程度の関係の奴にも『いい子』に思われたがる。 ハッキリ言って気持ちわりぃよ、その執念」
何やらゴチャゴチャとキョウヤは言っていたが、後半あたりは呆然としていて全く頭に入ってこなかった。
「そうだね……ごめん……ね…………」
とりあえず、壊れた機械のように謝罪を再生してみる。するとキョウヤは、
「だから何で謝るんだよって。 オレ、わざとお前をイライラさせること言ったんだけど。 何か不満なら言い返せばいいじゃん」
どうやらキョウヤは、私を怒らせたいらしい。何故だろう。キョウヤは私に嫌われたいのだろうか。
言葉が出てこなくて、押し黙ってうつむいていると、キョウヤはため息をついた。
「オレ、今日はもう帰るわ。 付き合うのもちょっと考えさせてほしい」
そう言って、キョウヤは私の顔も見ず、自宅の方向に歩きだした。
私の右手は、キョウヤの方に伸びていたが、引き留めるための言葉が思いつかない。そもそも、この場合引き留める必要があるのかどうかもわからない。
パクパクと、キョウヤへの思いだけで口を動かしていたら、キョウヤは一度だけ振り返って私を見た。
「お前、いいやつだけど、オレお前のこと嫌いだって気がついた」
そう言って、また前に向き直り、二度とこちらを振り向かないまま去って行った。
去っていくキョウヤの背中を見つめながら、最も私が恐れていた言葉、「嫌いだ」を頭の中で反芻していた。
もしかしたら、人から嫌われたのはこれが初めてかもしれない。などと、冷静に考えていたぐらい、私の「人から嫌われる瞬間」はあっけなかった。
しかし、「嫌いだ」と言われ、不思議と私は嫌な気持ちにならなかった。あれほど人に嫌われることを恐れていたのに。
よく考えてみれば、私は昔から人の気持ちがよくわからない。
怒りはイコール嫌悪だと思うし、「嫌いだ」と面と向かって言わると、そのまま受け止めてしまう。もしかしたら、怒りと嫌悪はノットイコールだとか、感情とは裏腹な言葉を人に投げかけているかもしれないとかいう可能性は考えない。
言われるがままに傷つき、一方的に被害者になり、人との関わりを深く持つことを恐れてしまう。
私は今まで生きてきて、好かれることも嫌われることもなかった。
どちらにも所属しない、どうでもいい人だった私が今、人から嫌われる女になったのだ。
いい人なのに、嫌われる。
嫌なやつなのに、いい友人がいる。
美しくないのに、優しい恋人がいる。
一流大学へ行ったのに、中小企業で働いている。
無収入だったのに、ネットで小金を稼いでいる。
理不尽だ。私は自分の中で構築した常識を覆す、理不尽を許さなかった。
でも、人生単純ではないのだ。生き方は方程式ではない。だから、計算通りの答えが出ないこともある。わかっている。わかってはいるけれど。
いい子であれば万事上手くいくものだと、どこかで高をくくっていた。
誰からも嫌われず、かといって誰かに特別好かれるわけでもない人生。つまらない人生。
キョウヤから「嫌いだ」と投げかけられた瞬間、私の中で何かの歯車が回り出した。
いい子でいるために捨ててきた、全てを今、手に入れたくなったのだ。




