同居人たちの秘密②
辻栄樹刑事の、とある最悪な年の夏のことを語る。それは七年前のことである。
辻刑事には、十五も年の離れた兄がいた。兄弟は親との縁が薄く、辻刑事が小学校に上がるより先に二親とも離れ、祖父母に育てられた。
兄の芳樹は、辻刑事が中学に上がるころには、すでにそれなりに稼いで所帯を持ち、息子も設けた立派な大人であったので、辻刑事は甥とのほうが年が近い計算になる。そうそうに家を出た兄よりも、甥っ子の方がよっぽど兄弟のようで可愛かったという。
その甥というのが、辻聖。聖兄さんである。
聖兄さんが中学二年生……つまり僕と同じ年くらいのころ。聖兄さんは一人ぼっちになった。
当時の聖兄さんは、バスケに打ち込むスポーツマンだったそうだ。身長に恵まれず、公式試合ではあまり活躍はできなかったそうだが、持ち前の運動神経は惜しまれるものがあったという。
一人になってしまってから、辻刑事いわく、聖兄さんは少しおかしくなった。
髪を染め、思いつく限りの非行を繰り返し、体を壊してついに退部届を出したころから目つきが妖しく豹変していった。
そのころにはもう、祖父母も高齢で、曾孫の面倒を見ることはできなかった。高校に上がることはできたけれど、バスケはもうできないし、家に帰っても一人きり。孤独に追い詰められていた聖兄さんを、なんとかこの世に留まらせたのは、近所で仲良くしていた子供だった。
「兄ちゃん」と慕ってくれる子供と、聖兄さんは学校をふけてまで時間を作って遊んでやっていたらしい。
遊ぶといっても、一緒に昼寝したり、そこらへんで虫取りをしたりというものだった。その子は街の寺の息子で、小さな妹もおり忙しくしていたので、昔の聖兄さんを知っている住職夫婦はむしろ感謝して預けていたという。
それでも聖兄さんは、どんどん『悪く』なっていった。夜はふらふらと遊び歩き、昼間、その子のところへ行くことだけが目的で、やがて高校にも行かなくなって……そんな聖兄さんを、辻刑事が独身寮を出て引き取ったのは、二回目の高一年の春。
「聖に必要だったのは、同じ家にいる誰かだったんだよなぁ」
もちろん、同じ家に住んでそれだけ、というだけではなかっただろう。辻刑事にも聖兄さんにも、それなりの苦労があったはずだ。そんな二人三脚の安アパートの二人暮らしは、聖兄さんを一年かけて快活な少年に戻しつつあったのは確かだった。
けれど。
「あの夏は、いやだったなぁ……」
七月、梅雨空けしたばかりの十九日、六時三十八分。……つまり今日と同じ日の夕方。
聖兄さんは、アパートを出てすぐにある踏切に走った。
遮断機が下りなかった。警報機の音だけが鳴っていた。
田舎のことだから、人気のない踏切は常に利用者が少なく、たまにバーが落ちないくらい誰も気にしない。あの事故の半月ほど前から、警報機だって遅れることもあった。
バーが落ちない。警報機も十五秒遅れていた。ちょうどそこを通ろうとした男の子は、学校帰りに十も年上の友達の家に、遊びに行く途中だった。
聖兄さんは弾丸のように踏切に飛び込んで、親友を突き飛ばす。
そこに、コンテナをいくつも積んだ長い長い貨物列車が、ミサイルになって通過した。
辻刑事は、職場にかかってきた電話でそれを知る。
即死。享年十六歳。かばった男の子は、転んだ時に足を擦りむいたのと、頭を少し打ったというだけで済んだ。
辻刑事は、身元確認に遺体そのものも確認した。遺体は損傷が激しかったが、叔父の目は一点に吸い込まれた。好きなバスケ漫画を模したのか、真っ赤に染めた若い男の頭髪は、見間違えようもなかった。
辻刑事は、手帳に挟んだ写真を見せてくれた。
お寺の境内のようだ。辻刑事は映っていない。かわりに、中央で真新しいランドセルを背負った男の子が、満面の笑顔でピースサインをしている。その傍らでは、十七歳の割に幼い顔立ちの少年が、ふてくされた顔でカメラを睨みつけている。その頭髪は、鮮烈な赤。
「美嶋家にいるのは、本当にこの辻聖なのかい? 」
僕は、写真を手に取って見た。
……たとえば、この少年の顔色がもっと健康的に日に焼けていて、目つきの険が取れ、成人式を迎えるくらいに成長したのなら。
「この人は、僕の知っている聖兄さんになると思います」
一目で分かってしまう。この写真の人は、聖兄さんその人だ。
◎◎◎◎◎
さて、僕は馬鹿な考え方をしているのかもしれない。
普通なら、この辻 栄樹という男の言うことは、一笑するべき事案だ。だって僕は、もう三年は辻聖という人と一緒に暮らしている。
この男の言うことはすべて嘘で、何らかの事情があり、聖兄さんに接触しようとしていると考えるべきなのだ。こんなぶっとんだ嘘をつく事情は、今のところサッパリ推理できちゃいないけれど、でも普通なら信じられないし、信じるべきではない。
でも僕は今、底知れぬ不安に襲われている。この男が言うことは、本当かもしれないと思っている。おかしくなっているのは、もしかして僕らの方なんじゃないかと思っている。
エレベーターが遅い。隣の辻刑事は、強張った顔で黙り込んでいる。
扉が開いたとたん、その人の多さに僕らは目を剥いた。
「どうした? なにかあったのか? 」
辻刑事が、患者らしい小父さんに話しかける。興味深そうに人ごみを眺めていた小父さんは、禿げた頭を掻き掻き、好奇心に目をきらきらさせて言った。
「殺人事件だってよぉ。あんたらお見舞いか? 患者は大半追い出されて、このへんウロウロしてっから、どこかにいるんじゃねえかな」
「誰が殺されたんです? 」
「301にいた窓側の患者だよ。若い男らしいから、カネか色恋沙汰じゃないの。なんでも素行の悪そうな見た目してたってよ。あっ、もしかしてやくざとか? 」
待ちきれず、僕は人ごみに踏み入った。
「あっ! 美嶋くん! 」背後で辻刑事が叫んでいる。
「むぎゅう」人間サンドイッチに潰されたリュックサックが唸っているが、気にしていられない。病棟の前に何人もナースが立ち、野次馬を追い立てていた。どいつもこいつも邪魔だ。点滴を下げた患者も、お見舞いの荷物を持ったおばあさんも、足にギプスを巻いた男も押しのけて進む。
脇を通ろうとした僕の前にも、当然ナースが立ちはだかった。
「ちょっと君! 」
「おばさん、本当に人が死んでいるの? 」
「ぼく、野次馬なら帰りなさい。今大変なのよ」
僕は一歩、ナースの前に踏み出した。顔を近づけて小声で囁く。
「おばさん教えてよ。殺されたのは301号室の辻聖って人なんでしょう 」
尋ねたナースの顔で、すぐに理解した。
聖兄さんは死んだ。殺された。
もう一度、殺された。
脱力感に折れかけた膝を再び上げて、僕はおばさんナースの横をすり抜ける。「えっ! ちょっと! 」
入院病棟内には、看護師や医師がまばらにいるだけで、ロビーの様子から患者は誘導されて病棟外へ出されているらしかった。いくつも声が追いかけてくる。
「誰か! その子を止めて! 」「美嶋くん! 」
後ろでは、辻刑事の声も聞こえる。背中のリュックが、大股に飛び掛かってきた男の看護師に掴まれた。びりびりとジッパーをこじ開ける音がして、肩が軽くなると同時に、背後で悲鳴が上がる。
――――確認しなくちゃ。じゃなきゃあ、おさまらない。
ジリリリリリリリリリン!
頭の中で、黒電話が鳴っている。
ジリリリリリリリリリン!
横目で部屋番号を確認しながら走る。――――305……303……302……………301!
扉に手をかけ、開け放つ。
そこにいたのは、三人の人間と……―――――。
赤。
……とても見慣れた、赤い髪。
頭の中で、けたたましく電話が僕を呼ぶ。
――――ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン!
次の瞬間、踏み出した床がぐんにゃりと沈み、僕の両腕が空を掻いた。
頭の中で鳴り響く音の波に押し退けられるように、僕の視界が溶かしたガラスのように歪む。傾いて回転する世界に、たまらず強く目を閉じた。
……そして、ぷっつりと黒い空白が。
――――ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン!ジリリリリリリリリリン!ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン!ジリリリリリリリリリン! ジリリリリrrr………。
――――……リン。
「なんだこれは! 」
「……ウ……ウワアアアアァァァァッ! 」
「キャアアアアッ! 」
……閉じた暗闇のカーテンを、悲鳴が裂いていく。
開けた目の前には、301号室の病室と、そこにいる医師とナースがいた。
一様に、彼らはある一点を見つめて……あるいは指すら指して、立ち尽くしている。
狂気のるつぼとなった病室には、僕が瞬きする前に、確かに見たものが存在していなかった。同じく立ち尽くしている僕の肩を、背後から飛び込んできた手が突き飛ばす。
「何があった! 」
「――――いっ、遺体が消えた! 」
病室にあるのは、六つのベッド、風になびく水色のカーテン、数人の生きた人間……それだけだ。
僕は、傍らにあったベッドのポールに抱き付きながら、ふと、あれほど煩かった電話のベルが、頭の中からさっぱり消えていることに気が付いた。