同居人たちの秘密①
◎◎◎◎◎
昨夜の雨雲はどこに行ったんだろう。
遮るもののない陽光は、ぎらついた凶器そのものだ。
自転車の前かごでは、蒸し焼きにならないよう全開にしたリュックサックから、エムが前半身を覗かせて風を顔に受けている。
夏の暑さには勝てないものの、波打つようになびくヒゲが気持ち悪いのか、しきりに顔を撫でていた。駐輪場に到着したときの彼女のテンションは、地面を舐めるほどの低空飛行である。
なにぶん、田舎でいうところの『一番大きい病院』である。
敷地は広いが、古くて煤けている。むしろ無駄に広大なだけに、管理の手が届いていないんだろう。ぱっと見は分からないけれど、近くで見ると白い外壁は灰色で、生い茂る緑の木々が茂りすぎて森のようになっている一角があり、あそこには無縁仏の火葬場や墓があるんだなんていう噂もあったりして。
駐輪場にももちろん、最近増えてきた番号入力式のロックなんて設備は無い。
……と、こき下ろしても、実は僕の通う学園グループの経営する大学病院である。うちの学校経営者は、もともと製薬や医療機器の会社なので、医学研究に力をいれたいらしいのだ。
それが実になっているかどうかは、都心部の本社務めのうちの母さんが、家に帰る暇もなく忙しいところからして察してほしい。
「えーと……外科病棟は……」
西館だとか東館だとか旧館だとか、エレベーターが上から下まで直通じゃないだとか、病院ってやつは、どうしてこんなに複雑なんだろう。
玄関ロビーに配置された施設案内パネルを見上げながら、無意識にリュックサックを揺すって背負いなおした。
「――――ヴッ! 」
みぞおちの裏に衝撃。背骨からあばらにかけてびりびりする。リュックサックの中身からの抗議である。
何もないところで、おもむろに前のめりによろめいた僕は、どうやら急病人に見えたらしい。ちょうど近くのソファに座っていた人物が、傍らで僕の肩を支えるように立った。
「大丈夫ですか? 」
「い、いえ、平気です……ん? 」
なんだか聞いたことのある声がする。
「……って、ミシマじゃん。どっか悪いの? 」
「えーと……的野? 」
覚えているだろうか。冒頭で登場したクラスメイトBこと、的野秀介である。
「その的野っすわ。なになに、今日はどうしたの? 」
「僕は家族のお見舞いだよ。的野は? 」
「俺は……暇つぶし的な? 」
「病院で? 」
「……うん、まあ」
的野は、ばつが悪そうに口元を掻き、視線を外した。動いた黒目の底で、ひらりと薄暗いものがが翻る。家族か誰かが入院しているのかもしれない。
「嘘がへたなひと」背中でエムがつぶやいた。
的野自身も、誤魔化し損ねたと思ったらしい。
「……なあ、面会時間は十一時からだろ? それまでちょっと時間あるか? 」
ロビーの時計を見た。あと二十分はある。
僕らは連れだってロビーを出て、エレベーターの前にあるベンチに座った。昼間だというのに奥まっていて薄暗く、非常通路のライトがチカチカ眩しくて閉塞感がある。的野はなんだかモジモジして、僕を上目づかいにチラチラ見た。
「えっと……その……。どう話せばいいか」
「的野、くねくねしてちょっと気持ち悪いぞ。どうしたんだよ」
「……ウン。そうだな……俺、どうかしちゃったのかも……」
「なにこれ。愛の告白でも始まるの? 」
こら、やめなさい。そこの猫。
的野は確かに興奮しているようで、息遣いが僅かに荒かった。しかし顔色は紅潮しているというよりも、血の気が引いていてどことなく青い。膝もひっきりなしに揺すっていて、掌を何度もズボンで拭っている。
……緊張している? 僕はこいつに、何かしたのだろうか。
「あのさ、俺……」的野が何かを言いかけた時だった。
「あ……」水をかけられた猫のように、的野は通路の向こうを見て固まった。
ぽかんと開いた口が、何度か震えて閉じられる。
そこには、三十代くらい汗染みたスーツの男が、ハンカチで顔の汗をぬぐいながら歩み寄ってきていた。自動販売機に用があるらしく、僕らのことは視界に入っていても特別気にしている様子はない。
的野は跳ねるように立ち上がった。男が的野に気付く。明らかに自分に反応して立ち上がった男子中学生に、あれは誰だろうかという困惑の表情で、的野を凝視していた。
「的野? あの人知り合い? 」
「美嶋、あとで電話するわ。ごめんな、時間取っちゃって」
「え、的野! 」
的野はあっという間に走り去った。何が何だか分からない。どっと疲れた気がする。
「……美嶋? 」
背後で、男の声で呼ばれた。自動販売機の前で、立ち尽くしている例の男と目が合った。
「あの……いま、僕の名前呼びましたよね? どこかでお会いしましたか? 」
「あ……いや、すまない。一方的に知っているだけなんだ。君は、美嶋純くんだね」
「……そうですけど」
「わたしは、辻という。こういう仕事をしていて……」
男はワイシャツのポケットに一瞬手をやり、はっとして手に下げたジャケットの懐を探る。ばたばたしながら探り当てた手帳のようなものには、金ぴかのメダルが輝いていた。テレビの中でしか見たことがない桜の代紋を目の前に出されて、僕は数秒、それが何だか分からなかった。警察手帳というやつを、まさか平凡な中学生の身で目にするとは。
「……聖兄さんのお兄さん? 」
男は何かをためらって、やがて深く、項垂れるように首を垂れ、横に振った。
「わたしは叔父なんだ」
「そうだったんですか。じゃあ、叔父さんもお見舞いに? 」
「ああ……まあ」
辻刑事は、笑い損ねたような顔をした。
「……で、でも、面会時間より少し早すぎる時間に到着してしまってね。……その、よければ、わたしと少し話をしないかい」
そういえば聖兄さんは、自分のことを天涯孤独だと言っていた。口が悪いけれど、あまり自分のことは話さない人なので、コジロウさんが梅酒を三杯飲ませて聞き出したのである。
僕が聖兄さんについて知っているのは、昔ちょっとだけワルかったこと、天涯孤独の身の上で、なんだかんだ色々あって我が家にいるということ、彼女はいたことがあるけれど童貞だという話である。
最後の件で、色男の大陽兄さんと自称百戦錬磨のコジロウさんは散々にからかい尽くし、ついに聖兄さんは、大陽兄さんとだけタイマンで喧嘩をして玄関のガラス戸をぶち破ったことがあるのだけれど……ああ、これは蛇足か。
「……僕、聖兄さんから叔父さんの話は聞いたことがないんですが」
「……そうか」
何かを察したように、辻刑事は重苦しく頷いた。
「美嶋くん、ここに搬送されたのは、本当に辻聖という人なんだよね? 」
「そうですよ。うちの家族も、何度もお見舞いに来ているし……そういえば聖兄さんの叔父さんは、どうして兄さんがここにいるって知ってるんです」
「ああ……すまないね。疑うのも当然か。いやまあ、仕事がこれだからね。その、甥は階段から落ちたんだろう? 警察の事情聴取、受けたはずだよ。その
聴取を取ったやつの上司が、あいつの顔と名前を知っていたもんだから。あいつの身内は、わたししかいないんだよ。それで……ね」
もっともな理由である。そういう偶然の話もあるかもしれないけれど、無いかもしれない。中学生の僕でも怪しむくらい、違和感を覚えてしまう話だ。
そもそも行方知れずの甥が見つかったとして、それに会いに来るだけで、どうしてこの人は│こんなに怯えているんだろう(・・・・・・・・・・・・・)?
「でもこの人、本当のことも言っていないけれど、嘘も言っちゃあいないわよ」
背中で魔女が言う。うむ……なるほど、わかった。ではこうしよう。
「叔父さんは、僕に訊きたいことがあるんじゃないですか。それで話に誘ったんでしょう? 」
辻刑事は疲れたように、不格好な愛想笑いで返してきた。
◎◎◎◎◎