少年Cも普通に暮らしたい
「だから言ったでしょう? 」
自室に早足で戻った僕に、猫は憮然として、開口一番にそう言った。
「どっ、あの、だれで、その……どっ、なに! 」
「『どうしてこんなことに、あの子は誰なんだろう。どういうこと何が起きてるの』って? ……だから言ったじゃない。未来では異世界人との国交が内密に始まってるって。事の始まりはそれよ……って話を、していたのよ」
「きいてない」
「そりゃあ、言ってないものねぇ。あんたが真面目に取り合ってくれなかったから。……ねえ、どうしてわたしがこの部屋を出ないと思う? 正解は、弱ったわたしじゃあ、危険を退けられないから。この街はもう何が起こるか分かったもんじゃないのよ。そもそも人間の女が猫になってその猫がペラペラ喋る時点で危機感ってもんをね……」
お説教を始めようとしたエムは、特大の欠伸のようなため息を吐いて、ギュッとサラダに虫が付いていたようなしかめっ面をした。「……そりゃあ同居人が一人や二人増えるわよ。ほら、真面目に聞く気になった? 」
赤べこのように僕は首を振る。
「いいこと、この世界に、魔女の血が流れていない女はいないとわたしは言ったわね。じゃあ、最初の魔女の名前はなんていうと思う? 」
「……先生、質問の意味が分からないです」
「……じゃあ言い方を変えるわ。この世で生まれた最初の女の名前を知っている? 」
「……イブ? 」
「キリスト神話ならイブ、ユダヤならリリス、ギリシャ神話ならパンドラね。いずれも誘惑に負けて、人類に災厄をもたらす罪を負った。その罪とは? 」
「なんでしょう先生」
「少しは自分で考える努力をなさい。パンドラの箱くらい知っているはずよ。いい? 死をもたらされる肉体、欲望や疫病、悲しみなどの負の感情。これにより、人類は忘れられない苦悩に縛られることになる。
言い方を変えましょうか。『人類』は、『女という生物』に、『教えられた』の。『生の苦しみ』という『ルール』を学び、それに縛られるようになった。この『生というルール』が、人類が初めて使って、うっかり自分にかけてしまった『魔術』よ。
だから(・・・)すべて(・・・)の(・)女は(・)魔女の(・)血を(・)引いて(・・・)いる(・・)、と、わたしは言った」
「……『生のルール』」
「そして『死のルール』でもある。……かつてすべての生き物は、混沌を内包していたわ。混沌とは、すべての命の源泉。あらゆる意味、法則は混沌から生まれ、かたちを成した。ゆえにすべての命に『死』は無く、『生』とは永遠に続く箱庭のサイクル。その『女』は、人類の祖を誑かし、隠されていた『死』の蓋を開いた。最初の裏切り者として、人類は神の台帳に赤い文字で記されることになったわ。世界は生と死のルールに縛り付けられ、命は穢れながら死というスタートに立つ。魂の循環というかたちで世界を循環しなければ、この宇宙は熟れた果実のように混沌に落ち、六億年かけて築いてきた『意味』はすべて消えて無くなる。それが、『死のルール』。我々は平等に、神に引き金を引いた血を汲んでいる」
「……僕も? 」
「そう。あなたも、わたしも。原初の女、原点の魔女の血を引くもの。神さまにとっては、今もなお裏切り続けてこの大地を破壊しつくさんとする弑逆者ってところかしら」
「……ねえ、僕、思い出しちゃったんだけど、確か現れる魔女って、『魔女の源泉の血をもろに引いている』って、きみは言ったよね? 」
「そうよ。原初の魔女の血の流れを汲む娘。名前はアリス。まだ十二歳の女の子。でも、わたしが知る未来の彼女は、この世を支配している魔王様」
「……それと通り魔事件がどういう関連性が? 」
「通り魔をしているのは、アリスの配下のやつらよ。異世界人との国交が始まっているって言ったでしょ。異世界人たちは、まずこの世界で一番の権力者にコンタクトを取った。今現在、権力のある誰かではなく。遠くない未来で、世界征服を完了するアリスにね」
「待って、待ってよ……」
僕は、ぐるぐると渦巻く頭の中で、必要な言葉を探した。
「……どうして、アリスは原初の魔女の血を引くの。直系なんでしょう? そんな、イヴやパンドラが現代に生きているわけじゃあないじゃない」
「箱舟のノアは、九百五十年生きたわよ」
「まじかよ! 」
「嘘よ。確かに賢者ともなれば、何百年も生きるすべがあるけれどね。でもそうなれば、もう精霊や神霊の域よ。アリスの母は、イヴやパンドラじゃあない。彼女たち魔女の……そうね、姪のようなものかしら。直系の彼女たちの増え方は、必ずしもこの地球上の生物と同じじゃあない……の、だと思うわ。わたしもまだ知らないのだけれど、本来は菌類や植物に近いんじゃあないかしら。動いて考えて他の生物と交配ができるっていうだけ」
それは。
「そんなものが、僕らの祖先だっていうの? 」
「すべての生物は微生物から進化したのよ。その点、アリスはまだ人間の範疇よ。目も口も、臓器の数もわたしたちと同じ。血をいっぱい流せばショック死する。肉体的には、十二の女の子よ」
「でも、まだアリスは生きていて……世界征服……」
まさか、真面目に『世界征服』という単語を口にするとは。「……していないんだろう? 」
「そうよ。だから、彼女は命を狙われた。この世界で、今、一番権力を持った人物に。実際、アリスは罠にかかって討たれたわ。大きく歴史が変わった。だからわたしが来た。アリスだって、今はまだ普通の人間だものね。ただ、持っている力が世界を変えるだけで」
「アリスが死んで、未来が変わった」
「いいえ、アリスはまだ死んでない」
「でも、討たれたんだろう? 」
「死んでないから、配下のやつらが彼女を探しているの。人を襲って、自分たちをアピールしてる。言ったでしょう? 小手先の罠よりも、殺意ある一撃が一番確実な殺し方だって。アリスは、彼女自身が『自分の死』というルールを認めないと、死ぬことはないわ。魔女の直系だもの……自分ひとりくらいなら確実に、『死』に行き着くというルールを破ることができる。わたしは異世界人たちの名代として、彼女と接触する任務も帯びているわ。異世界人たちもね、責任を感じているのよ。よその世界の筋書き……歴史を変えてしまったから」
「……きみは、自分が消える未来を変えようとしてるんじゃ? それで僕を守るんだろう? 」
「そうよ。未来をなるべく変えずに、自分が消えないようにする。それが目的。そのためには、美嶋純っていう男が死んでしまうと困っちゃうの。あなたが死ぬと、ほぼ確実にわたしも消えてしまうもの」
「な、なるほど……」僕は頷き……かけて、『いや、』と頭を振った。違う。それだけじゃあないだろう。
「あのサキって子は? 」
「あら、これだけ話しても分からないの? あの子の正体」
「なんとなくは、分かるよ。でも確証がない」
「わたし、あなたとは長い付き合いだけど……ああ、もちろん未来でね。妹がいるなんて話は一度も聞いたことが無いわ。それとも実はいたのかしら? 」
「いないよ! いるわけがない。うちは母さんひとりだし、父親は僕が赤ちゃんの時に亡くなってるんだ」
「じゃあ、やっぱりいないのよ。貴方、気を付けなさい。アリスは、確かに肉体的には殺されたわ。白雪姫じゃあないけれど、アリスの遺体は持ち帰られて厳重に封印されている。ただし、中身は火事場の馬鹿力で逃げ果せているの。それがアリスが使った、『死のルール』を破る方法なのよ」
「中身って……そんなことできるの? 」
「脱魂は、どこの土地にも逸話が残っているわよ。死の淵からの黄泉がえりや、幽体離脱。日本にもあるでしょう? その中身を魂魄と呼ぶか、他の何かと説明するかは、また別でしょうけれど。でも、通り魔をしている彼女の配下のやつらは、この街に居る彼女を感じているはず。彼らには、アリスの生存を確かめるすべがあるもの」
「確かめるすべ? それって何」
「そこは詳しく話せないの」
「名前を言えないのと同じ? 」
「そうよ。そういう魔法がかかっているの。時代に干渉しすぎる情報は話せないわ」
「でも、僕に喋った程度で変わる可能性があるくらい、重要なことなんだね。いや……僕が知ってしまうと、確実に未来で何かが変わる情報なのかな」
「あら、分かってきたじゃない」
ふふんとエムは鼻を鳴らす。
僕は、あのサキという子の姿を頭に思い浮かべた。小学校六年生……十二歳の女の子。黒髪を三つ編みのおさげにしていて、輝く(・・)よう(・・)な(・)青い(・・)瞳の女の子。
はぁ~……なんて僕の口からこぼれた大きなため息に、エムはきゅっと瞳孔を丸くした。
「大きなため息だこと。質問はまだおあり? 」
「いや……うん。いいや。分からないことはその都度訊くよ。あ、そうだ。これごはん」
僕は、ポケットに入れて生暖かくなった缶詰を机の上に置くと、ちょっと頭を整理しようとベッドに横になった。
エムは「ありがとう」と言って、机の上で缶詰を爪でカチャカチャ鳴らして遊んでいる。五分ほどして、なぜかベットの足元になってきて、じっと僕を見上げてきた。熱い視線を感じて、微睡みかけた頭を起こす。
「ねえ、ちょっと……これ、人間の手でも借りたいところなんだけど……」