森の声
◎◎◎◎◎
闇から零れたような冷たい雨が降っていた。
チェシャー猫はそれを眺めながら、ジッと、体を包むほの暗い穴の中に背中をつけた。金の瞳が、油断なく木の洞の中から光っている。
荒れた指が握りしめるのは、ちょうどチェシャーの手のひらに収まるほどの、円柱型の金属だった。
一見して太めのボールペンか、それに準ずる役割の文房具のように見える。この二晩ほどでもはや慣れた手つきで、メタリックな輝きを放つそれの下部を一回、ノックした。
ざわざわと、遠くの雑踏のような雑音が、それの中から流れ出す。
『――――! おい、繋がったか? 返事をしろ! “羽の生えた猫“! 』
雑音の中からはっきりと浮かび上がってきた男の声に、チェシャーは応えず、『それ』を油断なく見つめて、またノックしてスイッチを切った。雑音は消え、金属は沈黙する。
見慣れないその小さな機械は、どうやら通信機器のようだった。スイッチを入れるとどことも知れぬ場所に繋がり、チェシャーにはよく分からない単語を告げる。
告げるのは決まった男の声色だ。不思議とチェシャーは、その声を聴いて、金髪で緑色の男を思い出す。
チェシャーの右手は、自然と再びスイッチを入れていた。
『―――――おい、またランプが付いてるぞ! 応答しろ“羽の生えた猫”! 今の状況はどうなってる。帰還は可能か? ……おい! 』
「……てめえの名前は、エリス・キャンベルか? 」
『――――はあ? おまえ誰……』
通信機の向こうの声が、困惑に濁った。チェシャーは一度、強く奥歯を噛み締めると、飲み込んだ息を吐き戻すように単語を繋げていく。
『――――こう言えば、わかるのか? おまえは『帽子屋』……だな? 』
雑音が遠くなる。
通信機の向こうは、少しの沈黙を挟んで応えた。
『……なんでお前がその通信機を持っている? 』
「てめえこそ……! これはあの魔女の、異世界人のものなんだろう! てめえはなぜ、『そちら側』にいる! やっぱり裏切っていたのか! 」
『……どうやら多大な誤解とすれ違いがあるようだな』
『……ハア』と、覚えのある響きのため息を吐き、通信機越しの帽子屋は言った。肩をすくめて眉間にしわを寄せた様子が浮かび上がるようだった。
『俺は約二十年後の帽子屋だよ。チェシャー猫。お前たちから見れば、有り得るかもしれないパラレルワールドの『帽子屋だった男』だ。『そっち』の俺は、今ごろ全部忘れて故郷にでも帰ってるんだろう』
「……異世界人に与したのか」
『ンッとまあ、俺たちにも二十年いろいろあったのさ……ただ言えンのは、こっちの世界のアリスと、マ……いや、“羽の生えた猫”は、共通の目的があるってことだ。だから俺が、ここでお前と話している』
「なんでアリスを刺した。いつから操られていた? 俺たちは」
『おっと、落ち着けよ……本当にお前が用があるのは『そっち』の俺だろ。違うか?それはそっちの俺を見つけて聞いてくれ。……なあ、チェシャー。餓鬼のおまえと、こうしてもう一度話せるとは思わなかったぜ。ハハハ。そんな泣きそうな声、今じゃあ聞けねエからなあ』
その気安い響きは、聴き慣れた仲間の声そのものだ。
チェシャーは苦い唾を無理やり喉に押し込んだ。
「帽子屋……俺は、まだアリスを見つけられていない。知らないか? ……何か」
可笑しそうに笑う機械越しの帽子屋は、さらに言葉を繋げる。
『こっちの俺はよ、だいぶ不自由なんだ。そっちにはどうしたって行けねえし、言えることも限られてる。でも、そっちにはそっちの俺がいる。そっちのアリスがいる。お前の仲間がいる。忘れんじゃアねえぞ』
「……俺の、仲間」
『そう。その世界でただ一人、アリスの仲間のチェシャーはおまえだ。出来れば俺のほうも、きちんと探してさっきの質問をぶつけてやってくれ。悲しいことに、帽子屋はお前たちに見つけてもらえなきゃ帽子屋には戻れねえ。俺が帽子屋に戻るには、お前たちに見つけてもらう未来しかない』
「……帽子屋。おれは、どうしたらいい」
『自分で決めろよ。今までもそうしてきただろ。これからもそうだ。俺たちは、繋がっているんだよ……』
短い通話だった。
チェシャーはしばらく通信機のスイッチをいじってみたが、断ち切られたように沈黙した通信機は、僅かな雑音すらもう溢さない。
「アリス……」
闇から零れたような冷たい雨が降っていた。金色の瞳が、黒い雨と森を睨んだ。
チェシャー猫は、緩慢に、しかし地面を踏みしめて立ち上がる。
「……話は終わりまして? では、いきますわよ」
「……ああ」