Aの凱旋
「……ねえ純。気分転換に少し話をしましょう。神様って、なんだと思う? 」
エムが唐突に言った。ぱらぱらと、外で雨が降り出した音がする。
「世界を創った人? わたしたちの……運命ってものがあるとして……それを決めた人? それとも、不可能が無い何か? 」
「どういう意味? 」
「今、この世界には管理者がいないわ。あえていうのなら、魔女か人間たちなのでしょうけれど……でも人類は、その自覚が薄い。世界を創った神さまは寝惚けていて、魔女は見ているだけ。アリスはそんな状況を、強引に変えようとしている。自分が支配することでね」
僕はエムから体を引いて、彼女の顔を見た。
きらきらと赤い瞳が朝焼けの色を吸収して、ひどく綺麗に見える。白い小作りな顔を、こんなにじっくりと見るのは初めてだった。誰かに似ていると思う。
彼女の瞳が問いかける。「どう思う? 」
「……ねえエム。僕にとって、神様は何にもしてくれない人だ。……いや、なんにもできない人なんだ」
とろとろと、窓の外の赤が溶けていく。
「……そんなの、初めて聞いたわ」
目の前の光景の輪郭が滲み、曖昧になっていく。
「初めて言ったからね。たぶん、神さまってやつは、僕らみたいのを創ったんだから、優しい人なんだと思う。慈悲深いってやつかな。でもとても厳しい人だ。魔女がこの世界に『ルール』を付けたっていうけどさ、この世界には、きっと最初から厳しいルールがあったんだ。依怙贔屓になるから、人を容易く助けてはならなないだとか、そういうルールだ。神さまってやつは、それを誰よりも守らなければならなかった」
「………」
遠いところで、自分が喋る言葉を聞いていた。
「だから僕は、神さまを信じていないよ。神さまは、困ったときには助けてくれないものだと思うから」
「だから、すべては神さまのせい? 」
「いいや。神さまは、なんにも出来ないんだ。最初っから頼っちゃいけないし、期待しちゃいけない。『なんで自分がこんな目に』ってことは、だいたい順番が巡ってきただけなんだ。その順番は、神さまは決められない。……っていうのは言い訳だよ? 僕は神さまを信じちゃいないんだから」
「あなたがおかしくなったのも、じゃあただの巡り合わせ? 」
「誰かのせいってわけじゃない……原因があるとしたら、僕自身だよ。だから僕は、どうしたらいいのか分からないんだ」
そうか。僕は、自分がいちばん信じられないんだ。
「……あなたは、何も信じちゃいないのね」
「そうだよ。僕は、自分にも責任がもてない。僕は僕の、目が、鼻が、耳が、記憶が、いちばん信じられないんだ」
「ああ……」エムの赤い目も、悲しげにとろりと滲む。「純、それは、とても――――」
何かを言いかけたエムの語尾が、千切れとんだ。
エムのしなやかな体が、ひらりと僕の頭の上を飛び超え、音もなく着地する。僕は詰めた息を尖らせて吐き出した。
「純坊ちゃん。だめですよぉ。変なもん拾ってきちゃあ……」
僕の脇腹を横切るように、それがいた。
鬱金色の短い体毛に、巻き付くようにして浮かぶ黒い斑紋の腕には、鋭く飛び出した小刀のような爪がある。学習机には、大きくえぐれた四本線が出来ていた。
外で雷が鳴りだす。稲光がその人の顔を照らし出す。
それはよく知る人の声で話し、よく知る人の姿をしていた。
「あっ、しまった……坊ちゃんすいません。ちゃんと修理に出しますね」
椅子に座る僕の肩を抱くようにして、その男はそこにいる。笑った顔はいつもと変わらない。……ただ、細めた瞳の奥が、金色に輝いていることを除けば。
「……コジロウさん」僕はその人の名前を呼んだ。
「あんたみたいのが、この家の敷居を跨ぐとは。ネコ型かい? よく化けたもんだ。猫かぶりってのかね。……しかしこの鼻は、まだ鈍っちゃいねえのさ」
「……とんだ歓迎だこと」
雷光に照らされ、エムの背中が膨れ上がる。白い肢体を浮かび上がらせて、黒髪の少女が、畳の上に片膝をついた姿で現れる。ヒュウ、とコジロウさんは口笛を吹いた。
「……こりゃあ、本当にたぶらかしにきたわけだ」
「そういう意味で、わたしが選ばれたわけじゃないわ」
傷のあるほうの腕から真新しい血が滲み、だらりと垂れさがっていた。もう片方の腕で裸の胸元を庇いながら、エムはじりじりと後退している。額には汗の玉が浮かんで、表情に浮かぶのは苦み走った苦痛の色だ。猫の時の身のこなしは、もはやできそうにない。
「じゃあ何しに来たんだい。別嬪さん」
ただでさえ大柄なコジロウさんの体が、ボンッと膨れ上がったように見えた。
背中に瘤のように筋肉が盛り上がり、丸太のような腕が、鋼線が巻き付くように隆々と太さを増す。背中越しに見える顔には、腕と同じ斑紋と毛皮が起つ。
「さて嬢ちゃんはどうする? 爪も牙も無けりゃあ、どうなるかわかるだろう? ん? 」
「ま、まって! コジロウさん! 」
「爪も牙も必要ありません。そのために来たんじゃない」
「コジロウさん! 僕が彼女を連れて帰ったんだ! 」
「ンなこたァ知っとりますや、坊ちゃん。だからです。ずいぶんな手練れだ。なあ、小娘」
「その丸腰の小娘に手を出すの? 慈悲で知られた一の戦僧が? 不殺の神に仕える神官が? 」
「そこまで知っとってここに来たか! 混ざりものが! 」
コジロウさんの銅鑼声が轟いた。僕は叫ぶ。
「あんたは誰なんだ! 何なんだ! 話を聞けよコジロウさん! 」
「俺たちの『神』は一分の隙も無く世界を創った! 魔女はそれを蹂躙したんだ! そうだろう! 」
「わたし達を侮辱にしないで! 」
エムがひらりとコジロウさんに飛び掛かった。牙が柔らかい唇の皮膚を破り、下肢だけが黒い毛皮に覆われている。腕には棘のように、固い羽の先端が飛び出しかけていた。どう見ても不完全な変身である。
僕もまた、コジロウさんに飛び掛かった。しかし大きくなった背中には、肩口に指先すら掻かない。腰にくっつくようにしてしがみつく僕に、コジロウさんは驚いたようにびくりと動きを鈍らせたのが伝わった。
その一瞬の隙をついて、大虎の首に巻き付くようにしてエムがまとわりつく。柔らかい肌の上に生えた羽の前兆が、やすりの様にコジロウさんの毛皮を削り、翼に成り損ねている固く尖った指が、太い首を突き刺そうとしていた。
「駄目だ! 殺さないで! 」
「そこまでよ」
僕の懇願にかぶさるように、冷徹な声が告げた。
エムの腰を抉ろうとしていた爪が、首筋に打ち込まれそうだった指先が、諦めたように下ろされる。
部屋の引き戸に手をかけたまま、うめさんは億劫そうに髪をかき上げた。
「ここ、暑いわね……ああ、もういいのよ。コジロウさん。そこの彼女も。……大陽さん、これで分かったでしょう」
「……はい」
僕に向かって歩いてきた大陽兄さんは、強い痛みを耐えているような顔をして、何かを確かめるように僕の頭を撫でた。
なに? どうしてそんな顔をしているの。
「坊ちゃん。坊ちゃんは、おれも信じられませんか」
「何の話? 」
「ごめんなさい。さっき立ち聞きしていたんです。坊ちゃんは、おれたちも信じられませんか」
廊下を歩く音がする。それはゆっくりとこの部屋に近づき、開いた戸口で止まった。
「純坊。……ごめんな」
聞こえるはずのない声がする。
「……聖兄ちゃん? 」
もう二度と見ることができないと思っていた、あの赤い髪が見える。
「ごめんな……」
聖兄ちゃんは、見たことが無い顔で、僕を見下ろしていた。
「あ……ああ……」
僕の喉から、勝手に鳴き声のような呻き声が出た。これも幻覚だ。きっと都合のいい夢だ。
僕はおかしい。もうずっと、おかしかった。
「あああ……うう」
「純」
「純」
『純……』
誰かが僕を呼んでいる。箱に入ったように、僕の耳には僕を呼ぶ声が届かない。聖兄ちゃんが生きている? そんな馬鹿な! そんなことがあるもんか!
視界は滲んで、輪郭が溶けていく。外で雨が降っていた。
横殴りで、畳針のように太く鋭い雨だ。
雨で穿たれた地面から、泥が生臭く匂い立つ。人肌に温められた水が肌を伝う錯覚がある。気持ちが悪い。
僕の中身が、どんどん漏れていく。その中身が降り注ぐ雨で洗われていくのを、ジッと見下ろす眼ばかりが乾くのだ。
これは何だ?
……僕だ。
僕は何をしている?
……僕は何もしていない。はずだ。
雨が降っている。
ひどい雨だ。
雨が、雨が、水が。水が、水が、水。水。水。みず。
頭の中で、何か渦巻いている。深い深い渦巻く奈落の様に黒い何か。手招くように黒が揺らめいて、その奥で青いものが、チラチラと翻っている。
――――ブゥ―――――ン……。
その黒いものの質量は、ぎっしりと、ずっしりと詰まっている。それは羽虫のように群れて、唸るような羽音を轟かせ、僕の眼球の裏側にまで満たされていている。
頭が重くて重くてたまらない。
たくさんの羽音が、だんだん掻き鳴らしたベルの音に変わっていく。
――――ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン!
頭の中で、けたたましく電話のベルが僕を呼ぶ。渦巻く黒の中に、あの青が近づいてくる。
――――ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリリリリリン! ジリリリリリ……リン。
音が震え、誰かに繋がった。
――――もしもし。
――――あなたはだぁれ?
「僕の名前は、純」
――――じゃあ、お返しね。あたしはアリス。
――――それでは純。さっそくですが、判決を言い渡します。
――――あなたは、『ユウザイ』! さっそく刑を執行します!




