希望の仔
二〇一七年の七月三十一日、彼女の心を表すようなドブ色の空には、横殴りの雨が降っていた。
その森は五十年、向こうの梢の向こうにいくつも銀のタワーが聳えるようになっても、時を止めたように変わらず根を張っている。
森を囲んで三メートルの立派な塀と、大人の腰ほどしか無い扉。そこが人間の入口だ。そこをくぐると煉瓦の街道だけがあり、十分も木々を分け入って、やっとその建物が見える。車は大きく迂回したところからしか入れない。そこに香水瓶のような硝子の塔があった。
「アリス! 行くな!」
この数か月ですっかり痩せ細った男が、髪を振り乱して雨の中に躍り出る。
「俺が行くから……頼む! そいつを連れて行かないでくれ! 」
男は長い手足を振り回しながら、木立の奥に消えていく。「俺も連れて行ってくれ! 」
やがて雨が上がる。銀鼠の霞のかかった水色の空が、赤紫の裾を引きずって星が昇り、また朝が来る。それが三度ほど繰り返されたころ、男は……チェシャー猫は、森の奥から帰ってきた。
出迎えたマリアの赤い目を見下ろし、チェシャーは言った。
「そうだった……思い出したよ。あれは全部、このためだったのか。そういうことだったんだな……アリス」
マリアは過去に思いをはせる。ここから見れば、それは未来に起きることだ。
「これがハッピーエンドってわけじゃあないけど、でも、トゥルーエンドよね」
アリスは硝子瓶を出ていくとき、にやりと笑ってそう言った。
異世界人たちは、徐々にこの世界を侵食しつつあった。アリスが夢を叶えて、まだたった十八年である。
異世界人たちは、総じて魔女の血を引く研究者だ。その血は魔女の類まれな環境適応能力だけを有し、貪欲に『魔女』という祖の情報を知りたがっている。
魔女とは、情報を食う生き物だ。
脳に新しい情報を詰め込むことを何よりの快楽とし、退屈を嫌う。魔女の末裔である彼らが求めた『最大の情報』は、自らの血の解明であった。
この世界を創ったという神は、何も助けてはくれなかった。その配下の神官たちは、人間たちの情勢などには興味が無い。彼らは、『神さま』の日々が再び安寧に包まれることだけしか頭にない。もはや、この世界が誰のものでもいいのだ。『神さま』さえ幸せならば。
魔女ソフィもまた、神官たちと同様である。一番血を濃く引いているはずのアリスにも、何もしてはくれなかった。彼女はむしろ、異世界人たちの研究に加担している節もある。
『血の解明』とは、またソフィの悲願でもあったからだ。
魔女にとって血族とは、ていのいい実験動物でしかない。知恵を与えるのは、猿に棒を渡してみるようなもの。数を増やすのは統計を取るため。果てに滅びても、失敗というデータになる。
死んだマリアの父親は、そうしたデータの中にある数字に飲まれてしまって、もはやその存在があったことを証明するのはマリアの存在くらいだ。アリスがマリアを引き取ったのは、マリアの父親の死に責任を感じているからだろうか。そんなそぶりは、一度も見えたことが無かったけれど。
「異世界人は実験をしてみたくってうずうずしているわ。分かるでしょう? この世界は魔女たちの実験用シャーレ。あんたはその中で必死に細胞分裂している未知の細菌で、あたしはその中でも突然変異のウイルス」
アリスはこっそりと、マリアに言った。
「あたしはね、囚人になりに行くんじゃあないの。実験動物? 上等よ。いつだってあたしたちは、世界を楽しくするために生きている。ねえマリア……いっそのこと誰も入ってこられないように、魔女の血でこの世界の蓋を閉じましょう。学者ども見てなさい。
お話はここから。そうでしょう? 」