孤独の戦い
何度も悪夢を見た。
実験体306が帰ってくる夢。『外』を知るお前は、俺の横から彼女を奪う。
あの小さな小瓶の中でしか生きてこなかった俺には、『外』のお前は化け物に思えた。
お前が死んでいることを毎夜願って眠りにつき、悪夢を見た朝、空想の中で何度お前を殺したか分からない。
でも実際のお前は、化け物でもなく、ただのつまらない人間だった。母親が傍にいない寂しさを他人との家族ごっこでなぐさめ、つまらないことで簡単に笑うような子供だった。ただ少しの違いで、俺とお前が逆転していたのだと思うと虫唾が奔る気分になる。
お前は何の特別でもない!
「……なあ、そうだろ? ヒロアキにいさん」
それはこんなに清々しい事実のはずなのに、どうして俺は不機嫌なんだ?
306の家で家政婦のようなことをしている坂上大陽という男は、俺の問いかけを無視して黙々と包丁を動かしている。
「返事もしねえってか? なあ」
「……早く坊ちゃんを解放してください」
「てめえはそれしか言えねえのか? それでも飯は出してくれるんだからよぉ、てめえも弱い奴だよな」
「……その体は坊ちゃんの体ですから」
背後のテレビから、笑い声が響いている。何が面白いのか、いまいち分からない。
さて、もう十分夜が更けた。あいつが来る時間が近づいている。
「……こんな時間にいったいどこへ? 」
後ろから、坂上大陽が声を投げてくる。
「ちょっとな」
玄関に向かう途中の廊下の陰に、青い布の端が見えた。
「おい」
声をかけると、廊下の角からおずおずと子供が顔を出す。眩いほどの青い瞳が、俺を見た。
「じゅ、ジュンちゃん……その、あたし」
「早く寝ろよ」
「……うん」
サキは小さく頷いて、踵を返した。ほどなくして、二階の自室へ昇っていく音が聞こえる。
「優しいねえ。うちの純の真似? 」
入れ替わりに玄関先に現れた女が、俺を揶揄して見下ろしてきた。短い黒髪のきつい目元の女である。細身のサマーセーターを着て、片手には車のキーをぶら下げていた。人種の差なのか、四十一という年齢よりも十は若く見えた。呼気に酒気の様子はないのに、いつもやけに声が大きい。美嶋陽子というこの女が何を思っているのか、俺にはそれが不気味だった。
「ヒロアキー! ただいまぁ」
「陽子さん……」
座敷の奥で息を殺していた大陽が、陽子の声にほっと息を漏らしながら出迎える。
俺は女には何も返すことなく、靴を履いて横をすり抜けた。
日本の夏の暑気は、夜になっても拭われることはない。纏わりつくような熱気を振り払うように、俺は自転車に乗った。
俺の肉体は、未だあの独房にある。『神官』たちは、とっくに俺の中身が逃げ出していることに気が付いているはずだが、特にアクションは起こしていない。それも気になった。
自転車を転がして到着したのは、俺が『辻 聖』を殺し損ねた城跡。そこにはすでに、あいつが待っていた。俺が今、唯一手駒として扱えるそいつは、『美嶋 純』のクラスメイトである。
『キメラ』の肉体は、一つの体に二つの形を持つ。袋の様に裏と表を入れ替え、怪物としての肉体は、時に物理法則すら無視をする。巨体を持つ鳥型のキメラが、羽ばたき一つで空を飛ぶことが出来るのは、その肉体に宿った魔術的な力が作用するためだ。
魔女は、『擬態』するという。伴侶となるオスにあわせ、容姿だけでなく種すら擬態する変身能力を持っている。『キメラ』はそれを模した生物だった。
俺はこの『美嶋 純』と、もう一人しか『同期』できない。美嶋純を電波塔として、もう一人の同期者を使い、俺はアリスを探すしかなかった。
同期者は、俺との相性によってはそれなりに使えたが、あまりもたない。
記憶や意志が残り、錯乱して勝手に動いてしまう。襤褸が出ると、俺は新しい同期者に始末させてそっちに乗り換えることを繰り返した。
アリスがどこで見ているかも分からない。あいつが俺に気が付くよう、始末の傷にも工夫をした。
でもまさか、『熊手のような凶器』だなんて。ニュースを見るたび、少し笑ってしまう。
しかしどうやら『的野秀介』は、俺と相性が悪いようだ。
俺の『精神干渉』は、しょせん付け焼刃。
直接の血のつながりを利用して『同期』している美嶋純と違い、どうしても痕跡が残ってしまう。病院に隔離されていた『辻 聖』を襲わせた時点で、朧げながら記憶が残ってしまった。
『美嶋 純』が、直後に顔を合わせたのも記憶が刺激されたのか。後で純の記憶を見て焦った。
『美嶋 純』と近い間柄の人物なら、少しは俺にも情報がある。『精神干渉』には対象の情報が優位に働くので、あえて美嶋純の交友関係の中から選んだが、失敗だったようだ。
また新しいやつと『同期』して、こいつは始末しなければ。
そろそろ焦りが隠せなくなっていた。『アリス』はまだ俺の前に姿を現さない。昼間の赤い目の女のこともある。神官どもはどうして動かない?
始末ついでに、挑発してみるか。
俺は『的野秀介』を連れて、昼間行った病院の敷地内に侵入した。的野の母親はこの病院に勤務しているので、こいつとの『同期』によって、この病院の経営者である『泉』という男が名前を変えたアラン博士だということは分かっていた。それでなくとも、ここには魔女の気配が色濃く漂っている。
血の恩恵で、俺はキメラの中でもことさら夜目がきく。月明かりで影ができるほどの今日のような夜は、明るすぎると思うほどだった。侵入したのは、病院に面した雑木林と、病院敷地を隔てる田んぼの境のところだった。雑木林と田の間には錆びたフェンスが設けられているのみで、簡単に乗り越えられた。
雑木林を抜け、隣接する大学構内の方へ出たようだった。
繰り返すが、俺は夜目が聞く。刹那の間、上空から飛来したその女の気配を俺が捉えられなかったのは、まさしく女が警戒に値する魔女だということを表していた。
月を背追った女の影法師は、巨大だった。体の三倍はある翼は羽をまき散らし、下肢は黒鉄のような毛皮で覆われている。顔は黒く影が差して見えない。
女の赤い目が尾ひれを付けて閃いて、俺を捉えようと動く。
白く尖った爪が、俺の足が乗っていた石畳を削り取った。
俺が言うのもなんだが、化け物だ。
「……その子から離れなさい」
「このメガネ野郎か? それともあっち? 」
「あんたが不法侵入しているヒョロヒョロの眼鏡野郎の方よ」
「あんたみてーな毛深い女の頼みは聞きたくねえなぁ――ーーっと! 」
全身をばねのようにして跳ぶ。俺が二階の窓の出っ張りを蹴って、くるりと体をひねって着地して見せると、月明かりに女の顔が苦々しく歪んで見えた。
「おいおい、不細工な面しやがって。こいつの封印なんて、とっくに解けかけていたはずだぜ。半年前、俺がこいつを見つけた時には、この体はこれくらいの曲芸なんて朝飯前だったんだ。封印が解けてなきゃあ、俺はこいつに侵入できなかったしな」
「どういう意味! 」
女が強く羽ばたいた。俺は上着を脱ぎ棄て、距離を取る。薄っぺらい純の肩甲骨から前腕にかけてが、明らかに厚みを増す。
女の下肢と同じ黒い毛皮に覆われていくさまは、あの女に見えているだろうか。
「あっはは! ひでえ面だ! 俺にはよく見えてんぞ! あんた夜目はきくのか?それとも鳥目? 」
女は応えない。高く飛び上がった背に、丸く白い月が見える。
今日は満月。クイーンのちびすけでも知っている。……満月と新月の日は、魔術的に重要な日だってこと。
――――やべえ。
次の瞬間、白金の雨が俺に降り注いだ。
土埃にまみれて転がった俺の腹を、闇色の脚が踏む。上から差した影から、いくつもの羽が降ってきた。押し倒された俺の真上で、真紅が三日月を模る。
「夜目がきくかなんて、ほんとうに関係あるかしら? 」
「あんた強いな。もったいねえ……俺の本体で相手をしてもらいたかったよ。科学脳の俺でも分かるね。相当の魔法使いだ。そうだ。質問されていたよな? 魔女の眷属として答えるべきか? 」
「そうね。二、三聞きたいことがあるわ」
「じゃあ、俺の上から退いてくれない? 」
「いやよ。もう少し絨毯になってなさい」
女はそう言って、よりにもよって鳩尾のあたりに、どっかりと座り込んだ。呻く俺の顔を面白そうに眺め、長い尻尾を腿に絡めてくる。
「あんた……純のやつの何なんだ? 彼女か?」
「あら。今はわたしの質問に答える時間でしょう? 純の封印が解けていたって、どういうこと? 封印はどういうものだったの」
「こいつの封印は、あらゆる魔術干渉を遮断、無効化するというものだ。純は自分の裏側にある『キメラ』としてのもう一つの体を遮断して、ヒトとしての体だけで成長した。アリスや俺の能力は、外的な魔術干渉にあたる。だから封印が残っていたとしたら、俺たちは干渉できないし、こいつの存在も分からなかっただろうな。魔女はアリスが『精神干渉』に到達すると分かっていて、こういう封印にしたのかね。純自身にも自覚はあったはずだぜ。わざと隠してたんだ」
「なぜ純は隠していたのかしら」
「自分の体がおかしいと思っていたからだろ。……おいおい、まだ話せって? こいつの頭ン中なんかを俺に話せっていうのか? 」
「こいつは絶対に言わないわ。それが分かっているから、あなたに訊いているの」
「……そうだな。こいつ、自覚が無い猫かぶりだからな。人畜無害な優等生みてーな扱いされてるけどよ、とんでもねぇエゴイストだよ。じゃなきゃあ、家族同然の男を一度殺した記憶があって、普通に暮らすかよ。こいつはなぁ、家族の安否よりも、自分が普通に暮らすってのが重要なんだよ」
「……そうね。こいつはそういうやつだわ。誰かを殺しても、きっと何事も無かったように、日常を過ごすふりが出来るんでしょうね。でもこいつは、あんたとは違う。まずこいつは誰も殺さないわ。誰かを必要以上に傷つけたりもしない。こいつはね、自分の日常を崩さないかわりに、他人の日常も崩さないの。怒っても、悲しくても、表に出しちゃいけないと思ってる。自分の中にある欲望や衝動を怖がっている。……こいつにとって普通の子供でいることがね、あんたにとってのアリスの存在と同じだけの重さなの。あんたは、そんな純が嫌いなんでしょう? わたしも嫌いだったわ。気持ち悪いと思ったもの」
「……性格の悪いやつだな」
「わたし、父親似なの。怒らせると怖いのよ? 」エムは、俺の胸を指先でなぞった。「……でもこいつは、怒らせたらわたしよりもっと怖いでしょうね」
「ふうん。そんなら見てみたいもんだね。怒り狂ったこいつの姿ってやつをよ。ここじゃなきゃあ、おまえとは仲良しになれたかもな。俺はそういう物言いのやつ、嫌いじゃねえよ」
「そうね。あんたと話すのは楽しいわ。わたしたち、相性は悪くないと思うの」
「でも今は、そういう状況じゃあねえもんな。未来人って本当か? 」
「そうよ。未来を知っているの。悲しいことだわ」
「微塵も思ってねえだろ」
「そうね」
「……性悪め」
「卑屈男に言われたか無いわね」
「ゲテモノ女」
「チビ」
「ぅぅうううるせえ! 俺の本体見たことねえだろうがよ! 」
「それはどうかしら」
「……あ? 」
「このロリコン」
「はぁ? 」
首をかしげた俺の上で、女は自分の胸元に手を伸ばした。取り出した小箱の中身を右掌に取り出し、月光に掲げる。
「それは――――」
「アリスは生きている」
月に向かって、宣誓するように女は言う。
その手には、濡れた肉の塊。
どくん。肉が波打つ。それは俺のこぶしよりも小さい大きさで脈打ち、どこにもない血液を、どこかへ送り出しているかのようだった。
まさか。それは……。
成長した『精神感応』が、勝手に発動した。俺の脳裏に、一つのビジョンがぶちこまれる。
――――窓のない、大きな水槽がある部屋だ。
――――水に満たされたガラスの中に、白い魚が横たわって。
――――その魚は、瞼を開けて、青い瞳で俺を見て……微笑んだ。
ふと、月光が遮られ、俺の上に影が差す。女の背にかぶさるように、ひとつの人影のようなものが見えた。
細く引き伸ばしたような胴、手足が長すぎるシルエット、てかてかと肉色に濡れた体、そして思い出すにもハラワタが煮えくり返る、あの臭気……。
「……テメエ」
「恨まないでねチェシャー。これも未来のためよ」
「さっき見えたのは何だ! あんなもんが未来かよ! そいつの『主人』ってのはテメエなのか! 」
「あとは任せて。あなたはここで退場してちょうだい」
『アリスの心臓』が脈打ち、ぬらぬらと血に濡れた肉の奥から青い輝きを放つ。光線の様に俺の顔を照らした青を浴びたとたん、俺はブッツリと、純と繋がっていた『糸』が切れたのを感じた。