少年Cは夢を見ない
雨が降っている。横殴りで、畳針のように太く鋭い雨だ。
熱帯夜の夜だった。雨で穿たれた地面から、泥が生臭く匂い立つ。人肌に温められた水が肌を伝い、気持ちが悪い。
漏れた腑が、降り注ぐ雨で洗われていくのを、ジッと見下ろす眼ばかりが乾く。
これは何だ?
……なんだろう。
僕は何をしている?
……何をしているんだろう。
雨が降っている。
ひどい雨だ。
雨が、雨が、水が。水が、水が、水。水。水。みず。
頭の中で、何か渦巻いている。深い深い渦巻く奈落の様に黒い何か。手招くように黒が揺らめいて、その奥で青いものが、チラチラと翻っている。
その黒いものの質量は、ぎっしりと、ずっしりと詰まっている。それは羽虫のように群れて唸るような羽音を轟かせ、僕の眼球の裏側にまで満たされていている。
僕の脳みそは、こいつに流されてどこかへ行ってしまったようだ。頭蓋が重くて重くてたまらない。
気持ち悪い。
……きもちわるかった。
◎◎◎◎◎
吐き気で身を縮めて、眼が覚めた。
喉の奥から苦く固い塊がせり上がってくる。
手洗いですべて吐き出し、僕はベッドの中でまた目を瞑ったが、すぐに体を起こした。
窓の外は淡く明るい。ベッドの下からエムが顔を出してきて、僕の足元をぐるぐる回る。
窓から差し込む暁は、黒ずんだ濃い赤だった。
ずるずると、体を引きづるように部屋を出た僕の後ろを、エムが纏わりつくように追いかけてきた。
「駄目だよ。部屋にいないと見つかっちゃう」
僕を見上げて、何か言いたげにエムが鳴く。蝉も寝ている早朝の我が家を、夏に降りる湿気でしっとりとした廊下の床板を裸足に感じながら、黒猫を先導して居間に降りていった。テレビを付け、ニュースをぼうっと眺める。
胡坐をかいた僕の膝の上に、前足を乗せてエムが鳴く。
「なんだよ。本当に猫みたいだ」
エムは大人しく膝に抱かれて丸くなった。テレビ画面の左上では、五時を示している。
お天気お姉さんが言う。
「本日も相変わらずの猛暑日になりそうですね。水分補給を忘れずに。それでは、一週間のお天気です」
日付とともに、ずらりと晴れマークが並ぶ。僕はその画面の表記に目を疑った。テレビ台の下に積んである、新聞の束を引き寄せる。広げなくても、表紙の数字が目に入った。
――――今日は二十七日だって?
全身が、冷たい怖気に包まれる。昨日は何日だったかと尋ねられたら、僕は十九日と答えるだろう。そして今日は八月二十日。
……『今日』が八日後だって?
「あなたは美嶋純? 」
僕の膝に前足を乗せ、身を乗り出してエムが言った。僕は答える。
「そうだよ……」そして、付け加える。「……たぶんね」
エムが、深いため息を吐く。
「その微妙な返答……今度こそ本物よね? 」
「なんだよその質問。偽物でも見つけた? まさかねぇ」
「そのまさかって言ったら? 」
「まさか。君は誰といたっての? 」
「少なくとも、あなたじゃない誰か。大変だったの。だって、一週間以上よ? また通り魔が出たし、あなたは変だし、一人でいろいろ調べたのよ」
「……通り魔がまた? 」
手元の新聞を開く。すぐに記事は見つかった。どの新聞も、ページを割いて情報を記載している。僕は、新聞の束を持って部屋に戻る。床に座り、まず通り魔事件が取り上げられているものを抜粋した。
日付は七月十九日の朝刊。見出しは、『新たな被害者が』。
七月十八日未明、魅島パーク園内にて女性の悲鳴に駆け付けた会社員男性が、血を流して倒れていた大崎沙花さん(17)を発見し、119番したが、病院で死亡が確認された。
事件は、二月にあった会社員男性とパート従業員女性、三月の男子大学生が死亡した通り魔事件と同一犯という方向で、魅島市警察署は捜査を進めており、目撃者などの情報提供者を求めている。
ざっと見た内容は、ほぼ同じ。なかなか進展はしていないようだ。
エムは、この一週間ばかりをどう過ごしていたのか、ぐったりと首を垂らして丸くなり、ずいぶん疲れた様子だった。僕もまた、ずっしりと体が重い。
窓を開ける。すでに陽はそこそこ高くにあって、空気はぬるい。庭の枇杷の木でも、蝉が合唱を始めている。
「……純」
「なにエム。どうかした」
「あなた、この一週間のことは本当に覚えていないのね」
「覚えてないんだよ。びっくりだよね」
「……こっちを見なさい。純」
「カッコ悪いから、そっちは向きたくないなぁ……」
「馬鹿言ってんじゃないの。カッコいいところなんて見せたことないくせに」
「……未来の僕も? 」
「そうよ。あんたは生まれてこのかた、わたしにカッコいいところなんて見せたことが無いの。だから今さら。そうでしょう? 」
僕は頭を守るように腕をクロスして視界を覆いながら、壁にもたれるように座り込んだ。向かいに回り込んできたエムの毛並みが脚をくすぐる。
「僕がおかしいんだ。僕は……やっぱり、頭がおかしいんだよ」
もぞもぞと僕と壁の隙間に位置を決めたエムの質量が膨れ、柔らかい肌の腕が頭を抱えたままの僕の腕ごと包み込んで、心臓の音を聞かせるように体を寄せた。
本当は分かっていた。最初からおかしかったのは僕だ。
「……ねえエム。聞いてくれないか。本当は、もうずっと前からおかしかったんだ」
「どういう意味か聞いてもいい? 」
「他の何かがおかしいんじゃない……たぶん僕がおかしいんだ。僕だけがおかしい。都合のいい夢を見てるだけなのか、それともこれは現実で、みんなが僕を騙しているのか。きみも幻覚じゃないかって思ってる」
「……私はここにいるわ」
「本当に? 証明してくれよ……! できないだろう!? 吐き気がする。君もどうせ僕の幻覚なんだ……もう、何がおかしいのかも分からない。だって聖兄ちゃんは、僕が一度殺しているはずなんだから―――――!!!! 」
あの日から、僕は夢を見ている。