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少年Cの目撃証言

 

 とあるところに女がいた。


 果実を差しだし、太陽から体を隠すように言い、木々を育んで雷から火を与え、石を鋼に持ち替えさせ、黄金の価値を囁いて土から毒を選り抜き、星の数え方を教え、戦士を天幕で待ち、彼らが死すときにはそれを送り届け、子孫を作り、作り、作り、息子同士を争わせ、また娘と息子を婚姻させ、また息子を作り、また争わせる。

 姿変え、形変え、彼女はそれを繰り返す。やがて、彼が跨る馬や驢馬、地を這う蟲や畜生貉の類、飛ぶ鳥や、森のあらゆる生物が彼女の娘や息子となっていった。家畜ですら彼女の息子であったので、息子や娘はそれと知って兄弟を口にするようになった。

 全ての母となった彼女は、やっと旅立つことが出来る。

 そしてまた別の世界で、同じことを繰り返すのだ。



 ◎◎◎◎◎



 濃霧の粒は群れ成して、服を、その下の肌を、炙るように冷やしていく。灰色の霧は、どろりと粘的に壁を作って『羽の生えた猫』を遮った。

 寒い。足が攣りそうにしびれる。風の音で耳が馬鹿になっている。翼を取り出すのに邪魔になるからと、防寒に優れた服は着ていられなかった。

『ネコ』は翼を伸ばして、緩みかけた足の筋肉をグッと引いた。翼の切っ先で雲をバターのように割り拓き、頭から矮躯を滑らせ、彼女は目的地を探して上へ、上へ。さらに飛翔していく。

 行く先を見失うたび、馬鹿のように何度も旋回を繰り返し、どちらへ進んでいるのかもとっくに分からない。耳孔に突き刺した小さな機械はとうにいかれて、指示ところか、うんともすんとも言わない。

 死を意識してから、もう数時間たっている。最悪と言える状況だ。

 ときおり、雲の切れ間から、錦と輝く天上が垣間見える。溢れる色彩で輝く空は、この世を離れて久しいことを表している。


 次元の虚空。時空の狭間。

 何とでも呼び名はある。ここはそういう場所だ。


 体一つでなくては、足を踏み入れることも許されない。天使のラッパでも響きそうな光景だが、そこに神聖さ、崇高さは存在しない。あるのは厳粛にして無骨な規律、万物の掟、宇宙の法則を外れた試練である。そんな場所を通過しようとしたことが、そもそもの間違いだったのかもしれない。


 気が逸る。


(焦りは禁物)


 到着してからが本番だ。


(帰らなきゃいけない)


 帰りの余力も残さなければ。やることは山ほど残っている。



 唐突に、雲が晴れた。

 真っ黒な穴が見える。深い深い渦巻く奈落の穴。手招くように闇が揺らめいて、その奥の蒼穹がチラチラと翻っている。


 ネコの真紅の瞳が煌めいた。穴を見つめ、旋回しながら、彼女自身のルビーの輝きにふち取りされた瞳孔も、引き絞るように黒々と丸くなる。沈黙していた通信機が、ノイズ交じりに『突入を』と繰り返した。

「目的座標を発見。指示通り突入します……――――」



 あそこにいる。

 彼女が会わなければならない人が。変えなければならない未来が。


 彼女は、冷気を吸い込んで翼を切った。



 ◎◎◎◎◎



 時は世紀末。


 テレビは高校野球予選と全米ナンバーワンのSF映画、それと少しばかりの、真偽の定かではない不穏な噂。

 そんな、1999年の七月十八日は、太陽サンサン雲ひとつ風ひとつなく、しかし前日の雨でむせ返るほどに湿気を帯びているという、一学期最後にして最悪の天気だった。


 とうぜん、九時からの朝集会では、陽気の毒に中てられた脱落者が続出。十五分間の有り難いお言葉が終わるころには、学生たちの整列が、まるで使用後のビンゴカードのような有様であったという。

 恥ずかしながら、帰宅部のただの中学生であるところの僕もまた、その一人だった。



 我が校は学費をキッチリ取るかわり、それなりの教育を約束しているわたし立中学校だ。

 立地が都心から離れた片田舎のベットタウン。それも住宅街から離れた山の中ということもあり、進学校のくせにノホホンとした校風で、いじめも問題児も陰口も大きな話題にはならない。

 うちのクラスなんて、学年でも特にノンビリクラスだと思う。

 そのかわり、林間学校のレクレーションや体育祭などのイベント事では、テッペンにもドベにもならずに中間に収まってしまう欠点があるのだけれど。


 隣の大門(だいもん)も、そんなクラスで最たるノンビリ代表選手であった。

 背の順で最後尾の広い肩を借り、保健室に担ぎ込まれた僕は、小さな冷蔵庫に保冷剤と一緒に詰っていたオレンジジュースとクーラーで蒸された体を冷やし、ちょっといい思いをして教室に戻った。


 予鈴はとっくに鳴っている。

 ふつうなら、ここぞとばかりに学期末の掃除なんかにでも充てられるのだろうけれど、うちの学校は休みの間に業者がピカピカにしてくれるので、こういう時はわたし立でよかったと思う。じゃあ何をするかって、今は宿題の配布でもしているだろう時間である。


 しかし教室では、僕が予想していたような様子とはちょっと違った感じの空気を醸していた。担任の姿が無く、クラスメイトが腰を浮かしてめいめい雑談に勤しんでいる。席を立っている生徒も少なくない。

 保健室でちゃっかり僕の相伴をあずかった大門が、さっそくクラスメイトの(まと)()と情報交換している。



「あれだよ、あれ。通り魔。さっき見つかったんだって緊急職員会議だよ。パトカー来てたってさ」


「見つかったって何が? 」


 何がって大門。この流れなら、決まったようなもんだ。的野は眉を上げて、予想通りの言葉を吐いた。


「死体だって噂だよ……中等部の三年が見たんだって」



 その日は集団下校にでもなるかと予想したのだけれど、もろもろの大人の事情の交錯が垣間見えた結果、いつも通りの自由下校に収まったようだった。


 最後の犯行は四か月も前。それでも通り魔が横行しているというのは本当だ。

 放課後の部活動はやっぱり中止になり、全生徒いっせいに下校することと放送された。みんなもう慣れたもので、すぐに自主練の算段をしている。

 さらに加えて、休みの間もなるべく外出を控えるようにと締めくくられた。


「そんなの無茶振りってやつだよ。まっちゃん」

 誰かが投げた不満に、担任(まっちゃん)は苦笑する。


「みんなも災難だよなあ、せっかくの中学二年の夏休みがこんなんで。でもまあ、命には変えられない。二学期になったらクラスメイトが減っているなんて嫌だろ」


 新しい被害者なんて眉唾の噂だったのかもしれないと結論付けて、生徒はめいめいに家路についた。

 僕の背中には、通知表とノートと筆記用具、宿題の束と上靴だけ。



 去年も同じように、同じ帰り道を歩いた記憶がある。くっきりと白い入道雲が、波打つ田園の上で遊泳している。横の用水路で蛙が鳴いていて、蝉は姿が見えないくせに五月蠅くて、そこを歩くのは僕一人きり。これが三年生になった来年なら、もう少し緊張感があるのだろうか。


 最近、不思議な気持ちになる。

 今、この街では、誰かが死んでもおかしくないのだ。でも、何も無かった一年前とほとんど変わらない。どこが違うのかと問われれば、その『ほとんど』の中身さえ、よく分からない。せいぜい僕の身長が伸びて、記憶された月日が更新されたというくらいだ。

 世界と膜を隔てたような感覚。鳥になって高みから景色を見るような感覚。

 すべては額縁の向こうで起こる出来事とも言い換えられる。こういうことを考えるとき、僕はひたすら空しいと思う。僕って人間は、なにか欠陥があるんじゃあないかと――――……。




 ――――ふと、蝉の音が遠ざかった。


 気のせいじゃない。波が引くように、音がすごい勢いで退いていく。

 目の前にあるのは、青空と、地平線までの田畑の緑。田園の周囲には、電線すらまばらである。そんな景色に、無音が覆いかぶさる。

 蒼い空に、見えないペンがインクを垂らしたように、黒衣が僕の前に飛来した。


 鴉のような袖の無いコートを翼のように広げ、けっして広くはない畔の真ん中に、僕の行く先を遮るように女が音も無く降り立つ。乱れた黒髪がゆっくりと重力に従って収まるべきところに収まり、白い顔と赤い瞳が、睨むように僕を見た。CG? 特撮? 人形? 違う。

 よくよく見ると、それは人並み外れてきれいな顔の女の子だった。



 虫の音が戻ってくる。それでも、現実味のない光景だった。


 少女は、瞳の奥の瞳孔を針のように細くして、僕をマジマジと観察している。その様子は、猫が獲物を見定めて身を低くする時の顔に似ていた。闘争本能と好奇心が溢れて、恐ろしいほどの無表情になる。あの顔だ。

 ふと、稲田の泥の匂いに交じり、鉄くささが香った。



「……怪我、してるんですか? 」

 ぱちりと赤い目が瞬きをすると、困惑したような表情が宿った。


「あ……失礼、日本語分かる? 」


「呆れたもんね。あなたって誰にでも、そういうふうに訊く人なの? 」

 ざらついた声で彼女は言う。


 近づくと逃げられると思ったので、僕は一歩も動かずに指摘した。


「怪我しているんでしょう。血の匂いだ。晴れているのに肩のあたりが濡れているし、きれいなコートなのに裾がほつれてる。慌ててどこかに引っかけた? それに、袖から見えちゃいけないやつが見えているよ。……それは翼? 本物? 」

 ジッと赤い目が僕を睨む。吸い込まれるように、マントのようなコートの中に、その大きな白い翼は吸い込まれていった。かわりに、華奢な手首がぶら下がる。

 綺麗だった。少し見とれて、僕はゆっくりと言葉を吐いた。


「……羽があるっていうことは、もしかして天使? 」

「天使の羽は背中でしょ」吐き捨てた唇の下から、鋭い犬歯がちらりと覗いている。


「羽の生えた猫」

「なに、それ」

「わたしのコードネーム」

「長いなぁ。……あ、変ってわけじゃあないよ。それと僕は()(しま)(じゅん)っていうんだ」

「わたしに名乗って、どうするの? 」

「きみこそどうして僕に名乗ったの? 」

 今気づいたとばかりに、彼女はちょっと目を丸くしたあと、ふてくされたような顔をした。

「じゃあ、エムって呼んで」

「それって本名のイニシャル? 」

「それ以外に何が? 」


 エムの冷えた赤い目が、僕を見返した。

 僕の周りでは、『また』おかしなことが起きている。僕はそれを、ちっとも疑問には思わなかった。


 これも今となっては忘れられない思い出なのだけれど、なにぶん記憶を辿りながらの語り部なので、「こういうことがあったのかもしれない」というくらいの気持ちで読み進めてほしい。


 あの人は言った。『人間には、普通が一番良いって思う時が来るのよ』


 ――――普通に食べて暮らして、勉強や仕事をする。普通を繰り返す毎日を、いつか一番だって結論付ける時が来るのよ。それを求めることが、平和ってやつなのよね。


 ――――でも、その前に必ず『普通なんてクソくらえ』っていう前哨戦があるものなのよ。


 ――――肝に銘じてね、ジュン。


 ――――そういう時、自分の衝動にあらがう人間が、わたしは一番つまらないの。



 僕は何より平和を愛している。なるほど、そうだろう。僕が今の僕でしかないなら、彼女にとってはつまらないまま死んでいくのだと思う。でもそれは、今に始まったことじゃない。僕はずっと、生まれてから一度だって、『普通』から逸脱した環境を望んではいない。


 そう、僕はあの日、あなたに化けの皮を剥がされたんだ。エムとの出会いから、すべてあなたの掌の上だった。

 あなたにはその責任を取ってもらわなければいけない。



 重ねて言おう。僕はただの十四歳だった。……この日までは。


 さて、読者諸君は言うだろう。きみってやつは、救いがたい中二病者だ。大人になったら、そんなのは恥ずかしくってたまらなくなるんだよ。

 でもそういう世界に憧れた若かりしきみがいて、今のきみがある。



 若くて恥ずかしいきみも、まだその中にはいるんだろう? だから多めに見てよ。




 そうだろ? なあ。アリス。


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