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溺死する呆然

作者: 樫居 青

月は出てはいなかった。光源と呼ぶには余りに頼りない北の七星の下で、もういい加減に見飽きてしまってすらいたその景色を、焼き付けることも無く眺めていた。傍ら、数歩後ろの体温が問い掛けとも付かない言葉を投げて寄越す。ぼんやりと受けて流して、お前はいつも待ってはくれない、と斜陽の射さない部屋で、或いは路地裏で、独り言のように吐き出された、柔らかな声の、どこか責めるような言葉を思い出す。振り返りもせず、いっそ何かから追われて逃げているかのように、お前は一心に先を急ぐんだ。その背に触れて、お前の暖かさも、やさしさも感じられはしなくて、お前を少しでも、守ることすら赦してくれない、と。そこに隠された真意は、さあ、一体何だったのか。はたと考えるように足を止めれば、体温はぴたりと半歩後ろでやはり足を止めた。夏の匂いがした。噎せ返るようなあの夏の匂いが、直ぐ鼻先をふわりと掠めた。その季節は、爪先で触れる程に近い。大嫌いな季節だ。その大嫌いな季節を、もうずるずると幾度、生き延びてしまったろう。今はもう、名前も忘れてしまった、――ずっと前に葬った感情や、その存在の手を。間違いなく数度取って、けれど、どうしてかまだ、其方には逝けずにいる。ああ。なんて、意地が悪いんだ。何処までも意地が悪い、確かにそういう、奴だったな。

あの日とは違う体温が、おずおずと袖の端を掴んだ。ようやっと振り返って、中身もない言葉を零す。視界の端に、不意に光が点る、逡巡して、――蛍。綺麗、と嘆息を漏らす横で苦笑する。ああ何だって、似つかわしくないや。或いはねえ、君、それでも贐のつもりなのかい。照らすのは、止して呉れよ。僕は未だ、いっそ滑稽なほどに、自らを照らされることに怯えている。


けれど裏腹に、僕は傍らの体温に掌を重ねた。驚きを隠そうともせずに見上げる瞳からは、相変わらず目を逸らして、しかし今度は意味と意志と、――痛々しい決意を纏った言葉を投げた。しっかりと見据えて、怖くはないわ、と云う。その凛とした瞳が好きだった。ああ、こんな時でも、変わらずにいてくれたこの確かな体温を――……、



或いはいっそ、懐かしい音と、何処かで焦がれた感覚に包まれる。離してしまわないように固く繋いだ掌の先で、白い花がふわりと舞った、刹那、僕は夢を見る。いつだって幾らか先を往く影を、次の瞬間にはもう見失う。そうして見たのは、多分あの凛とした瞳だった。強いひとだった、と思う。けれど、弱いひとだった。僕と大差ないほどに、否、それ以上に。ばかだな、


引き留めないお前も、黙って手を取ってくれたお前も。



霞む視界は相変わらず闇に濡れている。最後に見たあの頼りない星に、僕は成れるだろうか。僕はずっと、言葉足らずのままだ。「さよなら」、


「あいしていました、おまえを、ずっと、」


零れたのは、唯、酸素と。

真水には似つかない、塩辛い雫だった。

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