チェシャ猫編Ⅱ
張りつめたように静かな聖堂の中、不意にゴトンと何か鈍い音が響いた。
咄嗟に音のした祭壇の方を見る。
あの後ここは廃教会になって、この建物は僕が買い取った。蔦の這う曰く付きの不気味な教会は誰も近寄りたがらない。
だから人が居るはずないんだ。
鼓動が乱れる。
静かに祭壇に近づき、意を決して裏側を覗き込んだ。
ーー誰か、居る。
古い毛布がひとがたに膨らんでいる。
逆光で顔は見えない。
でも、金色の長い髪の毛が朝日を浴びて輝いているのは見えた。
「――アリス?」
擦れた声であのどうしようもなく愛しい人の名前を呼んでいた。
目眩がする。
きっと幻覚だ。
遺体はちゃんと埋葬した。
居るわけない。
嗚呼でもアリスはここに!
「アリス!」
再び名前を呼び、震える手でアリスの手を握った。
た。
けれども眠たげに開かれた目は彼女の青いそれではなく、兎のように赤い目だった。
目の前が闇に飲まれる。どうしてアリスだなんて思ったんだろう。
アリスはもうどこにも居ない。
「ごめん、人違い」
握った手を放すと、彼女はゆっくりと上半身を起こした。
「王子様の登場にしてはずいぶんじゃないの」
「え」
「白雪姫展開かと思いきや人違いなんてあんまりです! 人権侵害です!!」
赤目の少女は半泣きで僕の胸のあたりを何度も叩いた。全く痛くない。
「ええと、君は?」
「白兎」
「白兎?」
「白兎」
まさか本名って事はないだろうけど、偽名を名乗る意図が良くわからなくて、鸚鵡返しに尋ねていた。
「私もう現実は捨てたんです。だから私は生まれてからずっとこの年齢だったし、これからも成長なんかしないしずっとここに住んでいてずっと緩やかな死を待っていたわ」
「どうして、死を待っていたの」
「助けてほしかったから。もう私自分で何とかするの疲れたの。童話の中では待っていれば必ず誰かが助けてくれるでしょう? だからその誰かを待っていたの。なのに……」
一旦言葉を区切って僕にキッと厳しい顔を向けた。全く恐くない。
「なのに人違いだなんて! アリスなんて主役級の人物じゃないですか!」
「ご、ごめんね」
「失格です。所詮あなたも現実世界の住人なんです。私これから死ぬんでお引き取りくださいまし」
そう言うと少女はそっぽを向いて毛布を被ってしまった。
すこぶる機嫌を損ねてしまったらしい。
さてどうしたものかと少し考えて、
「ごめんね。お詫びにどうぞ、お姫さま」
アリスへの供物とは別に持っていたチョコレイトを差し出した。
毛布の隙間から訝るような表情が見える。
「…スイートファルコンのチョコ?」
「しかもオレンジリキュール入り」
「素敵!」
そろそろと毛布から出てくると、白兎と名乗った彼女は恭しく受け取ってくれた。
伸ばされたガリガリの腕には無数の切り傷がついている。
「それじゃあ、僕はチェシャ猫とでも名乗っておこうかな」
ここでお別れしたら彼女はすぐにでも死んでしまいそうな気がして、その日の夜は白兎と一緒に教会で眠った。
石造りの教会は底冷えがしたけど、隣に白兎が居るだけでとても温かかった。
それから毎日、僕はこの教会に通うようになった。甘いお菓子を沢山持って。
最初は「死なせてはいけない」という義務感からだった。
だけど、僕が教会に行くと白兎は笑顔になってくれて、忙しくて行けない日があると不安定になって、必要とされる実感がすごく嬉しかった。
姉は救えなかったけど、今度こそは。
きっと白兎を救うのは簡単な事じゃないけど、君のために生きようって決めたんだ。
君が死んだら絹と宝石と沢山の花で飾ってあげる。
もう一人になんてさせない。
神なんか信じてないけど、君が女神なら僕は敬虔な信者になろう。
僕が夢を見せてあげる。