白兎編Ⅰ
「白」
ドア越しにチェシャ猫さまの呼ぶ声が聞こえる。
でも絶賛立てこもり中だから返事はしないで、外国の童話を読み続ける。鍵はこの前自分で取り付けた。
「出ておいで」
出てきません。
「開けるよ」
開きません。
鍵穴に鍵を差し込む音がして、ドアノブを押さえる間もなく鍵が開いた。
嘘だぁ……。
「何で鍵持ってるんですか」
呆れて私は本から目を離して、チェシャ猫さまを見上げた。
「白兎の部屋だからね」
あまり答えになっていない返答を述べると、チェシャ猫さまは私を抱き寄せた。
ねずみ取りとねずみが結婚する童話が私の膝から滑り落ちる。
素直に抱かれるものの、自ら腕をまわす事はしない。
「包帯、取っちゃったの?」
今朝、チェシャ猫さまに左腕と左脚に包帯を巻いてもらった。
けど、邪魔だからさっき取った。
剥き出しになった肌には幾つもの茶色かったり赤かったりする傷口が醜く覗いている。
「傷口を労るのは趣味じゃないの」
尚もとげとげしい口調で答える。
「だめだよ、ちゃんと治さなきゃ」
チェシャ猫さまは私の腕を掴み、唇を寄せる。
今度はだいぶ抵抗してチェシャ猫さまの手から自分の腕を抜こうとしたけど、忌々しい事にやっぱり力では敵わない事を悟り、諦めてされるがままになった。
傷口に柔らかくて生温かい感触が伝わる。
「僕のせい?」
「別に……いつもやってる事じゃない」
声が震えた。
「理由もなくしないでしょう」
「分かってるくせに! もうそれ以上掘り下げないでよっ!!」
気付くと金切り声をあげていた。
チェシャ猫さまの事は大好きだけど、私の気に入らない行動をとるチェシャ猫さまは大嫌い。
「ごめんね」
そう耳元で囁くとチェシャ猫さまは私をきつく抱き締めてくれて、私はもう何も言わないでただ泣いていた。
おはなしの中では魔女が杖を振るえば何でも解決しちゃうけど、私はどうしたって登場人物にはなれないみたい。
根本的な解決も図らないままなぁなぁにして、風化させて、私達は今まで上手くやってきた。