三月兎編Ⅱ
手をつないだまま蔦の絡まるアーチを奥へ奥へと進んで行くと、そこは古い教会でした。
ステンドグラスに細かい亀裂が走り、外壁の一部が崩れかけているその建物は、半ば草に埋もれるように建っていて、まるで死んだ人みたいだと思いました。
夜になったら何か科学的じゃない生物が出てくるに違いありません。
「おかえりなさいっ!」
彼が扉を開けると同時に出てきたのは非科学的な生物でも何でもなくて、私と同じくらいの年の女の子でした。
科学的存在ではあるもののこんな生を感じられない建物の中に女の子が居た事に驚いて、それから……少し、がっかりしました。
「チェシャ猫さま、今日はどんな……」
言いかけてその子は私に気付き、言葉を変えました。
「だれ?」
こわばった声が、刺さる。
「三月兎だよ」
さんがつ……?
当然のように言われて思わず自分が自分である自信が揺らいだけど、私は生まれてこのかた三月兎って名前だった事 は一度もない、はず。
「そう。私との事は遊びだったのねっ!」
何やら勘違いされている!?
「いえ私は……」
弁解し終わらないうちに女の子は踵を返すと、「リコンチョーテーよ……イシャリョーだわ」などと物騒な言葉を呟きながらどこかへ行ってしまいました。
「ごめんね、反抗期なんだ」
チェシャ猫さんは特に大したことでもなさそうに私を中へ招き入れました。
反抗期で片付けてもいいのでしょうか。
「あの、私の名前……」
「ここでは」
名乗ろうとする私を制して、彼は静かに笑いながら言いました。
「皆通称で呼びあってるんだよ」
「そう、なんですか……」
外よりはましなものの、教会の中は石造りのせいか底冷えがします。
周りを見渡してみると木の長机が1列ずつ左右に並べられていて、奥には白いクロスのかけられた祭壇と壁に取り付けられた大きな十字架。
高い天井にはステンドグラスのはめられた窓。
ひび割れているせいで、隙間風が容赦なく入ってきます。
水のたまったバケツが数ヶ所に置いてあるのは目の毒になるのでこの際見えないふりをする事にしました。
「代わりの服を用意するね」
「ありがとうございます」
少しして戻ってきたチェシャ猫さんから渡されたのは、長袖の黒いワンピースでした。
胸元は黒いリボンで編みあげられていて、袖はパフスリ ーブ。膝丈の裾には黒いレースがついていてとても可愛らしいデザインをしています。
でも、普段は服に頓着しないのでこういった服を着るのは少し抵抗があります。
さっきのあの人の服なんでしょうか。
でもあの人はとても細かったから、このサイズだとぶかぶかだろうな。
部屋から出て聖堂に戻ると、机の一つに白いテーブルクロスが敷かれ、沢山のお菓子が用意されていました。
なんだかおとぎ話の世界にいるみたいです。
「うん、可愛い」
恥ずかしくてただ曖昧に微笑んでおきました。
「紅茶は飲める?」
「あ、はい、好きです」
冷えた身体に熱い紅茶が染み込んでゆく。とてもほっとする感覚。
「僕はチェシャ猫。さっきのは白兎で、他にヤマネもいる 」
「そして君は三月兎」
「どうして三月兎なんですか?」
なんだか本当におとぎ話でされる会話のようで困惑しました。
「だって君は僕に着いてきたじゃない」
真面目な顔で不思議な事を話すチェシャ猫さんに、少しの恐怖と強い興味を抱きました。
きっとこの人は私に幸福をもたらしてはくれない。 だけど、抗いがたい程に惹かれてしまっていました。
「また来てもいいですか?」
あの女の子の顔が脳裏によぎったけどすぐにそれをかき消しました。
「勿論」
「通称で呼び合う事、それから現実を持ち込まない事。この二つを守ってくれればいつ来てくれてもいい」
そう言ってチェシャ猫さんは微笑んでくれました。
明日もまたここに来ようと思いました。 私は三月兎だから。