三月兎編Ⅰ
ここ数日はずっと梅雨らしい天気でした。
私は紫陽花に埋もれたまま、容赦なく突き刺さってくる雨をただぼんやり見ていました。
濡れた葉っぱが脚や顔にへばりついて気持ち悪いけど、もう動きたくなくて惰性のままに雨に打たれているより他になかったのです。
ずっとずっとずっとずっとこのまま動かないでいたらいつか風景に溶けて消える事ができるんじゃないかっていう妄想が私の中を巡ります。
どれくらいそうしていたでしょうか。
「大丈夫?」
よく通る低い声が私に対して向けられている事にはすぐに気付きませんでした。
心配の言葉をかけてくれる人なんて、今まで誰もいなかったから。
「大丈夫……です」
大丈夫じゃないけどそう答えていました。『私の事は放っておいてください』って意味を込めての、軽い拒絶。
しょうがなく大丈夫であるよう見せかけるために、だるい身体を紫陽花から無理矢理引き剥がす試みをしようとしました。
もう既に侵蝕されてて根っことか生えてたら面白いのに。
と、思ったのと反対に力を入れるまでもなく身体は紫陽花から離れていました。声の主が引き上げてくれたのです。
私の顔を覗き込んでいるのは細身の若い男性でした。
「紫陽花には 毒があるから危ないよ」
身体が熱くなるのを感じて初めて自分が冷えすぎていた事に気付きました。
自分の手を見ると紫陽花に染まったかのように紫色に変色していました。
軽くめまいがする。
服についた紫陽花の欠片を払い落としていると、男性は傘をこちらに傾けて
「傘は?」
と聞いてきました。
「あ……傘は……ないです」
昨日から断続的に降り続いていた雨だから、少し苦しい言い訳かもしれません。
「雨宿りしていかない?」
どこか夢心地で、何も考ないうちに頷いていました。
知らない人に着いていっちゃいけません、なんて小さい子どもでも知ってる事だけど、そんな常識すらどこかへ消えていました。