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【夢幻の大陸詩】 Blue Bird & Black BloomⅠ ~勇の章  作者: 水城杏楠
二十一章  落ちないために
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 すぐに国境に着くと彼―――セトと名乗った青年は言っていたが、ユティアにはそれまでの時間が長かったのか短かったのかよくわからなかった。

 緊張で身体が強張っていたのか、ほとんど身動ぎすらせずにじっと座っていたが、急に馬車が止まり、セトがその扉を開けたときに、やっと顔を少し上げることができた。それまで眠っていたわけではないのに、自分がどこを見ていたのか記憶になかった。急に覚醒した気分でゆらりと視線を扉のほうに向ける。

(―――明、る、い……)

 馬車の窓はすべて閉じられていたから、時刻を知れるものは何一つなかった。だが、扉から見える光の色で、夕方なのだということがようやくわかった。

 眩しい緋色の夕陽に目を細める。

「国境が開いていない?」

 いつも余裕の口調を崩さなかったセトが、少しだけ声を荒げるのが、馬車の中のユティアにも聞こえた。顔を出すのは躊躇われたが、話をなるべく聞こうと扉のほうに近づいてみる。

「どういうことですか? こんな急に? 政情が悪化したわけでもないでしょうに」

「はあ。俺にもよくわかんないっすよ。ただしばらく閉鎖するの一点張りのようで。この先にはもう宿舎はありませんけど、どうしますかね、お客さん」

 この馬車の御者と話をしているようだった。半開きの扉から、頭が出ないように外を少しだけのぞいてみると、セトや御者の姿は見えなかったが、ここから少し距離はあるが、街道沿いに一つの建物が見えた。

 ここまで旅をしてきたユティアも何度か見たことがある、旅人用の国営の宿舎だ。どこにあっても建物が似通っているのですぐにわかる。旅人が多く通る場所に建てられている施設だが、エヴァンではまだそれほど普及していないし、追われている身のユティアたちは国営の施設などに泊まれるはずもなかった。

(国境が、閉鎖? ってことは出られないの?)

 今のユティアにとっては朗報だろう。このままカストゥールに入国してしまえば、カディールたちが追いかけてくるのも難しくなる。

 この宿舎にしばらく留まるのだろうか。それならばそのうちにリトルセも目が覚めて、二人で逃げ出す好機もあるかもしれない。

(リトルセ……早く起きて)

 一人で考えるのは不安だから……。

(―――そうだっ。魔道。リトルセは魔道で眠らせたとか言ってた、と思うから、魔道で起こすことはできないのかな……)

 シオンも魔道で人を眠らせたりしたことがあった……ような気がする。でもどうやったらいいのか、肝心の方法がわからない。おかしなことになってリトルセを傷つけることになったら取り返しがつかないし、外にいるセトに気づかれてしまわないとも限らない。彼は魔道使いなのだろうか……ユティアにはそれすら判別できなかった。

(ど、どうしよう……)

 何を考えてもユティアには最善の方法など見つけられなかった。

 奴隷のときは従順でいることだけを求められて、意志は必要なかった。それなのに今、何かをしようと思っても結局何一つ動けない自分に気づく。

(カディたちに頼ってた、から)

 一人になると、彼らの存在がよけいに大きく見えた。奴隷から解放されても、ユティアは何一つ自分で決めていなかったのだ。

(……リトルセはいつもずっと、一人で頑張っていたのに)

 小柄なユティアよりもさらに小さな手を、恐る恐る取ってみる。自分のかさかさの手では申し訳なくなるほど、滑らかな肌。

(起きて。いっしょに逃げよう。リトルセだって、カリスさんとエンディーンが待ってるんだから……それに)

 ユティアは怖いとしか思えないけれど、リトルセには優しいらしいジュリアス。

(そうか、あのひとはえらいひとだから、何か出来るかもしれない)

 カディールやシオンは個人の能力はたしかに強いけれど、ジュリアスは権力を使うことができる。もしかしたらこの国境閉鎖も彼がやったのかもしれないと短絡的に思ってしまうが、たしかにその可能性がないわけではなかった。

「……ぅ―――ん」

 そのとき、ユティアが握っていた小さな手が少し動いた。まだ握っていたことに気づいて慌てて手を離すと、リトルセの唇がわずかに動いた。その声が外に漏れることはなかったが……。

(―――『ジュリ、ア、ス、さま』? そう、言ったのかな)

 そんな気がしたとき、リトルセの瞼がゆっくりと開かれた。薄緑の双眸が、ぼんやりとユティアを見つめる。

「あ―――リトルセ」

 驚きすぎて、それ以外の言葉が浮かばなかった。どうしてこんな急に覚醒したのだろうかと考えても、何かをした覚えのないユティアにはわからなかった。ただ、ユティアが考えていた同じ名前を、リトルセが最初に口に出したことが意外だった。

「……―――?」

 リトルセは何かを言いかけたようだったが、掠れた声しか出てこなかった。ゆらりと儚げな瞳に影を落としたまま、ユティアに問いかけているようだった。

「えっと……ね」

 外に漏れないように、ユティアは手短に自分の知っている状況を話した。その間にリトルセの脳裏もはっきりしたようで、自分で上体を起こしながら、あまり上手でないユティアの説明を熱心に聞いてくれた。

「―――誘拐、ということですか? トゥールに行くと……」

「う、うん……そう言ってた」

「フィオナ様が、どうしてそんなことをしたのでしょう……?」

 リトルセからその名前を聞いて、ユティアはやっとその推測に気づいた。

 彼女が手引きしなければクラウド家の屋敷から二人を連れ出すことなどできるはずもないのだ。あんなに穏やかな姫君が誘拐の手伝いなど、ユティアには想像もできないことだったが、リトルセは事実を冷静に受け止めているようだった。

「……今はそのセトという方は、宿舎のほうに行ってしまったようですわね」

 リトルセは大胆にも扉から少し頭を出して、御者台のほうを確認した。セトという青年も御者も、馬車の周囲にはいないようだ。

「馬が二頭ありますわ……あれを取って逃げましょう」

「えっ? で、でもわたしは馬なんて……」

「そんなことをおっしゃっている場合ではありませんわっ」

 可憐な容姿に似合わず、度胸が据わっているリトルセは、小声ながらもきっぱりと断言し、扉を開けてさっさと外に下りていった。その行動にはらはらしながらも、ユティアも後に続く。

 まだセトが戻っていないことを確認しつつ、リトルセは馬に近づいた。

 きっちりと結んでいるロープを、非力にしか見えない指で器用に解いていく。驚嘆の表情を浮かべるユティアを少し振り返りながら、リトルセは……たぶん笑みを浮かべたかったのだと思う。

「これは慣れれば簡単にできるのです。きつく結んでいるようで、緊急のために簡単にほどけるようになっているのですって」

 リトルセの屋敷にいる間、彼女は何度か広い庭で乗馬を楽しんでいた。ユティアは相変わらずカディールの介助がなければ背に乗ることもできなかったが、リトルセは華奢な身体で大きな馬を悠々と操っていたのだ。

 それもすべて、ジュリアスが教えたこと。

 タンデラの笛の音も。笑い方も……。

 いつだったか、リトルセはそう言って、彼に教えてもらった方法でユティアに笑いかけたのだ。

「早く逃げましょう」

 そう言われてユティアは頷きかけ、だが何かが近づいてくる音を聞いた気がしてはっと顔を上げた。

(あのひと……戻ってきたのかも……)

 だが、それは人の足音ではなかった。

 ユティアが振り返ると、見えるのは小さな影。だがものすごい速さで近づいてきているためにあっというまに大きく見えた。

 それは、全力疾走の馬―――。

「―――えっ! ちょ……っ」

 無意識のうちにユティアの口から声が漏れ、リトルセも振り返った。

 だが、もう何かをする余裕は欠片も残されていなくて……。

(ぶつかる……っ!)

 そう思っても、身体は上手く動かない。ただ、衝撃を覚悟した。

 条件反射で目をつぶってしまったから、何が起こったのかよくわからなかった。だが、予想していた衝撃はなにもなく、すぐそばで突風を感じて髪が無造作に揺れ、その直後に何かが壊れる轟音を聞いた。

(……な、な、なに……が?)

 数歩後ずさりながらも恐る恐る目を開ける。

 ユティアの横にあったはずの、馬車の形が変化していた。屋根は落ち、壁も壊れて中どころか反対側までよく見える。さきほどまでユティアたちが座っていた椅子も真っ二つに割れ、無残な姿だった。

 そして、その大破した馬車に頭から突っ込んだ……旅人風の男。そばには彼が乗っていたらしい馬が涼しげにたたずんでいる。この馬の背から落ちたのだろう。

 ユティアがゆっくりと何度か瞬きする間に、彼は何事もなかったかのように立ち上がった。派手な音で頭から突っ込んだわりに、彼には傷一つないようにユティアには見えた。

 ユティアの足元に、屋根を支えていた柱がからんと一本落ちて転がった。

「あぁ……ごめんね」

 彼は、まるで謝罪する意志などないかのような、無愛想な表情でユティアとリトルセを交互に見やる。

「でもちょうどいいところに」

「え?」

 リトルセが狼狽で声を上げたが、気にした様子もなく彼はのんびりと彼女が握っていた手綱を一言の断りもなく引ったくり、国境とは逆のほうにその馬を走らせてしまった。

「……な、何をするのですかっ」

「ここじゃあさすがに目立ちすぎるかな」

 抗議の声も彼に届かないのか、意味のわからない言葉が返ってきた。唖然とするだけの二人の手を取り、抵抗する間もなく、男と自分の乗ってきた馬とともに茂みのほうへ身を隠すはめになっていた。

 しゃがみこんだとき、ユティアの耳にも再び馬が近づいてくる蹄の音が聞こえてきた。さきほどこの青年がやってきた方角からだ。

 少し顔を上げて見てみると、二頭の馬が走ってくるところだった。それぞれ騎乗している男がいるが、同じ服装だ。サルナードの街で見たのとは少し違うようだが、警備兵のようだった。

「あれは国境警備隊の者では? まさか……国境を破ってきたのでは?」

 リトルセの少し硬質で冷静な声音にも、青年は緊張感のない顔つきで首をかしげ、どうでもいいことのように呟く。

「あー……うん、そう? そうかもしれないな」

 国境を破るということがよくわからないユティアは、二人の会話をなんとなく耳に入れながら、少し後ろを振り返った。

 二頭の馬が走り去ったあとがあまりにも静かだったから。ただ、なんとなく。

 けれど、その閑寂は何かの予兆だったのだろうか。

 ユティアは少し吸った息の、吐き方を一瞬で忘れてしまった。

 それほどの光景で。

 息苦しい。

 水の入った大きな瓶に頭を押し付けられた昔のことを、思い出していた。あの時と同じくらいに、息ができない。

 五感は閉ざされてしまったようなのに、なにか、独特な匂いが風に乗ってやってきた気がした。

 たぶん不快なそれ。

 そう思うのは、たった数ヶ月前まで身近にあった記憶を思い出したからなのか、思い出さなかったからなのか……。

 けれど、昔とはもう何かが変わってしまった気がした。

「ユティア、様?」

 高く清んだ声が、ユティアの呼吸を促したかのようだった。けれど、呼びかけたリトルセのほうが、ユティアの視線の先に気づいて息を呑む番だった。

(なに、これ)

 男が一人、ユティアの目線の先で倒れていた。

 知らない顔の男だったが、その茶色の簡素な服装と手に持っていた鞭が、御者なのだろうとわかった。腹に短剣が深々と刺さってて、生々しい血が流れていた。

 緑色の草を紅く染めるほど。

 ユティアたちの目の前で、その赤は今もなおゆっくりと範囲を広げていた。

「ああ、殺されてしまったんだね。君たちの知り合い?」

 この青年の口調はどこか他人事すぎて、冷淡ではないはずなのにこの状況ではそう感じてしまう。この惨劇を目の前にしても顔色一つ変えないのだから。

(セトってひとが……やったのかな……)

 この御者よりもずっと小柄で線の細い印象しか与えない青年なのにと思う一方で、謎めいた彼の瞳ならば、顔色一つ変えずにこんなこともする狂気を秘めているのかもしれないとも思う。

(―――リトルセのこといらないって、あのひとは言ってた。売るって……)

 売られるのと、殺されるのと。

 どちらが幸せになれるのだろうか。

 そんな考えがよぎり、ユティアは慌てて首を振った。

(……死んじゃったら終わりだ。売られても、また、わたしみたいに、しあわせに生きていける日が来るかもしれないんだから)

 そう思ったが、そこでふと思考は止まってしまう。

(し、あ、わ、せ―――)

 だんだんと身近になってきたその言葉。

 人並みに欲しいとは思っていても、まだどこか手の届かない存在。それが今は、自然に脳裏に浮かんできたことに気づく。

(わたし、今……しあわせ、なのかな……)

 自分ではまだわからない。けれど、こんな状況になっても、ユティアはまだ昔のようには絶望していないことを自覚している。

 まだ大丈夫だと、どこかで信じている。

「国境閉鎖なんて面倒だよね。君たちも向こう側から来たの?」

「え? いえ……わたくしたちは……」

 真剣味の欠片もない、彼の飄々とした口調に、唖然としながらもリトルセは誘拐されたのだと説明する。その誘拐犯がいない今が逃げ出す好機だとも。

「君たちは助けてくれたから、僕も君たちを助けてあげるよ」

「?」

 助けた覚えはまるでない。ただ一頭馬を放されてしまったが、その馬すらユティアたちの持ち物ではなかった。

 だが、リトルセは切り替えが早かった。彼の真意を計ろうと、すくっと彼の顔を見上げた。

 ユティアもそのとき初めて、彼の顔を正面から見やった。

 ぼんやりとして冴えない男の口調だったが、不思議な紋様の入ったバンダナで覆われた頭からゆるく波がかった長い金髪が零れ落ち、何の変哲もない服装でひときわ映えた。外見に頓着していないのか、その髪は性格同様に適当そのものだったが、顔立ちもはっきりしており、整えればそれなりの容姿なのかもしれないと思う。

 長い前髪から見え隠れするのは、青とも緑ともつかない不思議な色合いの瞳。だが、よく見るとそれは、老成した落ち着きのある光を宿しているようにも見えた。

 彼が手綱を握るのは、ずいぶんと大きな馬だ。

 馬車を引いていた二頭の馬も、けっして貧弱ではないだろうが、この馬はそれよりさらに一回りは大きく、薄茶色の美しい毛並みが印象を強く残す。

「サルナードに行きたいのですけど、歩いて行けますか?」

「行けるよ」

 リトルセの問いにあっさりと彼は答えたから、ユティアは単純にほっとしたけれど、リトルセはもう少ししたたかだった。

「徒歩でどのくらいかかる距離か、ご存知ですか?」

「通常、五日前後と言われているけど、僕は実際やったことがない」

「五日っ?」

 ここまで来るのに馬車で丸一日はかかっている。途中休憩を入れていたとしても、どれだけ遠くに来てしまったのか、ユティアはわからなかったが、五日といわれて、自分がそれだけの距離を歩いていけるとは思えなかった。

「馬車で行けばいい。馬車できたんだろう」

「貴方が壊してしまったではありませんか……」

 あきれたようにリトルセが指摘すると、彼は一瞬考えるそぶりをみせたあと、そうだったねとこれまたあっさりと頷いた。

「まあ歩けばいいよ。陸はつながっているんだから、いつかは着く」

 どうでもいいと言いたげな投げやりな口調だった。

「貴方は、どこに行くのですか? カストゥールから来たのでしょう?」

 この道の先にはカストゥール王国へ続く国境しかない。リトルセは、尋問するつもりではなく、単純な好奇心で尋ねた。

「さあ……人はどこから来てどこに行くのかなんて、誰にもわからないし」

「?」

 なにやら規模の大きな返答で、話を摩り替えられてしまった。

「とりあえず、この宿舎に泊まったら? もう暗くなってきたし、歩くなら体力必要だと思うよ」

 歩くなんて一言も言っていないが、たしかにそれしか選択肢がなくなったら、きっとそうなるのだろう。だが、同意しかけたリトルセのとなりでユティアはあっと声を上げた。

「……わたし、泊まるお金なんて持って、ないよ」

「―――あ」

 普段屋敷の奥で生活しているリトルセが金銭を持ち歩いているはずもなく、彼女もユティアと顔を見合わせた。

 そして、おそるおそる金髪の青年を二人で同時に見上げる。

「……お金? うん、僕も持っていない」

 ―――なんとなくユティアは、その返答をどこかで予測していた。



「何故あの男が、こんなところにいる……? まさか国境閉鎖はそのためか……」

 茂みの奥からセトのその呟きを聞く者は、誰もいなかった。


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