2
カディールたちがフィオナの部屋を訪れたとき、彼女はソファに深く腰掛けて膝に猫を乗せ、優雅にワイングラスを傾けていた。
まるで絵の中に住む美姫のように。
ジュリアスがいるとはいえ、何人もの男性が前触れもなく荒々しい態度で扉を開けたというのに、驚いた素振りも見せない。清楚であることを常に求められている姫君は、こんな些細なことでは動じないのかもしれない。
贅を尽くした室内に充満する、甘ったるい花の香りに、カディールは無意識のうちに顔をしかめていた。
けっして趣味が悪いわけではない装飾は、繊細で優美というに相応しく、どれも一級品であるはずなのに、その無駄な驕奢がカディールを意味なく苛立たせた。
「リトルセをどうした?」
開口一番、飛び出したその名前を聞いたフィオナが、なぜか満足そうな微笑を浮かべてゆっくりと顔を上げた。
二人の視線が交わる。その瞬間。
他人であるはずのカディールですらはっきりと、彼らの間にある、もう崩れることのないであろう強固な壁を感じた。
「ジュリアス様、ご機嫌うるわしゅう」
機嫌がいいはずはないのだが、これが定例の挨拶なのだろう。彼女の双眸には、日常の風景としか映っていない。
義務的に、事務的に。
彼女が見せる、安寧すらも。
「リトルセとユティア殿が訪れていただろう。何故いない?」
挨拶など聞かなかったかのように、ジュリアスは疑問を畳み掛けた。会話がかみ合っていないことへの失望感すら、そこにはなかった。
「……さあ? わたくしはなにも」
おっとりと話す彼女は、見た目には本当に何も知らないようだった。だが、あまりの緊張感のなさに、貴人に話しかけるのが苦手で沈黙していたカディールも、遠慮することを忘れた。こちらは一拍の時間すら惜しいのだ。
「おい! そりゃねーだろ。あんたに呼ばれてユティアはこっち来たんだ。女同士で話したいんじゃなかったのか。なんでいねえんだよっ」
「―――カディール」
言いたい放題の無礼に、さすがにシオンが口を挟む。不敬罪などと訴えられたらやっかいなことになるし、ジュリアスも自分の妻が相手となると、こちらを庇うことはできないだろう。世話になっているカリスやリトルセにも迷惑をかけてしまうのだ。
そんなことを脳裏の片隅にも考えていないカディールは、シオンに止められたことでますます不愉快になってしまう。
(ユティアのこと心配じゃねーのかよ……)
また、行方不明―――自分のふがいなさに歯をかみ締めた。
シオンはちらりと控えめに後ろに立つカリスとエンディーンを振り返った。公式にはサイロン家の使用人という立場に過ぎないエンディーンはともかく、貴族のカリスも、今はクラウド家の夫人とはいえ、エヴァン王女であったフィオナを問い詰めることなどできず、悲痛の面持ちで状況を見守っているだけだった。
しかたなくシオンがフィオナに向き直る。
「フィオナ様。突然のご無礼はお許しください。リトルセ殿とユティアはこちらに伺わなかったということですか? どちらに行ったのかご存知でしょうか?」
女性ならば誰でも虜にしてきたシオンの穏やかな美声も、褒めそやされることに慣れすぎたフィオナの前では役に立たなかった。さらさらという音が聞こえてきそうなほど艶やかな髪を揺らして、鷹揚に首を横に振る。だがそれは、シオンの質問に是とも否とも答えていなかった。
「はっきりしろよっ」
もともと白黒つけないと気がすまない率直な正義感を持つカディールが、苛立ちを隠さずに詰め寄った。だがそれすら、気にした様子もなく受け流し、細い指先が掴んでいたワイングラスをテーブルの上に置いた。
静寂の中に堕ちる、わずかな音。
(なんなんだこいつは。なんでジュリアスもこいつに好き勝手やらせてるんだ)
だが、血筋なんて関係ないといってしまえるほど、カディールも国や王族というものに対して無知なわけでもなかった。
彼らの持つ絶対的権力と恣意的言動。
理不尽さを嫌悪する本能と、それでも従属していたほうが楽だという浅はかな理性。けれど、理性が勝るから国は成り立っているのかもしれない……ときどきそう思うことがある。
一瞬の気の緩みできっと、それは脆く崩れ去る砂上の楼閣。
「はっきり……? いつも曖昧なのはジュリアス様のほう、なのに―――」
「何?」
ジュリアスが厳しい表情のまま片方の眉を吊り上げた。
相変わらず柔らかな微笑を浮かべているフィオナ。その変化のない表情の中に、悋気の欠片をカディールはたしかに見た。
場違いにすら見える、感情の不安定な揺れ動き。
だが、誰に―――。
他家の令嬢にでも手を出していたのだろうか。―――だが、その懸念をよそに、フィオナはジュリアスを見上げていた視線を、ほんのわずかカリスに向けた。
憂いを氷で固めた、無機質の眼差し。
それは、ただの問いかけだっただろうか。
(リトルセ? ジュリアスと? ……んなことあるのか)
たしかにジュリアスは、特に所縁あるわけでもなかったサイロン家のリトルセの後見人として、辛い出来事から救ってきた。だが、彼女はどんなに大人びていてもまだ十二歳という幼さ。そしてカリスとの婚約すら、ジュリアスが提案したものだと聞いているのだから、二人の間に何かあるとは思えなかった。
「リトルセ様を、救ってさしあげたのでしょう? あのとき、本当はサイロン家は断絶するしかなかったのに……」
カディールの疑問に答えるかのように、フィオナの口からはリトルセの名前が漏れた。
―――あのとき。
六年前、リトルセの父親でもある前サイロン家当主の密輸発覚による自殺と、跡継ぎとなる子らの流罪という大事件のことだ。そのとき、ジュリアスは当時まだ六歳だったリトルセだけを、幼少で女だからという理由を挙げて処罰を免れさせている。
けれどそれは、妬心を抱くような境遇ではない。羨まれるほどの煌びやかな世界を享受してきた彼女が関わるはずもない出来事だった。
「今更、何を言っている……? 彼女を助けたからといって……もしくは助けなかったとしても、お前に何の関係がある?」
ジュリアスが言い終わる前にフィオナはソファから立ち上がっていた。その拍子に膝の上で寛いでいた猫が転げ落ち、それでも綺麗に着地してみせたのだが、彼女の意識は可愛がっていたであろうそれにはもう向けられていなかった。
刹那的に揺れる瞳。
それが次に捕らえたのは、窓際の小さな棚だった。
大きな瓶が乗せられ、色とりどりの花が咲き零れている。毎日取り替えているのだろうかと思えるほど、満開の花しかそこにはない。
引き出しを開け、奥のほうにしまいこまれていたものを取り出す。
それは、片手に乗るほど小さい木箱。派手ではないものの、繊細な彫刻が施された宝石箱だった。
「リエル様、とおっしゃるのでしょう?」
その名が空気を振るわせたとき、はっと大げさなほど息を呑むカリスの呼吸が、フィオナの指がその木箱を開ける音に重なって奇妙に溶け合った。
ジュリアスの顔からは急速に怒気や諦念というものが消え、作り物のような無表情が取って変わる。
「リエル……? 誰だ」
「―――少し前に話題になったでしょう。覚えていないんですか。リトルセ様のお母上ですよ」
呆れながらもカディールが覚えていないことなどとっくに想定済みなのか、シオンが溜息とともに説明する。
「ああ……そういえば」
リエル=サイロン。
貴族出身の娘ではなく、幼いころから楽師団の一員として育ち、笛の腕前は一流だったらしい。所属していた楽師団は王家に何度も招かれるほど有名で、リエルは当時十五歳にして、サイロン家当主つまりリトルセの父に見初められて結婚したという話だった。
フィオナは木箱の中から、一枚の紙を取り出した。
古いもののようだが、綺麗に折りたたまれて破れている箇所はない。たかが紙……と思ったカディールの隣でジュリアスが珍しく握り締めたこぶしを震わせていた。
乾いた吐息とともに、冷静になりきれない声音が吐き出される。
「なぜ……お前が持っている?」
「―――『あのとき燃やしたはずなのに』?」
彼女の口調も笑みもあくまで上品で……上品すぎて、場違いに浮いた。それなのに、溶け込めないと言うよりは、ジュリアスですら下に見て、絶対的な地位にいるように錯覚した。
「けれど、なくなっては困るでしょう? 大切なもの。だからわたくしが祐筆に頼んで写しを作らせたのです」
「写し、だと」
他人の手紙を勝手に拝借したことへの罪悪感など、彼女からは感じなかった。それが非道徳な行動だとは欠片も思っていない。彼女は持っていた紙から手を離したかと思うと、木箱からまた紙を取り出した。
同じ大きさの紙が舞いながら床に落ちていく。
全部で五枚。
最後にフィオナはその木箱からも手を離した。持っていたことも忘れてしまったかのようにあっさりと手のひらを返したが、柔らかな絨毯が音を吸収した。
ことんと静かに、木箱が足元に転がった。
「安心して、ください。その祐筆はすでにいませんから……」
そう言って、彼女の視線は彫刻の壁に向かう。
一番左。
彫刻はそこから作り始められたようだ。―――楽師ではなく、筆を持った祐筆の中年女性。
滑稽なほど人間らしい表情。
永劫の幸せを手に入れたかのような微笑みを湛えて。
「まさか、これは……」
シオンがゆっくりと近づいてその彫刻に手を伸ばした。だが、触れる直前で指先が止まり、不自然に揺らいだ。長い睫毛に縁取られた瞳を軽く閉じたまま、その手は固まったように動かなかった。
「この波動……何故……」
「なんだよシオン」
珍しく動揺したような呟きを繰り返したシオンの次の言葉は、カディールがまったく予想だにしなかったものだった。
「―――これは、彫刻ではない。本物の……人間です」
「はあ? んなわけねえだろ」
あまりにも突拍子のないことだったから、カディールは即座に否定していた。
意味がわからない。人間? たしかによく似ているが、精巧な絵や彫刻など世の中にはいくらでもあるに違いない。カディールが王宮騎士だったころ、エリシャでもこういった芸術品を見てきた。
「たぶん人間の上から石膏で固めたのでしょう」
淡々としたその声は、夕食の作り方を話題にしているかのようだった。いっそ冷徹な口調のほうが、真実味があったかもしれない。
「に、にんげんって……そんなだって……これ生きてな―――」
当たり前のことを口走りそうになる。
そんなことは、一目瞭然だ。これは人間……ではなくて、人間であったものだ。
「だって邪魔だったのですもの」
邪魔。
―――何が……。
たった一言で切り捨てられた、動かない彫刻。
カディールの中から、混乱を押しのけてじわじわと湧き上がるいくつかの感情は、正常な思考を簡単に奪っていく。
世の中の不条理に憤り、それでも思い通りにはならず、ふがいない思いをしたことは何度もあった。けれどこれほど純粋に、人間が抱く正直な激昂を自覚したことはなかった。
生きる本能に正面から抗うその行為が……。
「ほかにもたくさんあるでしょう? だって、どれもわたくしのために動いてくれなかったの。けれど、この部屋を飾ってくれればとても美しいわ」
これらがまるで物であるかのように。
いや、実際に彼女にとってはワインや宝石のような、嗜好品のひとつにすぎなかったのかもしれない。
(じゃあこの彫刻のほとんどが楽師なのは……)
―――リエルは楽師だったという。
カディールは愕然とした思いで、その彫刻を一つずつ丹念に見つめた。本当は目を逸らしてしまいたいほどだったが、歯を食いしばってそれに耐える。
異常としか思えなかった。
ここはフィオナの私室なのだ。貴族に嫁いだ夫人ならば、毎日のほとんどをここですごしていただろう。彼女は、自分で築き上げてきた仮想の彫刻に囲まれて、慈愛の微笑を浮かべながら見つめてきたのだ。
正常な精神で出来ることとは思えなかった。
(なんで……なんでこんなことになったんだ。おかしいことに誰も気づかないで、カイゼのときからずっとこの女が裏にいたんだろ)
カディールは必死になってその彫刻から一つを探す。目的の女性の顔を知らなかったが、そうと思える年齢の女性はここになかった。
「リエル様は、ここにはいません……」
ジュリアスの視線も同じような懸念だったのだろうか、フィオナが無垢なままの眼差しで彼を見上げた。
「……だが、彼らはリエルが所属していた楽師団の者らだ」
「―――そう、なのか」
自分の声なのに、遠くから聞こえるようだった。
楽師団……リトルセの母の仲間たち。
「ああ。いつのまにか姿を消したということで、王宮でもしばらく話題になっていた」
連絡が取れなくなったことをフィオナの父でもあった当時の国王も、気に掛けていたという。
とはいえ、王専属の楽師団というわけでもなかったから、わざわざ行方を確かめることはなかったのだ。リエルもサイロン家の一員となってからは、この楽師団と連絡を取っていなかった。
十年前、当時三十二歳だったリエルは、二歳のリトルセとその兄たち、そしてサイロン家当主を残して病のために息を引き取った。ジュリアスは貴族として、同じ家格の夫人を見送っている。
楽師団が姿を消したという話は、それよりもいくらか前だったような気がする。
「だって……リエル様は、誰も手に入れたことのない貴方からの愛情のすべてを受けていたの……。すでに一つの愛を得ていたにも関わらず」
一つの愛。一介の楽師でありながら、サイロン家当主の目に止まって結婚。町娘が憧れる、夢のようなストーリーだ。
「ねえ? リトルセ様のお父上は、どなたなの? 教えてくださったら、わたくしも何でも教えてさしあげる……」
これほど直截的な質問をするということは、もうフィオナは答えを知っているということだろうと誰もが思った。
ばら撒かれた手紙をカディールは読んでいないが、そこに抽象的でも明確にそれとわかるものがあったのかもしれない。
彼女の嫉妬は、リトルセに向けられたものではなかった。
ジュリアスは指先すら動かせずにフィオナを見つめたまま、無表情を貫いた。だが、返事ができない―――それが返事になった。口に出して認めることの出来ない事実だからだった。
(―――嘘だろ……ジュリアスがお嬢の……)
そういえば二人の髪質はよく似ていたかもしれない。外見に頓着しないカディールはようやくその事実に思い至る。
柔らかな太陽の日差しのような、金色の髪。
「そう……」
無関心と偽善的な愛情。
カディールには、その微笑がだんだんと虚無的なものに変化していくのを感じた。それとも、もともと同じ表情だったものが、見る側の価値観でそう錯覚するだけなのか。
作られた彫刻と同じ。いつまでも変わることなく、永遠に凍りついたもの。
「いまでもわたくしのことを王家に押し付けられた厄介者とでも思っているのでしょう」
「そんなことはない」
条件反射のように、ジュリアスは否定していた。
だが、明瞭すぎる否定の言葉は、逆に不自然さを生んだ。
「でも愛してはくれないのでしょう」
愛されることに慣れすぎて、愛することを誰からも教えてもらえなかった姫君。だから当然のように、ジュリアスからの愛を受け取るつもりでいたに違いなかった。無意識のうちにそう思っていた。そんな自分を疑いもせず。
ジュリアスは沈黙のまま、ばら撒かれた手紙を丁寧にすべて拾い上げた。
最後に木箱を手にとって、その中に拾った手紙を入れてから、フィオナに手渡した。
「どうしたい? 王に訴えるか? そうしたいならかまわん。俺は失脚するだろうが、兄に無理矢理にでも家を継がせることはできるから、国も困らんだろう」
証拠だと突き出されたそれを、フィオナは受け取らなかった。
しばらくそうしていたが、ふっと溜息をついて彼は棚の上に置こうとする。それを寸前で受け取ったのはフィオナではなくカディールだった。
冷淡というよりも、あまりにも無頓着な態度。
「国とか家とか、そんなことしか考えてないのかお前は!」
我慢の限界を超えて、カディールは声を荒げた。制止しようとするシオンの手も反射的に振り払っていた。
「お前はリトルセが大事なんじゃないのか? こんな事実、もし他人から聞かされたら落胆するだろうに、そんなお嬢をなんとも思わないのか? この姫さんだってお前の奥方なんだろ。政略結婚だからってないがしろにしていいわけがあるか!」
自分がどれだけ偽善的なことを口走ったのかの自覚はあるつもりだった。
それでも、この状況でもまず国や家のことを心配するジュリアスが、なぜか許せなく思ったのだ。彼は名門貴族であり、国でも要職についていて、きっとそれらを第一に考えることは当然の責任の上にいるのだろうけれど。
(だってそうやって、関係ないって切り捨てられた子供は……どうしたらいい?)
たった一人。無色の世界に取り残されて。
それでもリトルセが生きているのは、ジュリアスに救われたからなのだ。無愛想な態度の中に、彼女はちゃんと優しさを見つけて感じ取っている。
けれど、最後に残った一つの大きな手にまで振り払われたら……。
「―――……」
長い沈黙のあとでも、ジュリアスからの言葉はなかった。これほど答えに窮する彼を見るのは初めてかもしれない。
今更リトルセに名乗ることができないのはわかる。ならば、それが発覚しないように、彼女に決して知られることのないようにどうして動けないのだろう。諦めたようにフィオナの決断にすべてを委ねようとするだけで。
(貴族なんて優雅なだけで不自由だ……)
王宮騎士だったころは、そんな貴族たちをたくさん見てきた。王族も、貴族も、自由になるものなんて何一つ持っていない。本当は庶民が羨むようなものなんて何一つ持っていない。
大きな城も豪奢な宝石、名声すらも、彼らのものではない―――虚像の産物。
「リトルセ様を、もう守ってはくださらないのですか」
唐突に、だが感情を極限まで抑えた声音で尋ねたのは、静かな緊張感を忍ばせていたエンディーンだった。
それは冷酷な刃物のような、鋭さと危うさで。
均衡が取れずに、崩れる寸前で。
「事が露見すれば不可能だ。だが……もうカリス殿がいる」
「そうやって逃げるのか? お嬢からも、この姫からも……?」
ちらりとカディールはフィオナのほうに視線を向け―――はっと息を呑んだ。
ぽたり。
ぽたり……。
清らかで柔らかい白の絨毯に。
「―――……何やってんだっ! この莫迦っ」
このときカディールは、自分が何を叫んだかわからなかった。
ただその二つの紅い雫が、絨毯を穢していて。
その雫は、フィオナの手首から―――漏れていた。
いつのまにか彼女が持っていたペーパーナイフを、カディールが乱暴にひったくった。その反動で力なく後ろに倒れる彼女を、ジュリアスの片腕が支える。
すぐさまソファに横たえられ、医師の心得が多少なりともあるシオンが駆け寄ったが、気を失っているわけではなく、うつろな眼差しを天井に向けていた。
儚い双眸。細い肩。白皙の肌。
そのどれもが今は、哀艶の色に取って代わる。
「流れた血もそれほど多くはないようですが……」
シオンが彼女の手首を恭しく取る。これほど切羽詰った状況にあっても、彼は貴人に対する礼儀を忘れなかった。
「しばらくは……休ませてあげたほうがいいでしょう。ただし一人にはしないで。侍女らに見ていてもらってください」
この衝動的な行動の意味を、きっとジュリアスはわからないのだろう。
悲痛な状況を目の当たりにしても、表情を変えない彼をちらりと見やり、カディールはそう思った。