1
招かれた晩餐までの時間をゆったりとクラウド家で過ごしていたカリスは、サイロン家からの急使と名乗る青年が訪ねてきたという報告を使用人から受けた。
「―――急使?」
格上の貴族に呼ばれた席に急使を立てるということは、何を差し置いても最優先という緊急事態だ。カリスだけでなく、その場にいたカディールとシオンも怪訝そうに眉根を寄せた。
「急使の方はエンディーンと名乗っておりますが、いかがいたしましょうか」
「エンディーンが? ―――こちらで話をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「畏まりました」
使用人はすぐに退室していった。
「……何があったんだ?」
「さあ? 検討もつかない」
だが、彼が自ら急使として訪れたのなら、それはリトルセに関わることだろうとカディールは予想した。そして、たぶんシオンやカリスも同じ意見だろう。
「ユティアとリトルセは、まだフィオナ姫んとこか」
「念のためこちらに呼んでもらおうか」
「……いえ、もし辛い話なのだとしたら聞かせたくないので、あとでもよいでしょう」
悪い予感がするのか、硬い表情を浮かべたカリスの心遣いに、シオンは軽く頷く。この場合はたしかにそのほうがいいと思えた。
「カリス様っ」
さほど待たずにエンディーンが応接間に姿を見せる。彼の出自をカディールは知らないが、令嬢に付き従う護衛として申し分ない礼儀をわきまえた態度を普段は取っていただけに、他家で余裕なさげに声を荒げる彼の姿が、本当に緊急事態なのだと切実に訴えている気がした。
「リトルセ様はっ? ユティア様もいらっしゃらないのですか……っ」
「ユティアたちは夫人にお招きいただいて今は私室に―――」
「それはどこなのですかっ!」
「おい、どうしたんだよ。フィオナ姫んとこなんだから心配ねーよ」
落ち着かせようとして発した言葉だったが、エンディーンの形相が明らかに変化し、カディールは顔を引き締めた。尋常でない何かがあったのだ。
エンディーンは何かを言いかけたが、部屋に残るクラウド家の使用人たちをちらりと視線だけで振り返り、口を閉ざした。
使用人たちは彼の様子に気づかないまま、深く一礼したあと退室していった。
大きく一呼吸したエンディーンが、慎重な声を紡ぎだす。
「―――その夫人が……黒幕かもしれないのです」
「はあ?」
何のことかすぐにはわからなかった。
「カイゼでユティア様を誘拐するように前領主クイードに頼んだ女こそ、その夫人かもしれない……」
「何っ?」
思わずカディールは声を上げていた。壁の厚い部屋だから、外に聞かれてはいないだろうが、軽率な行動でシオンに軽く睨まれた。とはいえ、シオンの表情も普段の冷静な態度と比べると少し強張っているように見えた。だがそれは、古くからの知り合いであるカディールだけがわかるほどの変化でしかなかった。
「現領主のミントに調べさせていたのです」
にわかには信じられない話だった。
ジュリアス=クラウド夫人のフィオナは、先王の末姫で現王の妹だ。一度会った彼女は従順そうで儚げで、誰もが外のことなど何も知らない温室育ちの姫君という印象を受けるだろう。
鵜呑みにはしにくい。だが、エンディーンの緊迫した様子を見ると、この話を否定することもまたできなかった。
(たった一回じゃなんもわかんねーもんな)
人は兎の毛皮をかぶった虎にもなりうるのだから。
「……し、しかしリトルセはフィオナ様のお部屋にいるのですよ。そう簡単には入れてもらえないでしょう」
カリスの言葉に、神妙な様子でシオンも頷いた。
クラウド家の正妻だ。家族でもない男性の入室など通常なら許すはずがない。サイロン家当主であるカリスからジュリアスに依頼するのが本来なら早いだろうが、ここはフィオナ専用の別棟であるし、彼は出かけただろうと彼女は言っていた。
「シオン」
彼はすでに何かを結論付けた顔をしていた。長年の付き合いでカディールにはそれがわかった。
シオンが応接間の扉に目を向けたとき、前触れもなくそこが開いて、ジュリアスが姿を見せた。気配に気づいていたのだろう。
「何があった?」
「ご存知だったのですか」
「サイロン家からの急使ということで、こちらにも知らせが来ただけだ」
「……でも、フィオナ姫はあんたが出かけていると言ってたぞ」
カディールの指摘に、ジュリアスは片眉を吊り上げたが、驚いた様子はなかった。
妻が波紋を投げかけた、それは小さな嘘だったのかもしれない。けれど、そう思い込むためには、あまりにもジュリアスは落ち着きすぎていた。
(―――予想していた?)
彼女が当然のように嘘をつくことを……。
それをありふれた光景と認識してしまえるほど、彼らの間に真実は横たわっていないのだろうか。
ジュリアスが出かけていると言ったフィオナは、これで虚偽の発言をしていたことが明確になったが、だからといって今回の疑惑はこんな嘘とは規模が違う。
話を持ち込んだエンディーンが、ジュリアスに簡潔な説明をすると、彼の表情は見る見る険しくなっていった。
「わかった。俺が許可する。フィオナの部屋へ」
「―――おい」
あまりにもあっさりした言葉だったから、カディールはユティアが危険かもしれないということをわかっていながら、あえて彼の迅速すぎる行動を遮るようにして声をかけた。
「なんにも驚かないのか? 自分の妻がそんなひでーことしてたかもしんないのに、エンディーンの報告だけで納得するのか」
そう、迅速すぎるのだ。
彼の表情に、躊躇いや戸惑いが欠片もない。
(自分の身内が疑われてんのに、なんで否定もしないんだよ)
彼が感情を表に出すような性格でないことは、カディールもよくわかっている。だが、納得しきったような冷静な態度があまりにも不自然だ。
カディールの懸念ももっともだと思ったのか、部屋を出て行こうとしたジュリアスは足を止めて振り返った。
「今までこのようなことはなかった。―――だが、何かしでかしてもおかしくないとは思っていた。それだけだ。ユティア殿を巻き込んで申し訳なかったとは思うが」
「なんだそれは! わかってたのになんにもしなかったって―――」
「本当に、なかったのですか」
かっと思わず声を荒げたカディールを制しながら、シオンが尋ねる。口調は厳しいものではなかったが、ジュリアスはわずかに呼吸を止めた。
何もなかったことと、何も知らなかったことは違う。彼が長い間ただ放置して、見ようとしなかったもの―――それがフィオナの隠された心理の上に成り立つ真相と虚偽の狭間なのだとしたら、その咎はフィオナだけのものだろうか。
それとも……。
ジュリアスは、何も答えないまま踵を返した。
扉を開ける重々しい音が、いつまでも耳の奥で反響していた。