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「サイロン家の令嬢など利用価値もないものはいりませんよ、姫君」
寝室に続く帷が開かれる、軽い衣擦れの音がしたが、フィオナは振り返らなかった。今の醜い表情を自覚していたから。
きっと感情を隠しきれていない。
いつものように振舞っていなければ。―――王家に生まれれば、表情を取り繕うことなど簡単にできるはずだった。
一呼吸の間に、フィオナは余裕とも取れるほどの笑みを浮かべた。
「セト……時間通りね」
振り返ると、柔らかいソファに倒れこんでいる二人の華奢な身体を、セトは冷めた視線で見おろしていた。
彼はいつでも、フィオナが望むときに現れる。
「あなたの力だけでこれほど警備を手薄にしたのですか」
名門貴族の屋敷だ。さすがのセトも侵入は簡単でないと思っていたのだろう。
だが、ジュリアスの私室は別棟にある。彼や跡継ぎの子供たちの周囲はフィオナではどうこうできないほど厳戒態勢かもしれないが、それ以外の警備が少々変わろうとも、ジュリアスは気づきもしないようだった。
「……ジュリアス様は私のことなど見ておりませんもの」
フィオナは笑う。
儚く、美しく……。歳をいくら重ねても、彼女は純真な少女のような幼い表情をときおり見せる。
それは、若さを保っているのとは少し違う気がするけれど、ジュリアスも、そしてフィオナ自身も何も気づいていなかった。
そもそも、ジュリアスはフィオナのことなど気に掛けてもいない。
「何度カイゼの街から帰ってきても、あの方は何もおっしゃいませんでしたわ」
それどころか、屋敷を空けていたことすら気づいていないかもしれない。いや、気づいていてもいちいち指摘して罵倒することもないのだ。
彼の視界の片隅にも、フィオナは映らない。
「でも、貴方が欲しいものは本当に、これだったの……?」
セトが必死で手に入れようとしていたものは、フィオナから見たらなんの価値も見出せないほど、平凡すぎる少女。その素性を尋ねるほど興味も湧かなかった。
「―――本当に勘の鋭い方だ」
セトがゆっくりと近づいてきても、フィオナは無防備に彼を見上げた。
さらさらと揺れる髪に手が伸ばされる。王城で暮らしていた幼い王女のころから、当時王妃であった美しい母によく似た、蜂蜜色の甘やかな髪と褒めそやされていたそれに、彼の唇が軽く、けれど余韻を残すように触れた。
腕が彼女の背中に回り、フィオナも彼の肩に額を乗せる。望みどおりに、抱きしめられて。
セトの色素の薄い金髪は、ふわりと風のように柔らかく、実体がないような軽やかさを秘める。瞳の色も薄く、肌も透けるように白い。
人間らしい体温をあまり感じない彼のぬくもりは、それでもフィオナの心をゆっくりと満たす。
(けれど―――心なんてあったかしら……)
首筋に当てられたセトの唇の感触を冷静に意識しながら、フィオナは考える。けれど答えはわからなかった。
「イデアが探しているものはたしかに二つの星です。けれど、私はこちらのほうにより興味がある」
ユティアという少女が実は並外れた魔道力を秘めているらしいということは、フィオナも聞いていた。セト自身はたいした魔道使いでないらしいが、きっとユティアの価値はそこだけにあり、それにこそ関心が向かうのかもしれないと推測した。けれど、やはりフィオナにはどちらでもかまわなかった。
「―――なら、その少年はまだ目的のものを手に入れていないのね……」
フィオナの中で、その少年もセトも、たいした違いはないと思っての発言だったが、セトはわずかに眉根を寄せた。
不快感を表している、と取られるほど露骨ではなかったが。
「私と彼は、同じ祖国と目的を持つという以外の共通点はありませんよ」
フィオナは殺人鬼とも言われる彼を、まだ見たことはなかった。セトもサルナードに着いてイデアと接触したりすることもない。そもそも彼は、セトなど知らず、おそらく興味を抱くこともないだろう。
同じ目的……たしかに欲しいものは同じだが、本当にそれだけだった。敵対しているわけではないが、相容れることのない存在。
イデアは同じ命令を受けた何人かとサルナードにやってきたが、邪魔だという理由でその『仲間』をすべて殺し、目的の一つであった剣を手に入れた。
「排魔の活動はもうしばらく続くでしょう。あれはもう、私の手を離れたところで動いてもおかしくない。民意だったということでしょうね」
セトが唆し、フィオナが資金と情報を提供した、魔道使い排除の動きは、もうセトにすら止められないところまで来てしまっている。まだ混乱するほど大きな暴動は起こっていないが、カストゥール王国の従属国となることを多くの民が受け入れられなかったという証だ。
宗主国にこの事態が知られたらどうなるかなど庶民は考えない。高官の中にも、その危惧を抱きつつも属国扱いに納得していないという複雑な感情で動いている者もいるのだから。
「それよりも……カイゼの新領主が少々煩いことのほうが気になりますね」
こんな話題を出していても、セトはフィオナの耳元に甘く囁くような口調をやめなかった。
「そう? でももう、カイゼなどどうでもいいのでしょう?」
御しやすかった領主も変わって、もうフィオナがカイゼに行くことはないだろう。興味もとうに失せてしまった。
「しかしあの男は、リトルセ嬢の従者の情報網ですよ。のちのち貴女にとって厄介になりませんか?」
「……リトルセ、様」
セトの言葉の中で、フィオナが拾い上げたのはその名前だけだった。
ソファに倒れている彼女を、少し顔を動かして視界に入れる。幼く小さな身体は、睡眠薬のせいで睫毛一つ動かさない。
ジュリアス=クラウドの恩恵を一身に受けている娘。
「貴女の望みは、すべて叶えられましたか?」
「いいえ」
フィオナはセトにしがみつく。
「……いいえ」
淡い光の瞳はそのままに、もう一度否定の言葉だけを口にした。それだけできっと、望みのすべては伝わっているだろうから。