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 クラウド家本邸の晩餐会ということで緊張していたユティアだったが、妻であるフィオナが主催していると聞き、少しだけほっとした。

「リトルセは、何度も会ったことあるの?」

「フィオナ様にですか? 遠くからお見かけしたことはありますけれど、直にお話くださることはありませんでしたわ。陛下の御妹君様でいらっしゃるし」

 食事の前にぜひお話をと請われ、リトルセとともに長い回廊を侍女たちに案内されて歩きながら、リトルセも多少は緊張しているのかいつもより硬い口調でそう言った。

 彼女が王家の生まれだということはユティアも聞いている。だが、一度だけ会った彼女は優しそうで儚そうで、ジュリアスに抱くような畏怖はないし、血脈の尊さというものを実感できないユティアには、より身近に感じるのだ。

 先行する侍女が、回廊の最奥で足を止めて、中に声をかけようとしたところ、内側から扉が音もなく開いた。

「いらっしゃい。小さなお客様たち」

「……え? フィオナ、様」

 実際に扉に手を掛けていたのは室内にいた侍女たちだったが、フィオナもそのそばにわざわざ立って二人を出迎えてくれた。薄い萌黄色のレースを翻しながら、気さくに微笑んで室内に手招きする。

「堅苦しいのはわたくしも苦手なの。こちらでゆっくりお話でもと思ったのだけれど」

 促されるままに座ったソファは手触りがよく、ユティアの身体を柔らかく包み込んだ。

 侍女たちが手際よく飲み物を用意する。

 薄く透明な杯にユティアは目を丸くした。土器の杯しか知らなかったから、杯の中身だけでなく、背景までも見通せるそれが不思議で、まるで未知の宝石のようだ。

「それ、は……?」

「硝子ですわ。とっても高価で、透明なものは王家でしか使われないものなのだとか……」

 サイロン家でも見たことのないそれを、さすがのリトルセも興味深そうに見つめる。

「亡き父にいただいたものですわ。ワインにとてもいいとおっしゃってくださって」

「まあ、先王陛下から……」

 金持ちの商人なら何人も見てきたユティアだったが、このかなり割れやすく緻密な装飾の施された硝子は、ユティアを安く売買する程度の商人には到底手が出せないような代物だったのだろう。

 その繊細な杯を、フィオナの指先は清楚に優雅に、音ひとつ立てずに持ち上げる。その洗練された動きに、置かれた杯を取り上げようとしたユティアの手が止まった。

 まだぎこちない部分が多いが、食事作法というものをユティアもサイロン家で学んでいる。けれど、彼女の完璧すぎる洗練さは、自分が場違いなのではないかと再認識させられるのだ。

「ユティアさん、ここは公共の場ではないのですもの。気兼ねなくどうぞ」

 強張った表情に気づいたフィオナが、和やかな笑みを向けた。彼女はユティアたちよりずいぶん年上だったが、対等に接してくれるおかげで少しずつ安らげる気がしてきた。

「これはわたくしが特別に作らせたもので……お口に合うとよいのですが」

 ユティアは酒などという贅沢品を飲んだことはなかったが、少し口をつけるとずいぶんと甘かった。酒というよりも果実を絞ったジュースのようだ。

「ジュリアス様は、まだお戻りではないのですか?」

 リトルセが丁寧な口調で尋ねる。ユティアと接しているときとはまるで異なる、貴族の子女としての彼女だった。

「あまり乗り気ではなかったようですの。……お呼びしたほうがよろしかった?」

「あ、いいえ。先日いろいろとお世話になったので、その御礼を申し上げたかったのですけれど」

「まぁ、ご丁寧に」

 フィオナはふわりと笑う。掴むことのできない雲のように。美しすぎる華のように。

 部屋にあるものは見たこともない珍しいものばかりで気になったけれど、落ち着きなく動き回ることもできず、目の前の壁の絵だけをとりあえず見ることにした。

 真っ白の壁に、様々な人が掘り込まれている。

 繊細に、優美に。

 いったい誰がこんなに細かい作業をするのだろう。顔も本物の人間のようだし、衣服も風で揺れるのではないかというほど写実的だ。

「綺麗でしょう? 彫刻家を招いて少しずつ作らせているのですわ」

 彼女が指差したところを見ると、たしかに途中から不自然に平らな壁が続き、未完成なのだと知れた。

「これは、何をしている絵なんですか?」

 貴族的な話し方を知らないユティアは、率直にそう尋ねてみたが、フィオラは嫌な顔ひとつせず、リトルセに対するのと同じ口調で答える。

「彼らは楽師たちですわ。これがミヌーでこちらがタンデラ。それにルータリーも」

「まぁ、ルータリーなんて珍しい。カストゥールの楽器ですね」

 リトルセは感嘆の声を上げるが、ユティアはその名前を聞いたこともなかった。フィオラが示したところには、ミヌーに似た楽器を持っている髪の長い女性が描かれていた。

 ユティアが奴隷として働いていたときに見たことのある楽師たちとはずいぶん違った印象だった。彫刻の中の楽師たちは、もっと楽しそうに笑い、服装も派手すぎず、貴族のようにすら見える。

「まるで音が聞こえてきそう……」

 リトルセがそんな感想を漏らし、ユティアはまた、白い壁を見つめる。

(たしかに……本物みたい……)

 動き出してもおかしくないような人々。

 楽しそうに笑っていて。

 その白さが、少しだけ……眩しい。

(けっきょくタンデラ、上手く弾けなかったなあ……)

 リトルセに借りていたその笛も、ここを離れたら返さなければならない。そういえばシオンは上手に弾いていた。

 その音を思い出す。

 なぜか耳の近くで聞こえた気がして。

 それに気を取られている間に、手からグラスが滑り落ちたことにも気づかなかった。象牙色の柔らかな絨毯に、紅い染みが広がっていく。

 それでもユティアは、顔を上げることができなくて。

 その彫刻の白さだけが視界のすべてを遮った。

「ユティア、様……?」

 リトルセの声。

 遠くで聞こえる。

 ふわりとしたソファ。その感触に、ユティアはそっと、瞳を閉じた。けれど、それすら無意識のものだったかもしれない。

 眠いのか、心地よいのか……それとも苦しいのか。

 何も分からないまま、本能に従って。

 ユティアの隣で、がちゃんともう一つの、グラスが落ちる音がした。けれど、ユティアはもうそれを聞いていなかった。


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