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セインは、寝台に寝かされている彼を見た瞬間、全員を―――リトルセすらも怒声で追い返した。
誰もいなくなった部屋に、耳が痛くなるほどの静謐だけが落ちる。
呼吸するたびに、冷涼な空気がセインののどを締め付けるかのようだった。
ここは、清浄すぎる。
だから苦しい。
(お前には相応しかろう、リース)
セインには苦痛以外の何物でもないのは、この身の穢れを知っているからだ。理想ばかりが高いこの正直すぎる男には、きっと穏やかな時を与えているのだろう。
足音も立てずに、ゆっくりと寝台に近づいた。
何の感情も見えない双眸で見おろす、白すぎる顔。
(こうなることは、わかっていたのに)
止めなかった。
彼が望んだことなのだからとどこかで納得しようとしていたが、この姿を見てしまえばもうそれもできなかった。
(リン……)
強く美しい彼女は、きっとセインを怒るだろう。
彼女はなによりも誰よりも、弟を愛していたのだから。
「……感謝しろよ」
セインは、小さな声で呟いた。
大切なひとの弟を、こんな形で失ってしまえば、またリンに怒られる要素を増やすだけだ。
(たまには褒められることもしてやらんとならん)
言い訳のように、胸中で付け加える。
とっくに気づいている。リンのためでも彼のためでもなく、セインは自分自身のためにここにいるのだと。
リンと同じくらいには、きっとこの愚かな青年を愛している。
あんな幼い姫のために、過去を、セインすらも捨てたくせに、それでも彼の選択に絶望も後悔も憤慨も、何も、感じなかった。
すべてを受け入れよう、と。
それだけを、思う。
「一つだけ、報告しておくぞ」
無表情に少しだけ、苦々しい色が混ざった。
「―――イデアは、見つからなかった。すまない」
セインはずっと、探していた。
だが、共鳴する剣はもうイデアの手に落ち、手がかりと呼べるものは何一つなかった。魔道での探索など、文字通り命取り以外の何物でもない。成功する確率は皆無で、確実に邪魔者と認識されて抹殺対象にされる。イデアの魔道力は、不自然に発生した巨大竜巻の比ではないのだ。
イデアは殺人鬼のように思われがちだが、誰も彼もを無差別に攻撃するわけではないことをセインは知っている。彼なりの正義のもと、自分にとって邪魔だと認識したときに、あっさりと首を狩るのだ。つまり、そう思われなければ、側にいても殺されることはない。だからあの剣を手に入れたあとは、目的達成とばかりに姿を消し、対峙した彼らに手をかけることはなかった。
「『朝陽』も『黄昏』も、イデアからあの男のところに行くのだろうな……」
カストゥールに代々伝わる呪いの短剣。
王から下賜されたそれらは、戦神の宿る双剣とも言われている。現実には決して解けない強すぎる呪なのだが、命と引き換えに勝利を得ることができるのだ。
だが、それをもってしても、イデアには歯が立たなかった。
戦神をも上回る、圧倒的な強さ。
「お前の過去、俺が残らず消してやる」
他国の民たち……それも仇とも言える人々に囲まれても、なお自然に振舞えている彼のために。
その心を救ってやれるのは、いつだって自分しかいない。
「イデアごときのために、お前が犠牲になる必要などない。リース」
セインはエンディーンの額にそっと手を置いた。
思ったより、ひどく冷たい。
生気をまるで感じさせない顔色。本当に生きているのかと、疑ってしまうほどだ。
少し力を込めたら、ぼんやりと手のひらが発光しはじめる。
(お前は、どこまでも馬鹿だな)
欲しいものがあるのに、それを守るためだけに命までも削って。自分のものにしようと努力もしない。
相手の幸せを願っているのだろうが、自分のそれは願わない。
呆れるほどにわかりやすく、そして哀しい生き方。
セインには愚昧としか思えないのに、こうしてその手助けをしている自分はもっと愚かで滑稽なのだろう。
「俺は別に、エリシャへの復讐を忘れたわけではないぞ」
セインもすでに、祖国のためなどと陳腐なことを言うつもりはなかった。一人の男として、ただこの憎悪が消えることは永遠にないのだ。
これできっと、彼らはセインのことを忘れないだろう。
どこまでも甘く優しく、エンディーンを迷わず助けようとした彼らなら……。そう思うと、自然に笑みがこぼれた。もともとの端正な顔立ちに浮かぶそれは、不機嫌な表情の中にあっても優美に見えた。
「リンのためにも、お前が生きていればいい。……エンディーン」
もう用はないとばかりにセインは手を引いて、何の未練もないかのようにあっさりと踵を返した。
部屋を出るときも、彼を二度と振り返ることはなかった。