3
「エンディーンっ!」
どうやって馬車から降りたのかもわからなかった。
この闇でなぜ、エンディーンの姿が見えたのかも。
ただ、走って、走って、転びそうになりながら、地面に倒れて動かないエンディーンのそばに膝をついた。
「……う、そ……よね……?」
昔もこんなことがあった。
これは、夢だろうか。
記憶の中の。
あれは、いつ?
灰色だったリトルセの世界に、一筋の白の光が差し込んだ、あの日。
けれど悪夢は、まだ続いている。
震える手がそれを確認する。冷たい頬。あのときと同じ。
荒い息も、真っ赤に染まる服も、その匂いも。
(……帰らないと)
リトルセは思う。
家出して、よかった。だって、彼を助けることができるのだから。
「早く、帰り、ましょ……やく、そく、守る、わ。私、ずっと……わら、て、あなたの、ため……」
手を握って。
何度でも助けてあげる。
約束がある限り、生きてくれるのなら。
死なせてなんてやらない。殺させてなんてやらない。
エンディーンはうっすらと開いた瞳で、リトルセを見上げていた。
「泣、か、な、い、で……」
記憶と同じ、言葉と口調を。
同じ唇が、呟いている。
けれど、リトルセはもうその結末を知っている……。あのころは、泣きたいことばかりで、この世界にはもう絶望しか残っていないのだと思っていた。ジュリアスのわずかな愛情だけでやっと呼吸していたリトルセに、初めてその言葉をくれた。
(泣かないで……て、言ってくれた)
やっと霧が晴れていくのを、リトルセは見た。
柄を握ったままの形をしている彼の右手に、ゆっくりと触れた。指を一本ずつ開かせて、自分の指に絡ませて。
「私、泣いて、ないわ。貴方のために、決めたじゃない……約束、したじゃない。守ってる、わ。いままでも、これから、も」
リトルセが覗き込むエンディーンの頬に、ぽたぽたといくつかの雫が落ちた。それでも、リトルセは笑おうと、した。
「だから、生きて、くれるのでしょ……」
エンディーンは少し、頷いたように見えた。だが、それだけだった。
長い、ため息のような、過去の影。
そして、その双眸はゆっくりと閉じていった。
はっとリトルセの顔が強張った。
口を開けても、もうそこから声は何も出てこなかった。
そこにはたしかに空気があるはずなのに、うまく呼吸できない。陸に上がった魚のように、苦しい。
「おい、早く神殿にっ!」
カディールがエンディーンに近づいた。膝をつき、素早く首筋に手を当てる。まだ、生きている。目に見える外傷はほとんどなく、かすり傷ばかりなのに、彼の呼吸がこれほど浅く、蒼白な顔をしているのがカディールにはわからなかった。
「まだ助かる可能性はある! 諦めんな」
常に前だけを向くカディールの強い声にも、リトルセは顔を上げられなかった。
泣いてはいけない。
そう約束したのに、リトルセはもう自分が泣いてしまったことに気づいてしまったから。
シオンもユティアとともにゆっくりと近づいてきたが、ふとその足を止めた。手を少しあげてユティアの行く手も遮る。
同時に、エンディーンを抱き上げようとしていたカディールも、その動作を止めていた。
「―――誰だ」
気配も殺さずに、だが足音だけはなく、近づいてくる影。
月明かりだけでもよく映える白の長衣と刺繍の入った黄金色の肩掛けが、風になびいていた。カディールの鋭い誰何にも、彼の歩みは緩やかに進む。
やがて見えてきた顔に、カディールは見覚えがあった。
「……お前、神殿の」
「ジュリアスが珍しく、よろしく頼むなどと私に言ってきましたから」
それは、数日前に海の絵を見に行ったときに会った、静かな微笑みを乗せる男性だった。