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東区の北。
神殿に近い一角で、エンディーンは短剣の鞘を握り締めて、立っていた。
あらかじめ下見をしておいた、人気の少なく適度な広さのある場所。
呪われた剣は、二本で一対。
魔道で封印していたあの箱から取り出せば、きっともう一対はこの場所を知る。その確信があった。
(光っている……)
半身を呼び寄せるかのように。
いつのまにか、その剣は鞘ごとすべて、淡い輝きを帯びていた。
呪の剣の名にはあまりにも似つかわしくない、冴えた銀の、月のような。すべてに平等に降り注ぐ、柔らかな慈愛で。
錯覚だろうと、エンディーンはそっと笑った。
リトルセの笑顔を思い出すから、そんな気がしただけだ。
「なんだ? ずいぶんと余裕だな」
後ろで壁に寄りかかって腕組みしていたセインが、呆れたような声を漏らす。どちらのほうがよりくつろいだ態度をしているのかは一目瞭然だ。
「いや」
本当は余裕のはずはなかった。
人を殺すためだけに生まれてきたような少年を、エンディーンは殺そうとしているのだから。
「まだあのお嬢さんに未練ありってことか」
「―――違う」
「リース」
「その名を呼ぶなと言っているだろう」
何度怒鳴ろうと、セインはその呼び方を変えなかった。
もう聞きたくない。過去の名だ。
だが、彼のおかげで、新しい名前を思ったよりも気に入っていたことに、エンディーンは最近やっと気づいてきた。
「……まあいい。お前が枷にしていないのなら、俺はかまわない」
何を、とはセインは言わなかった。
この剣と、名前と、過去と。
今の生活と、リトルセと。
そのどれもがエンディーンには足枷のようだった。
甘い鎖をも断ち切ろうと、今ここにいる。
「あぁ、もう無駄話をしている時間もなくなったな」
エンディーンと同時に、セインも顔を上げた。
彼の気配は、ほとんどなかった。いや、ここまで近づいてこないとまったく気づかないほど、完璧に闇に同化していた。
エンディーンも意図的に剣使いとしてそれくらいはできる。だが、彼にはそれが、無意識なのだ。
「『黄昏』?」
初めて対峙する少年は、エンディーンの想像よりもずっとずっと、幼かった。
正確な年齢は知らないが、体格から考えるとリトルセとそう変わらない。けれど、大人びている彼女と比べて、この少年は大きな瞳に裏表のまるで見えない無邪気な光をのぞかせていた。
その手に身長と変わらない長さの偃月刀を持っていなければ、どこにでもいる年相応の少年に見えたかもしれない。それほど彼は、傍目には平凡だった。
人を一瞬で殺せる武器を手にしていながら、その双眸には一欠片の殺気もなく、子供らしい純真ささえのぞかせていたのだ。
「それ、くれる?」
飴や玩具や母親の愛情をねだるように、イデアは空いているほうの左手をごく自然に差し出してきた。
「……『朝陽』を持っていないのか?」
答えを期待したわけではなかったが、エンディーンは当然のようにわきあがる疑問を気づいたら口に出していた。
間違いなく『黄昏』は近くに『朝陽』があることを知って、これほど共鳴しているというのに、彼が隠し持っていないことはたしかだった。
金色の『朝陽』。
銀色の『黄昏』。
よく似たこの片刃の短剣は、呪いの剣とも言われるが、強さや勝利の象徴的存在でもあった。
「あれは、貸して、あげた」
思いもよらず、イデアはすんなりと答えた。だが。
「貸した? 誰に」
思わず疑問が口から漏れた。イデアが信頼して預けられる人物など、このエヴァンにいるはずがなかった。
「だ、れ?」
質問の意味すらまるでわからないとでもいうように、イデアは小さな首をかしげた。
その様子に、エンディーンとセインはそれそれ眉根をよせる。まさか通りすがりの見知らぬ誰かに預けたりしないだろう。イデアは、他人を信用するような性格ではない。
(名前も素性も知らない、誰かということか。だがイデアが『朝陽』を預けるほど信頼できる者とは……)
そもそもイデアは、たとえ信頼しても名前や素性など気にすることはないだろう。彼の中にある他人の名前はおそらく、ルキだけだ。
「―――悪いが、『黄昏』をくれてやるわけにはいかない」
これを持つ資格があるのは、エンディーンやセインではないが、イデアでもない。
無意識に、その剣の柄に触れていた。
抜けという声が、剣から聞こえる気がして。
背後に立っていたセインが、一歩だけ前に出た。だが、言葉を発することなく、厳しい視線だけを背中に感じた。
(だめだ……やはり―――これを、抜くことは、できない)
これは呪いの剣。
鞘を抜くことは赦されない、罪の剣だ。
イデアはまた少し首をかしげて、エンディーンの手元をじっと見ていた。注視しているわけではなく、ただぼんやりと。
いつでも鞘を抜ける状態でいるのに、それを止めようと動くそぶりはなかった。
余裕、なのだろうか。
「邪魔するものは、いらない」
淡白だった語調が初めてそのとき、少しだけ変化した。
その声に含まれたのは、純粋な殺意だけだっただろうか。あまりにも透明すぎて、それすらなにか、美しいもののようにエンディーンには感じた。
イデアが偃月刀の鞘を抜くのを、エンディーンはかろうじて確認した。
はっと次に呼吸したとき、イデアの持つ刃は目の前で光を帯び、それを『黄昏』の抜き身で受け止める自分がいた。
無意識に、剣を抜かされていた。
カラン、と地面にイデアの偃月刀の鞘が落ちる静かな音が、あとから聞こえる。
かっと全身が熱くなるのを、ぎりぎりの精神で抑えた。
「使える、の? へぇ」
「……」
放たれる素早い剣技を、エンディーンは次々と受け止めた。けれど、それは自分の意志ではなく、身体がそう動いていた。
セインは少し後ずさりながら、二人の様子をじっと観察していた。エンディーンに少しでも異変があれば、魔道で押さえ込むために、ただ集中し続けていた。
それは突然の大雨に見舞われようが揺らぐことのないほどのものだったのだが、ふとセインは顔を上げた。
エンディーンも気づいて、イデアから距離を取ろうとしたちょうどそのとき、エンディーンとイデアの間を、何かが目に見えぬほどの勢いで通り抜け、壁に突き刺さった。
それは道端に落ちているただの枝であり、誰も気に留めなかったが、三人は投げた相手のほうに同時に振り向いていた。
だが、それがエンディーンの限界だった。
鞘と剣が、同時に手から滑り落ちた。
「エンディーンっ!」
最後に幻の声を聞いた。
少女の、高いその声は……エンディーンの荒んだ心に染み渡る。
それだけでもう。
人生すべてが、幸せだったと思えて瞼を閉じた。