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神殿に向かう道を馬車で進み、その丘が見えてきたころには日もすっかり落ちていた。
「え? 第一王子殿下? あの竜巻のときに助けていただいた方がですか?」
なにげなく今日の出来事を話したユティアだが、さすがにその正体にはリトルセも純粋な驚愕で絶句するしかなかった。
「それで、嫁にするとかなんとか、そのひとは言ってて……」
「嫁っ? ご結婚を申し込まれたのですか?」
「……あ、えっと……でもそんなこと」
リトルセなら上手な撃退方法を知っているかと思って口にしてみたのだが、大きな目をさらに大きくしてじっと見つめられただけだった。呆れ半分、驚愕半分といったところかもしれない。
「あんなやつの言うことなんかどうでもいいだろ。気にすんな」
御者台に座って手綱を握るカディールが、外からぶっきらぼうな声を投げてきた。
以前にも似たような科白を言われた。やはり、気にしているのはどう考えてもカディールのほうだった。
この話をすると、彼の機嫌は悪くなる。
だが、ユティアとしては困惑の根源をなんとかしたいのだが、そういった助言はカディールからはもらえない。ただ気にするなというだけだ。
(気にするなって言われても気にするよ……)
沈んだ表情を浮かべたユティアに、シオンは苦笑した。
「まぁ、本気とは思えませんし」
「そうなのですか?」
あの奇怪な少年とまだまともに会ったことのないリトルセは、少し首をかしげた。自分の国の王子、しかも将来の王となる予定の第一王子だ。彼女にとっては、その人柄は他人事ではないだろう。
「本気であれば拒否できなくなってしまいますから、困りますね……」
「え、え?」
意味深な言葉に、ユティアはうろたえる。拒否できない、とまではさすがに考えていなかった。
だが、神妙に頷くリトルセを見ていると、シオンの言葉もあながち大げさでもないのだろうと思える。
「相手は王子殿下ですわ。正妃には臣下の同意も必要でしょうが、側室ならば勅命を持ってお迎えできましょう」
「おいっ! いい加減にしろっ」
カディールが憮然とした声を上げた。すると、目の前にいたシオンがくすくすと笑う。
その様子にユティアとリトルセは、何度も瞬きを繰り返した。
「すみません。冗談ですよ」
「え?」
心配そうに見つめるユティアに、シオンは微笑を返した。だが、リトルセは生真面目に口を開く。
「ご冗談ではすまされませんわ。シオン様、本当にそうなってしまうかも……」
「そうなる前にカディールがなんとかするはずです」
「なんで俺なんだよっ」
「貴方がクレイ様から頼まれたからでしょう」
顔は見えなかったが、カディールが息を呑む気配をユティアも感じた。
クレイ……ユティアの兄。彼は頼まれてユティアを守っている。だから、たとえ相手が他国の王子だとしても、ユティアの意に染まぬことをさせるはずがなかった。
(カディは別に、わたしのためにいるんじゃなくて……)
兄の言葉を現実にするためだけに、ユティアを守っている。
別にそれでもいい。彼がどうであろうと、ユティアは今、たしかに救われているし、以前よりずっと幸せだと断言できる。痛みを覚えるなんて、そんな資格はユティアにはないのに。
「ああ、ちゃんと守ってや―――」
カディールの返答が、不自然に途切れた。
疑問に思う間もなく、どさっと何かが落ちる音が、馬車の中のユティアたちにまで聞こえた。
だが、それを認識するよりも早く、馬車が急停止した。
静謐の夜に、馬のいななきが響く。前のめりになりかけたユティアとリトルセを、シオンのとっさの魔道で風の緩衝を作り、事なきを得た。
それと同時に、馬車が不自然に揺れた。カディールが馬車から降りたようだ。
「大丈夫ですか?」
椅子から落ちそうになっている二人を、シオンは紳士的に助け起こす。
「な、なにが……?」
「―――噂をすれば、ということですねぇ」
シオンは二人を促して、馬車の外に出た。
無言でカディールがにらみつけているのは、道の中央で大きな袋をかかえて座り込む少年だった。カディールの手にある灯篭しか明かりがなかったが、噂をすれば、と言ったシオンの言葉が、ユティアにも手に取るように理解できた。
「やはり、落ちるな。強度が足りぬのか、いや重過ぎるのだな。これはおれの体重を軽くすれば解決するか」
噂の少年―――いや、アスティード王子が、彼らの目の前でその袋をべたべたと触り、裏側を確認しては首をかしげていた。その呟きは、変わらず意味不明だ。
「危ねえだろー、おい」
むしろ轢いてしまいたいと一瞬だけ思いながら、カディールはそう忠告した。聞いていないだろうということはわかっていたが、本当に彼を轢いてしまえば、王子の身を傷つけたことになり、こちらの有利なことはひとつもなかった。
「イデアが呼んでいる」
意外なことに、彼の口からその名前を聞いた。すっとシオンがユティアたちの前にかばうようにして立つ。
「お前、イデアってやつを知ってるのか?」
彼に何かを質問しても無駄かと思いつつ、カディールは尋ねた。すると、彼はちらりとその無邪気そうに見える双眸をカディールに向けた。おもむろに胸元から、一本の短剣を取り出した。
少し反った片刃の、珍しい形の金色の剣だった。
シオンの背中から緊張が伝わってくるのが、ユティアにもわかった。
(……まさか、エンディーンの持ってたっていう剣?)
そうならば何故、彼が持っているのだろう。ユティアまでもが緊張する。
「……っ」
そのとき、ユティアの手を小さな手が握り返してきた。
視線を落とすと、リトルセが唇を引き結んで少年の持つ剣をにらむように見つめ続けていた。その指先だけがわずかに震えているのが、触れているユティアにわかったけれど、それを勘違いかと思わせるほどに凛然とした表情だった。
「あれは、エンディーンの持っていたものと、似ているけれど違います」
リトルセはゆっくりと、自らの言葉を確かめるかのように告げた。
「エンディーンのものは、銀色でしたから」
その震える手を、ユティアも無意識のうちに握り返していた。
「これが、呼んでいる。神殿のそばにいるぞ」
誰がとは、彼は告げなかった。
けれど、全員がそれを悟った。
イデアと……エンディーンがそこにいる。