3
大切なものが、何かわからなかったから、簡単に捨ててきた。
適度に遠く、適度に近い場所に、様々なものが溢れていたし、それらを純粋には必要と思えなかった。
(誰かの泣く、声がする……)
わかっている。
それは自分では、ない。
素直すぎる感情表現。
冴え冴えとする風に乗る、暖かな声。
無色の静謐の中に存在する、たった一つの色。
(ああ、そういえば……だから救われたと思ったんだ)
そんな昔のことを思い出しながら、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
サイロン家に割り当てられた自室の寝台に、シオンは倒れこむようにして寝ていた。
(さすがに無理を、しすぎた、かな)
遠い夢を見るほどに。
今ではもう、不快とも思わない。絶望も希望も、すべて置いてきた。
そばの棚に置いたままの指輪を、元の位置にそっと戻した。それだけで身体が十分楽になったが、まだ起き上がる気分になれなくて、そのまま天井を見上げていた。
格子の窓から差し込む光は、紅い。
いつのまにか夕暮れだった。あれから仮眠してしまうくらいの時間は経っているのだろう。
気づいたら寝ていたなどという失態は久しぶりかもしれない。
安心しすぎている。誰のせいでこれほど緩んでいるのか、もちろん気づいていた。そして、その元凶が今、人間業とは思えないほどの猛烈な勢いでこちらに向かっていることも。
「シオンっ!」
カディールが部屋に入ってきたときには、シオンはすでに立ち上がって出かける支度をしていた。近くの卓子に広げてある本を見て、カディールはシオンが部屋でくつろいでいただけだと思ったようだ。
「おかえり、カディール。ユティアは見つかった?」
先ほどまでの気だるさを微塵も出さずに、シオンは尋ねる。
「ああ、あいつんとこにいた。今リトルセんとこ行ってる」
「よかった」
シオンはいつものように、カディールにも穏やかに微笑んだ。
あの少年が王子であるときっと、彼らも気づいただろう。カディールがなんとも言えない複雑な表情をしたことからもそれが伺える。けれど、それならば、王子のところにユティアは預けたほうが安全だったかもしれないとシオンの冷静な脳裏は訴える。もちろん、カディールがそんな選択をするとは一欠片も思っていなかったが。
なぜ王子がユティアに構うのかはシオンにもわからなかった。気まぐれだろうか。だがそれでも、彼が王子であるという事実は大きい。
セトが、ユティアを欲しがっている。
彼は魔道使いではなく、剣の腕もカディールにはとても敵わないだろう。純粋に相対すれば、カディールもシオンも、セト一人にどうこうされたりしない。
けれど、あの男は人を使う。容赦なく、残酷に。そして、それを他人には悟られずに、上手く、狡猾に、時に優しく。
(……危険、だ)
エリシャには足を踏み入れるべきではないかもしれない。
初めてシオンはそう思った。ここまで来たら、カストゥール側に知られている可能性が高い。いや、ほぼ確実に知られているだろう。みすみす敵中に入り込むようなものだ。
「エンディーンがどこにいるか検討ついたぞ」
まさかその情報までを得てくるとは思っていなかったシオンは、軽く眉を動かした。
「ジュリアスに聞いた。イデアっていう首狩りを探しにいったらしい」
「―――え?」
ゆっくりと目が見開いていくのが、自分でもはっきりとわかった。
(……イ、デ、ア)
その名前をあっさりと口にしたカディールは、剣の調子を確かめるなどして、すでにエンディーンのもとへ行こうとしている。
シオンの指が、カディールにもわからないほどわずかにに震えた。
本当にその名を持つ少年が、シオンの知る人物なのだとしたら。
(イデア相手では無事ですまない。たとえカディールでも)
だが、説得できる術がない。下手に相手のほうが強いから諦めろなどと言ってしまえば、むきになるのはわかっている。
カリスから首狩りの情報は得ていた。たしかにあの少年のことをシオンは一番に思い出したが、まさかという思いもあった。
エヴァンに来る、理由がない。
(いや、あるとしたら……セトと接触すること、か……)
それも推測にすぎない。
もっとも不可解なのが、エンディーンがイデアのもとに行ったということだ。呪われた剣とその過去を背負って、リトルセを裏切ってまで。
呪われた剣。
シオンには一つだけ、それに心当たりがあった。
(もしそれが比喩ではなく、本当に呪われた剣なのだとしたら)
呪という言葉と、あの箱から推測される長さ。
そして、イデア。
嫌な想像だけが膨れ上がる。論理的な考えのはずなのだが、無意識に否定したくなる。
「お、リトルセ。エンディーンの居場所たぶんわかるぞ」
「……ほ、本当ですか?」
遅れてシオンの部屋にユティアとともにやってきたリトルセが、期待のこもった双眸でカディールを見上げた。その背後には、彼らを送ってきたジュリアスの姿もあった。こちらを見ても、相変わらずの無愛想だ。
張り詰めていた空気を溶かすかのように、カディールがリトルセの頭を無造作に撫ぜてやる。エンディーンを突き放すような言い方をしていても、結局彼は、どこまでも優しいのだ。
そのままユティアに向き直って、余裕のある表情で笑った。
「あんたはここで待ってろよ」
「うん、気をつけてね。カディ」
危機感のない会話。だが、ユティアとリトルセがいるこの場で、それを警告することはできなかった。
「……待て」
喉まで出掛かっていた科白を口に出したのは、シオンではなかった。
言葉を発していなかったジュリアスが、リトルセの前に立つ。
「二人で出かけ、警備もほとんどないサイロン家に娘二人を置いていくつもりか」
使用人のほとんどいないサイロン家は、その警備も少ない。いつもなら、エンディーンがそのほとんどを担っていて問題はなかったが、今は彼もいない。カディールとシオンまでが留守にし、それに気づかれてしまえば、治安がよいとは言えない今、何が起こってもおかしくなかった。
ジュリアスはほんの少しだけ眉根を寄せて、シオンを見やった。それをゆったりと受け止めたが、結局何も言わずに、絶句しているカディールのほうに向き直った。
「だけど、首狩りんとこにユティアたち連れてくわけにはいかねーだろ。お前がなんとかしてくれるのか?」
だが、ジュリアスは既婚者だ。年頃ともいえる娘二人を、夜も更けたこの時間に連れ帰るわけにもいかないだろう。シオンは、なよやかで大人しいフィオナという姫君のことを思い出した。きっと嫉妬深いだろうと、数々の女性を見てきた勘だけでそう感じた。
「神殿に預けておけ」
「―――あ、そうか」
王都サルナードで、王城の次に警備がしっかりしている場所といえば、治外法権も認められ、どんな政治的介入も許されないとされている神殿しかなかった。王都の中央神殿ならば、さらに強固であることは間違いない。
絶対的な中立。
旅人のために夜も開かれているから、今からでも受け入れてくれるはずだった。
「私は連れていけぬが、知り合いに伝令を出してある。よき計らいをしてくれるはずだ」
「……もうそこまでしてたのか」
「万が一、だ」
彼は言うことが終わったとでもいうようにさっさと踵を返した。リトルセに挨拶することもなく。
「……ジュリアス、様」
いろいろな意味で不安を抱えたままのリトルセは、そっとジュリアスを仰ぎ見た。いつでも正論で守ってくれる、倣岸なほどに優しいひと。