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蒼い海の部屋。
ユティアが望んだ名前の部屋は、広く完璧な調和の取れた一室だった。
とはいえ、見渡す限り青や海を示すものは一つもなく、なぜ彼がいくつもある部屋の中からここを選んだのかわからない。しかも、この部屋に足を入れようとしたとき、背後にいたジュリアスがわずかに表情を改めたことにユティアは気づいた。
二人でこうして残されているのは、かなり……気まずい。
間を取り持つだけの話術がそもそもユティアには経験上備わっていないのだが、その経験豊富なはずのジュリアスは、意図的に誰かと友好的な無駄話をするようにはとても思えない。
必然的に、その広い部屋はしばらくのあいだ無音になった。
「とにかく、一人でここをうろうろされては困る」
やっと言葉を発したかと思えば、相変わらず愛想のない声の警告だった。
「警備に見つかれば侵入者扱いだ」
「そ、そんな……」
自分で訪れたくて訪れた場所ではないのに侵入者。しかも、その侵入経路はなんとも説明しがたい。たしかに誰にも見つからないのが得策といえた。
「……私とともにいれば咎められることもそうあるまいが、私もいつまでもここにいられんしな」
「でも……カディとシオンが」
きっと心配してくれて、いる。
(……本当に、そうなら)
こんなふうに誰かに心配されることを、自惚れてもいいのだろうか。
「あれの変人ぶりは理解できぬだろうが、あの滑稽な魔道は本物だ。今逃げたとしてもすぐに連れ戻されるぞ」
「……せめて、あの、連絡、とか」
「しておこう」
ジュリアスが一つ頷いた、まさにそのとき。
がしゃん、と、この洗練された美の限りをつくしたこの部屋にはまるで似合わない大きな音が響いた。
「……いてぇっ!」
続いて、これもまた似合わない大声。
だが、ユティアは誰なのかすぐにわかった。
「カディっ?」
音と声のした方向を見ると、転がった揺り椅子の近くで、ぶつけたらしい足をさすりながら立ち上がろうとするカディールがいた。その揺り椅子は、銀色で細かい装飾が施されているものだったのだが、無残にも背もたれが折れ曲がっていた。
ユティアの背中から、ジュリアスの無言の圧力を感じた。
顔を上げたカディールは、ユティアをすぐに見つけてばっとその両手を取った。すべての指を確認してから、髪の毛やら服装やらをべたべたと触ってから、やっとほっと息をついた。
その間、ユティアは何がなんだかわからずに、とりあえずされるがままに立ち尽くしていた。
「おい、大丈夫だろうな? なんにもされてないよな? まさかもう指輪、とか」
「何かって……えっと、『白鷺』が」
「やっぱり指輪受け取ったのかっ!」
怒涛のように問い詰められ、さすがのユティアもやっとその『指輪』の意味がわかった。
「う、う、受け取ってないよ」
そもそも彼に、そんな約束を渡そうという意思も感じられない。かといって、渡されても困る。……とはいえ、誰かまわず嫁だと言いふらされるからやはり困る。
「なんだ、それならいい。……っていうか、あいつどこ行ったんだ?」
「え? いっしょにいた、の?」
「あぁ、でもなにがなんだかよくわかんねぇな。まぁいいや、とりあえずあんたんとこに来たわけだし」
カディールの中で目的は達成された。あの男がどこにいこうと、どうでもよかった。むしろいなくてよかったとすら思っているのだが、そこまでの思考をユティアが知ることはなかった。
カディールはやっとユティアから離れて、後ろに立つジュリアスに目を向けた。
「ちょうどいい。お前に聞きたいことあってクラウド家まで行くところだったんだけど」
「なんだ?」
この威光をものともせずにお前呼ばわりするカディールを、特に煩わしいとも思っていないのか、ジュリアスはそっけない態度ではあったが、彼に応じた。
「竜巻と今回の魔道力の関係について」
カディールは、ユティアがここに突然飛ばされてしまった経緯を簡潔に説明した。彼の話は段取りがいいとは言えず、かなり適当でもあったが、ジュリアスは一言も口を挟まずに辛抱強く聞いていた。
「竜巻は知らん。たしかにあれは魔道力を持っているが、俺の管轄ではない」
いまだにあの竜巻がどのようにして出来たのかわかっていない。だが、今回ユティアを連れ去ったのがあの『白鷺』と名乗る少年であるならば、その出所は別だろう。彼は、突然現れてあの竜巻を消していったのだから。
「―――だが、エンディーンの目的は知っている」
「え……っ?」
思いもよらない一言に、ユティアが声を上げた。
あれほど心配していたリトルセ。早く彼を、返してあげたい。
「―――イデアのもとに行くと、彼は言っていた。首狩りの首謀者らしい」
「なんだって?」
エンディーンの腕はカディールも知っている。だがそれでも、かなりの能力を持っていたと言われている魔道使いを、いとも簡単に惨殺している首狩りに、一人で対峙しようとは正気ではない。
「そいつも魔道使いなのか? まさかあの竜巻を作れるほどの」
「そこまではわからん」
エヴァンは魔道に対してそれほどの先進国ではない。国としてもあの竜巻については調査しているようだが、ほとんどなにもわからないというのが正直なところだった。イデアという首狩りについてもまだ何も情報を得ていないようだ。
エンディーンだけが首狩りを知っている。
「じゃあ、そのイデアってのはどこにいる?」
「首狩りは西区の南に深夜、集中している。おそらくそのあたりだろう」
ジュリアスはもう言うべきことはないというように、さっさと部屋を出て行こうとする。
「あ、あの……っ」
「なんだ?」
振り返ってもらえないかもしれないと思いながら声をかけたら、彼は足を止めてくれた。肩越しにユティアを視界の隅にいれる。
「……わ、わたしはまだ……ここにいなきゃだめですか? カディも、いるのに」
「そうだな。あれもいないことだし、俺の名でサイロン家まで送らせる」
ジュリアスはあっさりと了承した。けれど、尋ねたいことはまだある。それを聞かなければ帰れない。
「あ、あの、ここはいったい……それにあのひと、は」
どう見てもジュリアスよりも年下であるのに敬語を使わせる少年。
ジュリアスは隠しても意味がないと諦めたように一つ嘆息してから、ゆっくりと口を開いた。
「ここは、王城だ」
「え? お、おう……?」
「あの男は、アスティード殿下。エヴァン王国第一王子だ」
予想していなかった回答が淡々とユティアの耳に入ってくる。
(な、なんか、今……すごい、こと、を……)
この視線を恐ろしいと思っていたことも忘れ、今の言葉だけが脳裏を駆け巡り、ただ長身のジュリアスをぽかんと見上げた。カディールまでも、先ほどの怒りがどこかへ飛んでいってしまうほどの衝撃を受けた。
「―――とにかく、あれが王子だ」
ジュリアスの口調は半ば投げやりにも聞こえた。気のせいだろうか。
「で、でで、でも、王子って、あの、河で、会った、し……」
そんなはずはない。
ユティアが想像する王子は、優しく優雅で美しく……そう、シオンのような人格だ。あんな奇術を使って人々を驚かしたり、突然会ったばかりの赤の他人に結婚を申し込んだりはしない。
「事実なのだから仕方がない」
本当に仕方がないというように、ジュリアスは珍しく頭の痛そうな、複雑な表情をその美貌に浮かべた。
たしかに彼が敬語を使う相手としてはふさわしいのかもしれない。だがあの性格。
むしろ威厳や美貌という観点でいえば、ジュリアスのほうがよほど王子にふさわしいような気もするのに。
「じゃ、じゃあ……この部屋は……なにか特別なんですか?」
ジュリアスはこの部屋を見て、顔色をわずかに変えた。それはけっしていい感情ではなかったのではないかと危惧している。
ジュリアスは再び深いため息をついた。言いたくない事柄なのだろうか。今日はそんな呆れた表情ばかりをしている。
「……このあたりは後宮だ」
「こう、きゅう?」
どのようなものかユティアは知らなかった。だが、カディールはとなりであからさまに表情を険しくした。
「つまり、王族の后妃の住まいだ」
「?」
「そしてこの部屋は、あの王子がどのような名前をつけたにしろ、通常、『貴華の間』と呼ばれている。第一王子の正妃が住まう部屋だ」
言い残して部屋を出て行くジュリアスのうしろ姿を、ユティアはただ呆然とした眼差しだけで追いかけるしかできなかった。